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1977 19TH SPARK LIGIER JS7 J.P.JARIER
1977年日本GP リジェ初の2台体制 ジャンピエール ジャリエ LIGIER JS7 1977年 最終戦日本GP 富士SW この年ジャック・ラフィーで初優勝を 果たしたリジェは初の2台目をエントリー ドライバーはジャンピエール・ジャリエ ジャリエは当年ATSで出場し R4アメリカWESTで6位入賞 その後途中チームを離脱 シャドウで1戦出場し最終戦のみリジェ 慣れないマシンに手こずり予選17位 決勝は3周目にマトラエンジンが壊れリタイア チームメイトのラフィーが5位入賞をしている ジャリエはこの後2度リジェに所属 1981年2戦のみ1983年レギュラーで参戦も リジェでのポイント獲得は出来なかった モデルはスパーク 日本GP仕様 予選17位→決勝リタイア スパークの初期頃生産 シルバースリーブ タバコブランド GITANES仕様 リジェでは唯一となるカーナンバー27 27番は翌1978年~アラン・ジョーンズがつけ 1980年ウイリアムズに初栄冠をもたらし 1981年はジル・ヴィルヌーブが付けて その後 所謂フェラーリのカリスマ ナンバーとなった
240220 J.P.JARIER 1977 27FW12C
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1990 (19TH) KIT-TAMEO LIGIER JS33B N.LARINI
1990年シーズン完走率2位 二コラ・ラリーニ LIGIER JS33B 二コラ・ラリーニ イタリア出身 1986年イタリアF3 チャンピオン(5勝) 1987年コローニでデビュー 1988年・89年オッゼラに所属 この3年間は(予備)予選落ち13回 決勝進出19回中 完走4回 最高9位 1990年はリジェに移籍 チームメイトはフィリップ・アリオー マシンは前年度の改良型JS33B チームはポイント獲得できずに 後半戦はR9より予備予選組に回るも モンテベルディ オニクスが撤退した為 R11ベルギーから再び予備予選免除 ラリーニはR6カナダから最終戦まで 11戦連続の完走と安定感があったものの 最高7位(2回)で惜しくもポイント獲得ならず 年間の完走13/16回 完走率81.2%は N・ピケ(ベネトン)86.7%に次ぐ2位タイ ラリーニはリジェを1年で離れ 翌1991年も新規モデナ・ランボルギーニに移籍 モデルはKIT TAMEO製 お馴染みのタバコGITANES仕様 リジェの1989年JS33 90年JS33B 量販モデル化されておらず発売が待たれます
231026 N.LARINI 1990 26FW12C
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1980 4TH SPARK LIGIER JS11-15 J.LAFFITE〖🏆1〗
ジャック・ラフィー通算4勝目 リジェ最高成績コンストラクター2位 1980年リジェは前年度3勝 リジェ史上最高マシンとも呼ばれるJS11の 改良版JS11/15を開幕戦より投入 エンジンは前年よりフォード コスワース ドライバーはリジェ5年目のラフィー チームメイトは新規加入のD・ピロー二 ピロー二がR5スペインGPで優勝 ラフィーもR9ドイツで勝利 両ドライバ―とも1勝含む5回の表彰台 年間順位では ラフィーが4位34P ピロー二が5位32P チームトータル66Pは年間2位で リジェ史上のコンストラクター最高成績 リジェの通算勝利は9勝 JS11~JS11/15のマシンで半数以上の5勝 モデルはラフィーが勝利したR9ドイツGP仕様 タバコ広告の規制の為リジェの代名詞の GITANESのロゴが無く 小さなフラメンコダンサーのみが マシンに貼られている
230714 J.LAFFITE 1980 1回FW12C
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1993 7TH SPARK LIGIER JS39 M.BRUNDLE
2度目のブランドル・ブランデル イギリス人コンビ LIGIER JS39 1993年はリジェはドライバ―を一新 当初は前年度にブラバムで参戦 ウイリアムズのテストドライバーも 務めたデイモン・ヒルにオファーも固辞 その後も実力者イギリス人ドライバ―で ベネトン離脱のマーティン・ブランドルと マクラーレンのテストドライバーであった マーク・ブランデルを起用 実況泣かせの2度目のM・Bコンビ結成 1976年から参戦のリジェ史上初めて フランス人ドライバ―無しとなった 当時最強のルノーエンジン2年目 マシンともマッチして飛躍 ブランドルはR4サンマリノGPで 予選10位→決勝3位表彰台を獲得 ここから13戦で半分以上の7度の入賞 チームも最終戦まで4位フェラーリと争い 敗れたものの4強に次ぐ5位に躍進 ブランドルは終盤2戦を 日本でのGITANEタバコ発売記念の 特別artカラーで出場し話題となった https://muuseo.com/FW12C/items/124?theme_id=31948
