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Adrian Zecha アマン創業者
'25年1月 日経 Mylife 欄に、Adrian Zecha(エイドリアン・ゼッカ/1933~)が取り上げられている。 オランダ領東インド(現インドネシア)プランテーション経営で財を成した一族に生まれた。 1970年代からホテルビジネスに携わり、マリオットやリージェンシーホテル経営に参画。 '80年代に入りアジアを舞台に自分だけのストーリーを紡ぎ始め「アマン」を立ち上げた。 '88年 最初のアマン「アマンプリ」をプーケットに開業、 これを皮切りにアジアを中心に高級リゾートを次々に造りだす。 熱狂的なファンを生み、「アマンジャンキー」なる言葉も生まれた。 初期に祖国インドネシアのバリに建てた「アマンダリ」や「アマンキラ」は名リゾートとして今も名高い。 2000年、バリで開催された APSDA(Asia Pacific space desiners association)に、私達JCDのデザイナーも参加しました。 種々のイベントの後、 当時 国内でも何かと話題になっていた、AMAN DALI(平和な精霊)を視察。 アマン躍進のキーパーソン:ピーター・ミユラーのプランニング。 アマンやバンャンツリー、アリラホテルズなど、隠家的なアジアンリゾートのプランは、 前項のジェフリー・バワの思想「アジアの美しい風景・固有の文化を守る」に大きな影響を受けている。 スタッフは地元出身者を中心に据え、「その土地ならではの体験が出来る」に拘った。 その思想は「星野リゾーツ」にも継承されている。 さて、エイドリアン・ゼッカ氏は、1950年代 タイム誌記者として東京に駐在、麻布十番に暮らす。 油壺に、海が見渡せる小さな別荘を構えていたとか・・・ アマンを離れた現在もアジアを中心にホテル開発に携わり、これまでに携わったホテルは100を超えるという。 本州と四国をつなぐしまなみ海道ほぼ中央・生口(いくち)島、自転車で一周2時間ほどの小さな島に日本旅館「Azumi setoda」を´21年に開いた。
隠家的なアジアンリゾート Adrian Zecha(エイドリアン・ゼッカ)0318
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Dunhill lighter unique hanmer
書棚の奥から、高峰 秀子のエッセイ「コットンが好き」が、顔を出した。 奥付を見ると、昭和56(1981)年、潮出版社とある。 懐かしぃな~と取り出し、パラパラ頁をめくってみる。 「老舗」というタイトルの一文が目に留まった。 若いころ、ある映画でタバコを吸うシーンがあり、猛練習をした成果でタバコがやめられなくなり、三十数年がたってしまった・・・ 愛用のダンヒルのライターの底のビスがとれて無くなってしまい、 次に香港を訪れた折に、ダンヒルの店でビスの付け替えを頼んだ。 店員は、奥のオフィスに入ったままなかなか出てこない・・・・ と思ったら,キチンとした身なりの男性が、私のライターの他にもう一つ新品のライターを持って現れた。 彼は黒いビロードのトレィに2っのライターを並べ、私に椅子を勧めて口を開いた。 「英国で老舗のダンヒル社は、ライターの底に小さなナンバーを打って、責任をもって商品をお売りしています。 が、このライターのナンバーは、故意にハッキリと見えないようになっているのです」 「ご存知の様に、香港では宝石や時計、そしてライターの贋物を作って、本物より安く売っています。 我がダンヒル社には100%そのようなミスはないと信じますが、あるいは何かの間違いで、いかがわしいにせものが紛れ込まない、とは断言できません。 そして、そういう品物をお客様にお売りしたという責任は、勿論ダンヒル社が持つのは当然です。 この新品のライターには、きちんとナンバーが打ってあります。 どうぞ、このライターをお使い下さい」 彼は、にっこりして金色に輝くライターを私に差し出した。 その理路整然とした言葉と、自信に溢れた態度に、私は半ば圧倒されて返す言葉もなく、「これが、老舗というものか」と感服するばかりだった。 その時取り換えてくれたダンヒルを、私は毎日使っている・・・・ 長くなりましたが、引用しました。 ダンヒル社は、タバコ~パイプ~紙巻きタバコなどの喫煙趣向の事業で、礎を築いてきた老舗である。 似たような逸話は、ロールスロイスでも聞いたことがあります。 さて、私も画像の Dunhill Unique Hanmer を愛用していました。 そして、このエッセイを読んだ頃でしょうか? 何度目かの禁煙にチャレンジしていたのでした・・・・
