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日本重巡洋艦 古鷹
古鷹(ふるたか)は大正11年12月5日に起工、大正15年3月31日に三菱長崎造船所で竣工しました。古鷹型の特徴は波形甲板と呼ばれた2か所で傾斜して艦尾に行くほど低くなる甲板で重量を軽くするために採用されました。またこのクラスの艦として初めて大口径の20.3センチ砲が装備されました。開戦時には第1艦隊第6戦隊に所属して中部太平洋方面の作戦に従事し、第1次ソロモン海戦に参加、夜戦の奇襲攻撃でアメリカ艦隊に大勝利を収めました。昭和17年10月12日、サボ島沖海戦で命中弾を浴びで沈没、その艦命を終えました。 #ハセガワ #重巡洋艦 #日本軍
? ウォーターラインシリーズ345 艦船 1/700ちょこ大佐
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ドイツ 重対戦車自走砲 ナースホルン (ホルニッセ)
第二次大戦中最強クラスの対戦車砲、ドイツ軍の71口径88㎜Pak43/1を搭載した重自走砲がナースホルンです。独ソ戦当初、T-34やKV-1など予想外に強力だったソビエトの新鋭戦車に驚いたドイツ軍は、戦車の大幅な強化を急ぐ一方、応急策として対戦車砲を自走化した車輛を数多く作りました。ナースホルンもその中のひとつで、当時開発したばかりのⅢ号、Ⅳ号戦車系自走砲専用車台に長砲身88㎜砲を搭載、あらゆる連合軍戦車をその射程外から撃破できる強力な攻撃力を誇りました。また戦闘重量は24トンに抑えられ、路上での最大速度42㎞を発揮。1943年7月に初めて実戦投入された際にはホルニッセと呼ばれましたが、1944年1月末のヒトラーの指示によりナースホルンと改名され、1945年3月までに439両を生産しました。ナースホルンは東部、西部両戦線でドイツ軍戦車駆逐部隊の重要な戦力として重用され、大戦終結まで戦い続けたのです。 #タミヤ #対戦車自走砲 #ドイツ軍
35335 MM335 戦車・AFV・歩兵 1/35ちょこ大佐
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PACIFIC WAR 太平洋戦史
1941年12月8日、日本海軍航空隊がアメリカ合衆国ハワイオアフ島真珠湾に奇襲攻撃を敢行した。「トラ・トラ・トラ」、我奇襲に成功セリ、である。先に行われた、太平洋戦争における南方作戦の一環としてイギリスに対するマレー作戦に次いで行われたこの攻撃により、4年間にわたる太平洋戦争が始まったのであった。 「太平洋戦史」は、1941年の開戦から1944年前半までの海軍作戦に焦点を当てた戦略級シミュレーションゲームです。プレイヤーは日本軍又は米軍を主力とする連合軍の提督となり、戦争に勝つための戦略を定め、それを遂行するための作戦を実行します。各ターンは太平洋戦争の主だった戦闘を各ターンに模しており、0ターン目の真珠湾攻撃を始め、マレー沖海戦、ミッドウェイ海戦、珊瑚海海戦、スラバヤ沖海戦、セイロン沖海戦、アッツ島沖海戦、ギルバート諸島沖航空戦、トラック島沖空戦、マリアナ沖海戦、そしてレイテ沖海戦などを抽象的に再現しています。わずか4ページのシンプルなルールでプレイアビリティの高い太平洋戦争のシミュレーションゲームとなっています。 #太平洋戦争
ルール(4P) 解説書(24P) ユニット160個 A2マップ1枚 カード16枚 1本 コマンドベーシック 戦略級ちょこ大佐
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信玄上洛
1572年10月、甲州の雄、武田信玄はその宿願の上洛を果たすため府中擲囑ケ崎に馬を立てた。その前に立ちはだかるのは織田・徳川連合軍。その数合わせて7万。今、戦国史上最大の戦いが切って落とされようとしていた…。 「信玄上洛」は、もし信玄が京に上ったとしたら、織田や徳川、更に周辺の武将はどうしただろうかという仮説に基づき、戦国の一時代を再現しようとするシミュレーションゲームです。原作は1986年、福田誠デザインでツクダホビーより戦国群雄伝シリーズの第一弾として発売され、当時好評を博しました。 #武田信玄 #戦国群雄伝 #ツクダホビー
ルールブック1冊(16P) カウンター252個 マップ1枚 1本 戦国群雄伝シリーズ 作戦級ちょこ大佐
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応仁記