230626 M.BRUNDLE 25 1/43FW12C
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1978 8TH SPARK LIGIER JS9 J.LAFFITE
リジェ3年目 ジャック・ラフィー 最後の1台体制 LIGIER JS9 前年度1977年に初優勝したマシンJS5を 1978年シーズンも前半戦は使用 R5モナコGPでニューマシンJS9を投入 大型のリアウイングが特徴 投入のモナコはリタイアだったものの R7スペインとR11ドイツで3位表彰台 最終的には16戦中8度の入賞 リタイアもわずか2回と安定した成績 3年か継続したリジェ・ラフィーの1台体制は 1978年で終了して翌1979年からは2台体制 マトラのエンジンも一旦終了 #1978年
221224 J.LAFFITE 1978 26FW12C
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1981 4TH LIGIER JS17 MATRA J.LAFFITE 〖🏆2〗
ジャック・ラフィー最後の勝利 年間キャリアベスト LIGIER JS17 1981年リジェはエンジンを フォードから再びマトラV12に変更 リジェ6シーズン目のラフィー 序盤戦は苦戦もR7スペインでPP→決勝2位 R11オーストリア予選4位→FLで優勝 モデルはオーストラリアGP仕様 R14カナダ 予選10位ながら2勝目を上げる この勝利はラフィー最後の通算6勝目 リジェもこの勝利後 長きにわたり低迷 次の勝利は1996年のO.パニスまでかかった この勝利でタイトルの可能性を残し 最終R15ラスベガスに挑むも6位に終わる ラフィーは2勝を含む表彰台7回 44ポイントで年間4位はベストタイ チャンピオンのピケとは僅差の6P ラフィーがチャンピオン争いに絡んだ 最後のシーズンでもあった TMはジャリエ/ジャブイユ/タンベイと 次々と変わったが3人で完走は僅か1回 3人ともノーポイントに終わった #F1-1981年 #SPARK-F1 #F1
J.LAFFITE 1回 26 1/43FW12C
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1996 9TH PMA LIGIER MUGEN HONDA JS43 O.PANIS
MUGEN HONDA エンジン 初優勝 O・パニス唯一 リジェ最後の勝利 1996年R6モナコGP 決勝は暴風雨 予選14位のリジェ オリビエ・パニスは 朝のウォームアップランはトップタイム 当初ガソリンを満タンにして ノンストップの戦略をを取った 上位陣のリタイヤと安定した走りで モナコGPながら数台オーバーテイク 36周目には3位に浮上すると トップ走行のD・ヒル(ウイリアムズ) J・アレジ(フェラーリ)が相次ぎリタイア 59周目にトップに立ち2時間を超えた為 75周でレースが打ち切られて パニスがトップでチェッカー 最後はコース上に3台のサバイバルを制した MUGEN HONDA エンジン 初優勝は オリビエ・パニスのキャリア唯一の勝利 リジェも1981年ジャック・ラフィー以来 15年ぶりの優勝 リジェ通算最後の9勝目 翌1997年リジェはプロストに買収 1976年から21年間のF1参戦の幕を閉じた モデルは優勝モナコGP記念モデル フランス国旗のウイニングラン仕様 タバコ GAULOISESにデカール加工 画像2はオリジナルの加工前のモデル 画像3~6はPMA通常モデル こちらもGAULOISES仕様に変更 #無限エンジン初優勝 #F1-1996年 #リジェ最後のマシン #LIGIER #F1
O.PANIS 6.000 9 1/43FW12C
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1996 15TH PMA LIGIER MUGEN HONDA JS43 P.DINIZ