高峰 秀子のエッセイ「コットンが好き」 高峰 秀子 随分以前になります0318
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「ワーキングカップル事情」続き 追憶・加藤和彦
加藤 和彦(1947~ 2009) 1960年代『ザ・フォーク・クルセダーズ』でデビュー。 往時は、ボブ・デュランの影響を強く感じられました。 そして、「イムジン河」や「あの素晴らしい愛をもう一度」などのメロディが懐かしく心に残っている。 1970年代『サディスティック・ミカ・バンド』で活動、日本のミュージックシーンをリード。 愛称は「トノヴァン」 影山 民夫と、ロンドンにロールスロイスを買いに行ったエピソードは大変愉快だ。 1977年、安井かずみと結婚。 今野雄二が紹介したとか・・・ 安井が病に倒れる1990年代初頭まで「詞・安井かずみ/曲・加藤和彦」のカップルで 数々の作品を多くのミュージシャンに提供。 ボーカリストに松任谷由美、桐島かれん、サラ・ブライトマン、木村カエラなどを迎え、活発な音楽活動を行う。 吉田 拓郎は、加藤の才能は日本では唯一無二のもので、10人の歌手の10通りの歌へのアドバイスが即座に出来ると評し、自身もアレンジを依頼した「結婚しようよ」で加藤の仕事ぷりを目にしてから音楽をやっていく自信がついたと語っている。 時代の先端を行く「ナイスカップル」の、ファッショナブルなライフスタイルに、強く憧れたものでした。 そして、まだ何者にもなり切っていない若輩にとって、飯倉片町「キャンティ」は外から覗くだけで、ドァを開く勇気はついぞありませんでした (最後の画像) 「私と(加賀)まりこはキャンティのペットだった。 まりこはきれいだから、私は色が黒くてブスだったけれどもフランス語が話せたからタンタンが可愛がってくれた・・・」 そういう安井かずみに「そんなことは有りません、充分おきれいですよ」ときわどく冗談をかえしたら、安井さんは大声で笑って、その後で 少し泣いた・・・それを思い出す。 野地 秩嘉 著「キャンティ物語」 安井かずみの死後1年も経たない'95年、オペラ歌手 中丸三千繪と再々婚。(´00年離婚) 晩年は、鬱病を患い、死の1週間前には神経症が持病の高橋幸宏と電話で「今、鬱でね」「どういう薬を飲んでいる?」と気軽に話していたとか・・・・ 遺書には、「世の中が音楽を必要としなくなり、もう創作の意欲もなくなった。 死にたいというより、消えてしまいたい」と綴られていたという。 2009年10月 軽井沢町のホテルで自死。 享年62歳
追憶 「あの素晴らしい愛をもう一度」 加藤 和彦0318
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追憶の安井かずみ
zuzu の愛称でその時代を謳歌?した 安井かずみ・・・・追憶 前段の宇野亞喜良「zuzu et junko」のイラストで、 記憶の奥底に沈んでいたいろいろなこと・憧れたそのライフタイルなどが断続的に浮かび上がってきたのでした。 記憶のスクラップブックを開く・・・ 2020年㋆日経 コシノジュンコ・私の履歴書にzuzuとの交友が綴られている。 「1968年、私は思い切って米国へ一人旅に出ることにした。 目的地は西海岸のサンフランシスコと東海岸のニューヨーク。 世界の若者のライフスタイルに多大な影響を与えるヒッピー文化に無関心でいられなかったからだ。 そして、もう一つの目的はニューヨークにいた安井かずみさんに会うこと。 人妻だった私たちは夜遊び、朝帰りを繰り返し、互いの結婚生活が危機を迎えていた。 この時、私は写真家の斉藤亢さんと離婚したばかり。 一方、安井さんは実業家の夫、新田信一(ジョージ)さんと、ニューヨークに引っ越し、結婚生活をやり直そうとしていた・・・・ 新田さんとの夫婦関係は私の目には順調に行っているように見えた。 だが長続きせず、翌年、安井さんが日本に帰国して離婚が正式に成立。 友人の加賀まりこさんが住む豪華な川口アパートメントに部屋を買い、 安井さんは再び作詞家の仕事に戻った・・・・」 そのプール付きのアパートメントには、加賀まりこ、野際陽子、コシノジュンコ、かまやつひろし、吉田拓郎、金子国義や当時のトップモデルなど多くの業界人が集った。 