京を紅蓮の炎に包み、足軽が横行する大乱に終止符を打つのは東軍か、西軍か? 応仁の乱は、1467年から11年もの間、京の市内及びその周辺で発生した勢力争いの内乱です。もともとは、室町幕府管領家の畠山氏と斯波氏の家督争いから始まり、徐々に他者を巻き込んで大事になり遂には細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展、また8代将軍足利義政の後継者争いも加わって京都周辺地方にも紛争が拡大しました。この内戦は、多数の主導者がそれぞれの思惑で勝手に戦いを仕掛けるため、また足軽も勝手に小競り合いを繰り返したために、誰にも制御ができなくなってしまい、11年もの長い間京の市街を蹂躙し続けました。 「応仁記」は、この京の市街を舞台にした市街戦を再現したゲームです。 応仁の乱を題材にしたゲームはとても珍しく、私はこれしか知りません。そういった意味では貴重なゲームであり、こんな世界的にはマイナーなテーマを、でも日本史を語るうえでは戦国時代へのターニングポイントになったとても重要な戦いを取り上げてくれたデザイナーに感謝、です。しかしまさか一休さんや義政の正室日野富子までもが登場するとは…。 #応仁の乱 #応仁文明の大乱 #一休さん
3本 ウォーゲーム日本史#23 作戦級 1Turn=1年 エリア方式 1Unit=1武将ちょこ大佐
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三方原合戦
盟友織田信長に対する包囲網体制が強まる中、家康最大の敵武田信玄が三河領へ侵攻を開始した。大軍を率いて西進を続ける信玄に対して家康は無謀とも思える反撃に転じる…。果たして、家康最大の危機、戦国時代最強の敵を前に絶体絶命の家康の生き残る道はあるのか? 「三方原合戦」は、1573年1月25日に三方ヶ原で起こった武田信玄軍と徳川・織田連合軍の戦いをシミュレートしたゲームです。当時の状況は、遂に上洛を目指し、信長包囲網に参加しようと西進した武田の大軍が、三河を通過ついでに家康を滅亡させておこうといった感じの戦いで、徳川方1万に対して武田方3万と約3倍の圧倒的不利の状況だったようです。日本の合戦は布陣した時には大体勝敗は決していて、特にこの戦いのように初めから戦力差が大きい戦いはゲームにしづらく、そう言った意味ではこのゲームは貴重なゲームと言えるでしょう。戦力差のため籠城を決めて浜松城に閉じこもって構えていたところに、武田軍はそれを無視する形で三方ヶ原の方に進軍していき(シカトした)、それに怒った家康が軍を率いて追いかけていったら、三方ヶ原で準備万端武田軍が待ち構えていたというオチで、まんまと武田信玄の策略に踊らされた家康は、命からがら逃走し、なんとか浜松城に逃げ帰ったそうです。当時温暖な静岡にしては珍しく雪が降っていたらしいのですが、降雪は家康の逃走に力を貸したのでしょうか…? また、シカトされて怒ったというのは恐らく真実ではなく、何か別の理由があったのだとは思いますが、今となっては諸説ありすぎて真実が分かりません。 家康が逃亡時に恐怖のあまり馬上で脱糞して、それを城に逃げ帰ってから臣下に指摘されると、”これは味噌じゃ”といって言い訳した逸話が有名ですが、実はこの話は資料的根拠が無く、実際は一言坂の戦いの時と言われています。 #三方ヶ原の戦い #徳川家康 #武田信玄
1本 ウォーゲーム日本史#20 作戦級 1Turn=? エリア方式 1Unit=?ちょこ大佐
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マーケット・ガーデン作戦
「マーケット・ガーデン作戦」は、史上最大規模の空挺作戦をテーマにした2人用ゲームです。空挺師団群(英第1、米第82,101空挺師団)はドイツ占領下のオランダの奥行き約90kmの細長い地域に降下しました。その任務はオランダ国内の橋を制圧することであり、連合軍地上部隊がライン川を渡って一挙にドイツ国内に攻め込むためです。英第30軍団が地上を進み、速やかに空挺部隊と集結する予定でした。対するドイツ軍はフランスから撤退してきた敗残兵と寄せ集めの兵士で編成された急増の部隊でした。いや、部隊の筈でした…。 このゲームでは、1人が連合軍(英軍、米軍、ポーランド軍、オランダ軍)を指揮し、河川と運河に架かる橋を制圧、ドイツ国内への道を開くことを目的とします。もう1人はドイツ軍(国防軍、SS、空軍地上部隊)を指揮し、連合軍の勝利を阻むことを目的とします。 #マーケットガーデン作戦 #空挺作戦 #遠すぎた橋
1 無し 作戦級ブラインドシステム 1Turn=1日 1へクス=3.2km 1Unit=大隊ちょこ大佐
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三方原合戦
盟友織田信長に対する信長包囲網が強まる中、家康最大の敵武田信玄が三河領内へ侵攻を開始した。大軍を率いて西進すを続ける信玄軍に対して家康はなす術も無く領内を蹂躙されていく。三河領内の影響力低下を恐れた家康は無謀とも思える反撃に転じることになる…。 「三方原合戦」は武田信玄と徳川家康・織田信長連合軍の間で繰り広げられた三方ヶ原の戦いを「長篠システム」で再現したゲームです。カードを使い当時の激戦を手軽に再現できるゲームに仕上がっています。 #三方ヶ原の戦い #徳川家康 #武田信玄
1 ウォーゲーム日本史 作戦級 1Turn=? 1エリア= 1Unit=?ちょこ大佐