ブラジル実業家の子息ペドロ・ディニス F1初ポイント獲得 リジェ JS43 1996年資金難であったリジェは 10億円ともいわれるスポンサーマネーとともに フォルティからP・ディニスを向かい入れた 当初はそのドライビング能力が疑問視されたが デニスはトム・ウォーキンショーや フランク・ダニーが認めるほどの勤勉 R7スペインGP R14イタリアGP どちらも荒れたレースを生き残り 6位入賞を果たしている デニスの生涯入賞回数は8回 R11ドイツGPでは予選でこの年唯一の TM O・パニスに勝利で11位を獲得 デニスに対する評価は徐々に変わり始める スポンサーのブラジル食品ARISCO ブラジル アイスメーカーKibon イタリア乳製品メーカーparmalatは デニス関連の持ち込みによるもの デニスはその豊富な資金ととも 翌1997年はウォーキンショーが 率いるアロウズに移籍する #F1-1996年 #1996年 #リジェ #F1
P.DINIZ 10 1/43 LIGIERFW12C
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1976 8TH+α SPARK LIGIER JS5 J.LAFFITE
F1参戦初年度リジェ ジャック・ラフィー 予選 PP 決勝表彰台 3回 FL 獲得 1976年R4スペインGPから規定で 高いインダクションポッドが禁止された為 所謂〖ティーポット〗は姿を消し オーソドックスなマシンに変化 マシンの見た目は変わったものの JS5は十分な速さを備えており R5ベルギーGP予選6位→決勝3位 参戦5戦目で早くも表彰台を獲得 R11オーストリアGP予選5位→決勝2位 R13イタリアGPでは予選PPを獲得 決勝も3位に入り3度目表彰台を獲得 R16富士SWではファステストラップも記録 ◆R16日本(富士SW)予選11位→決勝7位◆ リジェは初年度 1台のエントリーながら コンストラクタ―6位(当時の解釈では5位タイ) ラフィーも20ポイント獲得して年間8位 この後ラフィーはトータル9シーズンを リジェで過ごし生涯6勝のすべてをあげる SPARKのF1としては2台目に購入したモデルで 不良があって交換した思い出のある1台 インパクトはティーポットJS5が断然上↓↓ #F1-1976年 #1976 https://muuseo.com/FW12C/items/881?theme_id=35914
J.LAFFITE 1976 1回 26FW12C
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1976 8TH SPARK LIGIER JS5 J.LAFFITE
フランスチーム リジェ デビューマシン LIGIER JS5 1976年新興のフランスチームリジェが参戦 当初ドライバーはJ・P・ベルトワーズの予定 しかしテストでJ・ラフィーが好タイムを出し ラフィーの1台体制で初年度向かえた エンジンはマトラ製 そしてなにより フランス国営のタバコGITANESがスポンサー 以降20年間潤沢な資金でリジェを支えた デビューマシンのJS5は 巨大なインダクションポッドと GITANESのフランメンコダンサーが目を引き その形状から〈ティーポット〉と揶揄された 形状とは裏腹にいきなりの好走を見せる 開幕戦予選11位 R2予選8位と好位置獲得 R3アメリカWEST LONG BEACHでは 予選12位からトップと同一周回での4位入賞 リジェにチーム初入賞をもたらした レギュレーション変更に伴い 〈ティーポット〉は開幕3戦で終了 2009年のSPARK F1の初期に発売のモデルで ドライバ―のヘルメットが若干大きい 人気のモデルで大阪のモデルガレージロムが 独占で再生産販売もしている #1976 #LIGIER #F1-1976年
J.LAFFITE 1976 1回 26FW12C
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1985 9TH SPARK LIGIER JS25 J.LAFFITE
ジャック・ラフィー 2年ぶりのリジェに復帰 2年間ウイリアムズで苦戦したラフィーは 1985年フランスのリジェに復帰 TMはA・DE・チェザリス P・ストレイフ チームは前年同様のルノーエンジン タイヤはミシュラン→ピレリに変更 復帰初戦の開幕ブラジルで6位入賞 その後予選は15位前後と苦戦も R8イギリスで3位 表彰台は41戦ぶり R9ドイツで連続3位を獲得 R14ヨーロッパGPでは約4年ぶり 自身キャリア最後の7度目の ファステストラップを記録 最終戦は初開催のオーストラリアGP 予選20位ながら上位に浮上 最後はあわや同士討ちになりかけたが ラフィーは2位でフィニッシュ TMのストレイフも3位でW表彰台 ラフィーはこの時41歳 166戦目 翌1986年もリジェに残留となり G・ヒルの持つ決勝175スタートの F1最多出走回数の更新が期待された #1985
J.LAFFITE 1回 26 1/43FW12C
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1995 8TH PMA LIGIER MUGEN HONNDA JS41 O.PANIS