小説家の森瑶子やジャーナリストの大宅映子とも親交が厚かった。 安井 かずみ(1939~1994) 作詞家、訳詞家、エッセイスト、愛称はズズ (ZUZU) フェリス女学院高等学校、文化学院油絵科卒。フェリスの同級生に藤村志保がいる。 在学中にアルバイトで訳詞をしたことがきっかけで作詞家となる。 フランス語の語学力と才能で、独特のキラキラ耀く世界を創り上げる。 1965年、伊東ゆかりの「おしゃべりな真珠」で第7回日本レコード大賞・作詞賞。 以降 伊東ゆかり「恋のしずく」、小柳ルミ子「わたしの城下町」、沢田研二「危険なふたり」、郷ひろみ「よろしく哀愁」など数多くのヒット曲を送り出し、生涯で約4000曲余を作詞した。 1977年に8歳年下のミュージシャン加藤和彦と再婚。 それまで、フランソワーズ・サガンのそれ(刹那的、退廃的?)と二重写しになるような生活は、加藤和彦との結婚で、健全で健康的な「昼の生活スタイル」を選び取っていく。 それは安井が夫との生活になによりもプライオリティ置き、価値観そのものを変化させていった結果であろう。 加藤和彦と「理想の夫婦」を生きること・・・・そして、それを「女の幸せの完成形」としてエッセイに綴っていった。 その「ワーキングカップル事情」は次段で・・・・ 1994年3月17日、肺癌のため逝去・55歳
追憶 「ワーキングカップル事情」 安井かずみ 「安井かずみがいた時代」/島崎今日子著0318
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日本のグラフィツクデザインの原点 杉浦 非水(1876~1965)
TORIO 展に、杉浦 非水の「銀座三越 四月十日開店」のポスターが展示されていた。 「今日は帝劇、明日は三越」という名コピーが生まれた大正初期。 三越呉服店は、日本初の「デパートメントストァ宣言」を体現すべく、広告宣伝の新しい形を模索し始めた。 そこで初代図案部の主任として、日本のグラフィックデザインの先導を切ったのが杉浦非水で、200点以上に上る名作ポスターを生み出した。 日本でまだグラフィックデザインという言葉が無い時代でありながら、 非水が手掛けた作品は、現代のグラフィックデザインそのもので、 日本のグラフィックデザインの原点と言っても過言ではない。 杉浦 非水(1876~1965) 松山の生まれ、東京美術学校で黒田清輝に師事、 黒田は1900(明治33)年のパリ万博に派遣され渡仏、当時欧州を風靡していた「アールヌーボウ」様式を持ち帰った。 当然、杉浦も大きな影響を受けた。 非水は、1908(明治41)年、三越呉服店(当時)の嘱託デザイナーとなり、以降1924(昭和9)年に退社するポスターやPR 誌のデザインを多数手がけ、「三越の非水か、非水の三越か」とまで評された。 晩年は多摩帝国美術学校(多摩美術大学)の創立にかかわり、初代校長として後世の美術教育に力を注いだ。
グラフィックデザインの原点 杉浦非水 「杉浦非水のデザイン」0318
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Hof Uhrmacher,(ホーフ ・ウーアマッハ―)社のストァブランド キャレッジクロック cc-061
七宝シリーズではないのですが、ケースやハンドルのスタイルが近似なのでこのカテゴリーにまとめました。 ドイツ、Hof Uhrmacher,(ホーフ ・ウーアマッハ―)社のストァブランド キャレッジクロック ギヨシェ彫りの彫金細工で植物紋様があしらわれている中に、円形の白エナメル文字盤がきまっています。 コリントスタイルの頭飾りのコーナー支柱 size : 9.5cmh ×6.5㎝w レバームーブメント アラーム機能付き
small carriage clock Hof Uhrmacher, Germany SOTHEBY’S NEW YORK0318
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miature carriage clock stamped DH FRANCE( Diette,HOURS & Fils.) SC-019
1870年頃のミニチュァキャレッジクロック ハウジングケースは ANGLAISE タイプ、 エナメルダイヤルにローマ数字があしらわれている。 size 75㎜h×56㎜w サイドパネルはピエトラ・デゥーラがフィックスされている。 pietra dura[イタリア] 硬い石の意で,宝石やメノウ,カルセドニー,ジャスパー,ラピスラズリなどの貴石の細片を、一定の意匠に従って組み合わせたパネルのことを指す。 ムーブメントの裏面に D H FRANCE と刻印されている。 フランス、DIETTE,HOURS & Fils 社製。
