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Lier and Limbourg(ベルギー)
Matthäus MerianRoku
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Tournai (ベルギー) and Bergues(フランス)
Matthäus MerianRoku
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Clermont(フランス)
Matthäus MerianRoku
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Châlons en Champaigne(フランス)
Matthäus MerianRoku
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Mantes-la-Jolie (フランス)
Matthäus MerianRoku
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Noyon (フランス)
Matthäus MerianRoku
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Mortain (フランス)
Matthäus MerianRoku
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Richelieu (フランス)
Matthäus MerianRoku
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Gallipoli (イタリア)
ガッリーポリはイタリア南部のサレント半島西岸、イオニア海ターラント湾の島に築かれた城塞都市です。 神話によるとクレタ王イドメネウスによって町が造られたと言われています。史的にはギリシア王国の都市でしたが紀元前265年にローマとの戦いに敗れ、ローマの植民都市となりました。中世初期にはゲルマン系のゴート族の侵入を受けて破壊されましたが東ローマ帝国により再興され、その立地から経済的に反映しました。その後ローマ教皇領となり、貴族制ギリシアへの対抗拠点となりました。11世紀に入るとノルマン人に占領され、さらに1295年にアンジュー公に占領されたことから町の人口は激減しますが、ターラント公の下14世紀初頭には復活します。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Itinerarium Italiae」(1640年初刊)所収のものです。
Itinerarium Italiae 銅版画 32.5cm × 20.0cm 1640Roku
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Montereau-Fault-Yonne
モントローはフランス中部、セーヌ川とヨンヌ川の合流地点に位置する町です。 この町はシャンパーニュ公国に属しており、1419年に当時のシャンパーニュ―王がこの町の橋上で殺害されるなどの悲劇がありました。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Topographia Galliae」(1655年初刊)所収のものです。
Topographia Galliae 銅版画 37.1cm × 32.9cm 1655Roku
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Caen (フランス)
カーンはフランス北西部、イギリス海峡近くの町です。 ローマ時代はガリア人の小さな村落でしたが、1060年にイングランド王兼ノルマンディー公ウィリアムが巨大な要塞を築き、その後修道院等も建設したことから発展します。1204年になるとフランス王フィリップ二世が侵攻し、以後フランス領となります。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Topographia Galliae」(1655年初刊)所収のものです。
Topographia Galliae 銅版画 37.6cm × 32.6cm 1655Roku
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Rennes (フランス)
レンヌはフランス西部、イル川とヴィレーヌ川の合流地点に位置する町です。 その要衝としての重要性から、ローマに占領される前の紀元前にはケルト人のアルモリカ王国の首都でした。シーザーによる占領によりローマ統治下に入っても立地上の重要性は失われませんでした。ローマ帝国滅亡後はブリトン人やフランク人による侵攻を受けましたが、9世紀にはブルターニュ王国(後に公国)の成立に伴いその首都となります。1491年にフランス王シャルル八世による攻撃を受けたブルターニュ公国は劣勢で、最後にはアンヌ女公がフランス王と婚姻することにより、フランス領に組み込まれることとなりました。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Topographia Galliae」(1655年初刊)所収のものです。
Topographia Galliae 銅版画 39.1cm × 32.7cm 1655Roku
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Nantes and Saint Malo (フランス)
ナントはフランス西部、ロワール川流域の小河川が合流する地点に位置し、水の都となっています。紀元前1世紀にガリア人により町が形成され、紀元56年にローマ皇帝シーザーにより征服されました。その後、サクソン人、フランク人、ブリトン人、ノルマン人などの襲撃を受け衰退しますが、937年にノルマン人が排除されアラン二世によりブルターニュ公国が建国されます。しかし、後継者争いに絡む紛争が度々起こり、1491年に女公アンヌとフランス王シャルル八世が婚姻することでフランスの影響下に入り、そして1532年に正式にフランスに併合されます。歴史的に名高い1598年のナントの勅令は、この年がカトリック同盟最後の主要都市であったから、宗教対立を終息させるためにフランス王アンリ四世が勅令発出地としてこの都市を選びました。経済的は、17世紀後半の奴隷貿易で繁栄します。 サン・マロはフランス西部ランス川河口の町です。紀元前1世頃にガリア人により建設され4世紀後半までローマ統治下にありました。そして5~6世紀の西ローマ帝国の衰退とともにブリテン系ケルト人が多く移住してきました。中世には海賊の活動拠点として発展し、1590年~1593年にかけてはどこの統治下に属さない自治都市の宣言も行いました。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Topographia Galliae」(1655年初刊)所収のものです。
Topographia Galliae 銅版画 46.1cm × 32.7cm 1655Roku
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Liege (ベルギー)
リエージュはベルギー東部、マース川とウルト川の合流地点に位置する町です。 ローマ時代から居住者がいたとみられますが、本格的な発展は985年にリエージュ司教領の首都となったことに始まり、名目上は神聖ローマ帝国領であったものの1794年まで司教領首都としての地位を維持します。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Neuwe Archontologia Cosmica」(1646年初刊)所収のものです。
Neuwe Archontologia Cosmica 銅版画 38.0 cm × 34.5 cm 1646Roku
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Montpellier (フランス)_2
モンペリエはフランス南部の学術都市です。 中世初期は近隣の港町であるマグロ―ヌの方が栄えていましたが、相次ぐ海賊の襲撃を受け内陸のモンペリエに中心が移りました。モンペリエの町、城及び城壁は当時この地域を支配していたギレム公により10世紀後半に整備されました。12世紀になると、地中海貿易の拠点として、また、カソリック、イスラム、ユダヤ、(後にプロテスタント)の融合する文化圏として栄えました。また1220年に設立された医学学校はその後数世紀に亘りヨーロッパ医薬教育の中心となりました。イベリア半島のアラゴン王国(婚姻により当地を獲得)より1204年には都市権を得ましたが、1349年にフランスに売却されました。しかし、15世紀後半にその地位をマルセイユに奪われ繁栄を失います。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Topographia Galliae」(1655年初刊)所収のものです。
Topographia Galliae 銅版画 38.9cm × 32.6cm 1655Roku