オリビエ・パニス F1 2年目 ベストリザルト LIGIER JS41 1995年リジェは前年度ベネトンの トム・ウォーキンショーが共同オーナー LIGIER JS41はチャンピオンマシンの ベネトンB195が形状が酷似していた ルノーエンジンをベネトンに譲渡して ミナルディとの争奪戦で無限HONDAを獲得 このJS41は後にブリヂストンタイヤ参入時 テストマシンとしても使用され J・フェルスタッペンや鈴木亜久里 そしてD・ヒルなどがドライブした 近年JS41はSPARKでもモデル化 された事もありよく見かけるマシンの1台 O・パニスは予選最高位6位で入賞6回 最終戦オーストラリアではトップから 2週半以上遅れたが2位表彰台獲得 年間順位8位はベストシーズン 何かのおまけでもらったと思われる 1995年シーズンのパニス含めた リジェ3人(M・ブランドル 鈴木亜久里)の ポストカードを所持しています #1995 #MUGEN #F1-1995年
O.PANIS 26 1/43 LIGIERFW12C
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1995 17TH PMA LIGIER MUGEN HONDA JS41 A.SUZUKI
日本人2人目のフルタイムF1ドライバ― 鈴木亜久里の最後のマシン 1994年ジョーダンのスポット参戦のみ 1年間浪人生活の亜久里であったが 1995年は無限エンジンと共に フランスチームのリジェで参戦 しかしながら開幕前突如 M・ブランドルとのシェアという形になり 開幕3戦は出場したもののその後は 予定のR7フランスがブランドルになるなど 亜久里本人もいつ出場するのか 分からない不安定な状況 しかし5戦ぶりに出場した R9ドイツで予選18位→6位入賞を果たす これは1991年の開幕戦以来 52戦ぶりの入賞(予選落ち含む) その後R15・16の日本連戦に出場も R16鈴鹿の予選でクラッシュ 肋骨の骨折で決勝は走ることなく 結果的にF1キャリアを終える事となった 日本人初の表彰台ドライバーは 2005年スーパーアグリとして チーム監督としてF1に復帰する 鈴木亜久里(日本) 決勝出走回数 64回 予選最高位 6位 1993年 フットワーク R12ベルギー 決勝最高位 3位 1990年 ラルース R15鈴鹿 #F1最後のマシン #1995
A.SUZUKI 25 1/43 LIGIERFW12C
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1979 4TH PMA LIGIER FORD JS11 J.LAFFITE〖🏆2〗
リジェ初の2台体制 ラフィー開幕連勝 1976年の参戦以来リジェはJ・ラフィーの 1台体制であったが1979年から2台体制 エンジンもマトラV12→コスワースV8に変更 TMはP・ドゥパイエ 後半はJ・イクス ニューマシンJS11はグランドエフェクトカー カウルの後端をリアタイヤの前で跳ね上げた スパッツと呼ばれる空力処理が特徴 ラフィーは開幕戦・2戦目を PP→FL→優勝と完ぺきな形で連勝 (モデルはR2ブラジルGP仕様) 信頼性の不足と開発能力の高い P・ドゥパイエの離脱もありその後は失速 表彰台は6回獲得も結局リタイヤ8回で チャンピオン争いからは脱落 チームはコンストラクター3位に躍進 ラフィーも年間順位は4位はベストタイ この後1981年まで年間4位が続きます このモデルは2012年頃に発売 オールドカーは段々と生産限定台数が減り このモデルも限定は1512台と少なめ 同年のドゥパイエとイクス車より ラフィー車の生産が若干少ない
J.LAFFITE 2回 1.512 26FW12C
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1979 6TH PMA LIGIER FORD JS11 P.DEPAILLER〖🏆1〗
人生は楽しむためにあるのスタイルを貫いた パトリック・ドュパイエ フランス出身 長年在籍したティレルを離れ 1979年は母国フランスのリジェに所属 TMはジャック・ラフィーのフランス人コンビ フランスチーム初のグランドエフェクトカー リジェJS11は開幕戦から2戦連続の 予選フロントロー独占して周囲を驚かせる ドュパイエも7戦目までで 予選平均2.85位(ラフィーも同率) 決勝もR5スペインで優勝(モデル仕様) 5度の入賞でランキング3位につける しかし趣味のハンググライダーで 両足骨折の事故を起こし8戦以降は欠場 開発能力の高いドュパイエの離脱で チームも勢いを失い後半失速 R4アメリカ東 ロングビーチでは ノーズの先端に穴をあけて急造ダクトを作成 現代では考えられない荒業を実施してます ドュパイエ予選4位→決勝5位 画像7 #F1-1979年
P.DEPAILLER 1回 25 1/43FW12C