miniature carriage clocks DIETTE,HOURS & Fils FRANCE 320.000円0318
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BIG・BEN の大修繕工事 2017~2022年
私の雑記帳に、´22年 日経日曜版 NIKKEI the STYLE「BIG・BEN の大修繕工事」の記事がスクラップされています。 ウエストミンスター・チャイムはキンツレ―社のマントル・クロックにも組込まれており、 且て、小学校の始業時報にも使われ、私たちの世代には大変懐かしい音色です。 さて、大気汚染で汚れ経年劣化したBIG・BEN、160年創建以来 空前規模の大改修工事のこと。 そして、英国の工事は完成遅延が茶飯事 改修予算額は 2900億ポンド(1ポンド=165円) → 6100億ポンド → 8000億ポンド コロナ禍が重なり工期がさらに伸びて、最終的な工費はなんと、9700億ポンドとのこと。 塔の高さは96メートル、地上55mの11階に 大時計は設置されている。 4面時計 各面の長針は銅板製、長さ4.2m、重さ100kg(カウンターウェイト共) 短針は砲金製、長さ2.7m、重さ300kg(同) また、15分、30分、45分、そして毎正時を告げる4つのクォーター・ベル 重さは1.1~4t。 そして最大の鐘が、重さ13.7t、高さ2.2m、直径2.7mのグレート・ベル、これが、グレート・クロック=BIG・BEN だ。 エレベーターは無い 334段の階段を昇ってクロックルームへ 約5年の歳月を要した。 修理を請け負ったのはイングランド北部 湖水地方に本社を構える「カンブリア・クロック」社、 教会や大聖堂の時計機械の修理を手掛けてきた時計会社だ。 2017年に取外し、2022年に完成(EU/ブレクジット に合わせて) BIG・BENは専属の時計師が日々メンテナンスを行っている。 時刻の誤差は±2秒に保つように決められており 時を刻む振り子の重りに旧式のペニー銅貨を1枚づつ置いたり除いたりして速度を微調整する → 1ペニーの硬貨を加えると 24時間で1/5秒進む 画像#2~3:針や時刻表示の色は煤けた黒ではなく、プルシアン・ブルーだった 画像#4~5:グレート・ベル~クオーターベル 画像#6:我が家のキンツレ―社のマントル・クロック 画像#7:工事足場の手前の像はサー・ウインストン・チャーチル 2012年:エリザベス女王在位60年にエリザベス・タワーと命名された。 2022年9月19日 エリザベス女王の国葬の日、 女王の葬列は ウエストミンスター寺院からバッキンガム宮殿を経由し、遺体が埋葬される聖ジョージ教会を擁するウインザー城へ向った。 途中ロンドン市街を長い葬送の列が続く1時間ほどの間、 BIG・BEN の鐘は1分おきに規則正しく荘厳な音色を響き渡らせた。 画像#8:エリザベス女王の国葬の送列 (エリザベス女王のことは132Fにも記載しています)
BIG・BEN + ウエストミンスター・チャイム GREAT BRITEN NIKKEI the STYLE0318
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antique shop EXCALIBUR 続き
さて、そのもう一つ「エクスキャリバー」 ご存知、アーサー王伝説の 魔法の力が宿るとされる秘剣 店名の印象通り、こだわりのコレクションを揃えたアンティークショップで、 「20年近くなるのかな~」と思いながらドァを開けました。 雰囲気は当時のまんま、今時、このような品揃えの充実しているアンティークショップは見当たらない。 店主の中井さんに挨拶を交わし、10坪ほどの店内をじゅっくり見せて頂き・まつわる物語を伺う。 キャレッジクロックでは、「プチ・パリ」の田中さんと双璧をなす品揃えである。 「木馬の小澤さん」や「DIG・DUGの中平さん」の想出話などなど 2時間ほど過ごしてしまいました。 デスクの上には、分解掃除中のキャレッジクロックが3~4体ドームをかぶせられている。 店を始めて22年になるそうだが、資金的な余裕がある方なんだな~と余計な思いを巡らせながらながら店を後にしました。 私と言えば、今更手を伸ばすものには行き当たりませんでしたが、大いに愉しいひと時でした。
アーサー王伝説 antique EXCALIBUR 中井さん 国立 東0318
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「堀内誠一展 FASHION・FANTASY・FUTURE」 立川・PLAY! MUSEUM
立川のPLAY! MUSEUMで、「堀内誠一展 FASHION・FANTASY・FUTURE」が開催されている。 デザイナー、アートディレクター、絵本作家として活躍した堀内誠一を3つのテーマから紹介する展覧会だ。 1970年に創刊された「an・an」で展開されたビジュアルグラフィックは、 まさに「不思議な国のアリス」が陥ったようなワンダーランド・今まで見たこともないような世界の扉を大きく開き、 世の中の・世界の大きさを見せられた想いがしたのでした。 編集長と同等の権限を持ってそれを作り込み・目の前に現出させたアートデレクターが堀内 誠一でした。
夢の世界を拓く 堀内 誠一 1800円0318
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ケースデザイン #18 Rococo decoration case by DENT 続き
1852年、E.J.デントはウェストミンスターの国会議事堂の大時計(ビッグ・ベン)の製作を受注した。 が、完了する前(1853年)に亡くなくなってしまい、 養子のフレデリック・リッポン・デントが1854年に完成させた。 塔の高さ96.3m、文字盤は地上から55mにある。 イギリス最大の鐘の鳴る4面時計塔。 ロンドン市民に正確な時刻をチャイムで知らせることになった。 以降、フレデリックとリチャードが事業を継承し、E.デント&Co Ltdとなった。 ・・・・そして、1966年にはDENT社は廃業した。 高品質をイメージさせるシンプルなデザインが特徴の、DENT社のキャレッジとしては、大変珍しい、過剰とも思われるロココデザインのケースです。 凡そ、キャレッジクロックのケースのデザインバリエーションは20種類ぐらい。 さて、ロココの語源は、ロカイユ(rocaille) ロカイユとは、「岩」の意味で、貝殻で装飾された岩組を意味したとのこと。 貝殻の曲線を多用した意匠をロカイユ装飾と呼ぶようになった。 ロカイユ装飾 → ロココデザイン特徴は、植物の葉のような複雑な曲線を用いた独特の意匠だ。
Carriage Clock with Rococo decoration case DENT England 31.000円0318
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精工舎 スリゲル 6吋高彫
最近入手したスリゲル、詳細が解からず 下呂在住の古時計博士、S氏に問い合わせました。 第一報は、「人気が高く現存が少ない希少な時計が入手でき良かったですね」 「手持ちの大正5年の精工舎型録83ページに掲載があります。 製品名は 第壱九五號 八寸高彫 です」と速報・・・ 追って頂いた第二報、「メールを送ってから間違いに気づきました。 この時計の文字盤は6インチで、カタログとは異なります。 商品名は 六吋高彫です」 「6インチの方が遙かに希少です」と、 そして数日後の追伸、「しかし、その大正5年の精工舎型録には記載がない」 「セイコーミュージアム」へ問合せては・・・とのこと。 以前の東向島「セイコー資料館」には、カタログのバックナンバーが保管・閲覧もできたのだが、 銀座の「セイコーミュージアム」にはそれはない。 セイコーのクロック部門は、セイコータイムクリエーション」に分社されている。 「うわ~、愉しみがまたふえた~」 ゆっくり調べてみよう・・・ 古時計博士のSさん、感謝です。 78F「時代のさきがけ Port Bellow」の画像にあった 「6吋高彫」が気になっていたのでした・・・・ 50年も追い続けている そして、セイコータイムクリエーションから、アンサーがありました。 明治49(1909)年のカタログに掲載されている。 八日持 六寸高彫 第262号 画像も添付されていました(7番目の画像) 「コピーデーターなの、で画像が不鮮明で済みません」とのコメントが付いていました。 120年になるのですから仕方ありません。 SEIKO の底力です。
スリゲル 六吋高彫 精工舎 80.000円0318
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日本に於ける、「百貨店をつくった男」日比 翁助
三越は1673(延宝元)年、三井越後屋として創業。 明治になり暖簾紋を「丸越」紋とし、三井呉服店に改めた。 この書体は7・5・3と言われるㇵネが特徴である。 1898(明治31)年、のちに「百貨店をつくった男」と言われる日比 翁助が入店。 座売りを陳列販売に変える。 1904(明治37)年、株式会社三越呉服店初代専務に就任、 「デパートメントストァ宣言」をだした。 これが日本の百貨店の始まりと言われる。 松坂屋、白木屋などが次々と陳列販売に切り替え、百貨店という業態が定着していく。 1906(明治39)年、日比は海外視察を行い、ロンドンのハロッズ百貨店の経営に強い刺激を受けた。 1914(大正3)年 日本橋にルネッサンス様式の新店舗を建設。 「今日は帝劇、明日は三越」というキャッチコピーも相まって「粋でお洒落な百貨店」と、人気が一層高まった。 三越のもう一つのシンボルに、入口のライオン像がある。 日比が欧米を視察した折にイギリスで発注したもので、 ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン記念塔の獅子像がモデルと言われる。 (村中憲二 著「暖簾の紋章」を参照しました) 散歩?で通りがかった三越のフロントに、暖簾が懸っていて、 「デパートメントストァ宣言120周年」とのPOPがある。 「へェ~ そうなんだ・・・」と記録や記憶を辿った次第です。
「デパートメントストァ宣言120周年」 三越伊勢丹百貨店 日本橋 三越0318
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行ってきました、国立西洋美術館「モネ・睡蓮のとき」
「あ~、もう行かなきゃァ~」 コロナ後の美術展は開催期間が永くなっている。 国立西洋美術館「モネ・睡蓮のとき」展、昨年10月から4ヶ月開催のロングラン。 生涯で睡蓮をテーマにした作品を300点以上描いたとされるれる。 2月に替わるカレンダーを眺めながら、モタモタと腰を上げ、行ってきました。 立春がすぎても、日本海側を襲う寒波は、一層厳しさを増しているのですが、 上野の杜は明るい陽射しで気分も爽快。 それもつかの間、 美術館のゲートに近ずくに連れ、なんだか雰囲気が違う。 4ヶ月も開催されていたのだが、後1週間で終了だ。 私のようなモタモタの 400~500人程か? 長~い行列が出来ているのです。 モネの「睡蓮」は、最近いたるところでお目にかかっている・・・ 「2時間でも入れそうもないな!!」 モタモタの割には即断! うららかな陽気に任せ、東京藝大「アートプラザ」に足を延ばす。 「アートアワード受賞者展」を覗き「若者は 頑張っているな~」と感心・・・ アメ横で いつものナッツなどを購めながらブラブラと・・・ 陽が落ちる前には 我家へ帰り着いたのでした。
モタモタ・ブラブラ 0円 上野の杜0318
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Rex Hotel Saigon
サイゴン大聖堂やホーチミン人民委員会庁舎の周辺、 街中の賑やかな通りを散策していたら、Rex Hotelに出逢った。 以前(2004年)お世話になったったホテルだ。懐かしさもあり誘われるままロビーへ・・・・ 世界各都市の時刻を示す時計がズラリと並んでいる、見覚えのある光景だ。 このフレンチコロニアル様式のホテルは、フランス統治時代の1927年、フランス商人バイニエルによって建てられ、「バイニエル・オート・ホール」と呼ばれていた。 以降、1959年から1975年にかけて、ウン・ティー夫妻が建物を改築。 映画館、カフェテリア、ダンスホール、図書室を併設する、レックス・コンプレックス・ホテルに。 ウン・ティーはベトナム阮朝最後の皇帝バオ・ダイの親族であったため、レックス・ホテルのシンボルには現在も王冠が使われている。 ベトナム戦争時、レックスは南ベトナム軍事援助司令部に重用されており、 屋上のバーは、軍関係者と従軍記者の溜まり場としてよく知られていた。 先回訪れた前年の2003年、レックス・ホテルは拡張・改装されて、建築、インテリアデザイン、工学技術の更新がなされたとのこと・・・
Rex Hotel Saigon Rex Hotel Saigon ホー・チ・ミン0318