黒盤交歓なモノ

このレコードは、ほとんど全く、ロマンチックではないし、また、いつこうに、ドラマチックでも無いのですが、しかし、私の胸に於いて、私の死ぬるまで消し難い痕跡を残すのではあるまいか、と思われる、そのやうな妙に、やりきれないレコードだつたのです。

8月10日は私の誕生日であり、先日の日記に記したとおり、妻からデクスタァ・ゴードンの限定盤をお祝いで貰つていたのですが、実はもう一枚あつたやうなのです。

ベンチャァズ。

クロマティクダウンで弦を駆け抜け、時代を駆け抜けたベンチャァズ。

その盤は、クラシックの名曲をベンチャァズがプレイしてるもので、妻が言うには、買つてきて試しに聴いてみたら、なんというか、

やや贋隠者のあけくれにも似た音であり、一聴して、げんなりして、はたして押し入れに終いこんでしまつたやうであつたのです。

そのことを不意に妻に打ち明けられ、ほんの少しの狼狽と、仄かな絶望を感じながらも、妻の精一杯のお祝いを無駄にはしてはなるまいと思い、「おい、せつかくだから聴いてみようぢゃないか。」と亭主関白を気取りながら、何かに怯えたような呻きに近い声をあげ、恐る恐るタァンテイブルにのせてみたのですが、なんというか、抽象画を見たときのやうな焦点がぼやけた、何が良いのかさつぱりわからぬような感覚に襲われ、嫌がる妻に無理を言つて聴いたものですから、何だか自分が尊大不遜な奴のやうに思われ、気が狂いそうになり、へどもどしながら「やあ、いいぢゃないか。これをへぼだなんて君もどうかしてるぜ。」と、なかば自白を強要されたやうな、苦し紛れの肯定をしてしまつたのです。

そんなことですから、ミユウゼオで紹介しなければ妻から「やはり気を遣つて、良いと言つただけなんでしょう。」と言われるのも、どうも癪に障りますし、かと言つて正直に駄目だ、と言う勇気は、これつぽつちも持ち合わせておりませんでしたので、どうにか良いところを見つけてやらうぢゃないかと、延々と聴き続け、意識朦朧としながら、明日の昼飯はたいめいけんのライスカリーにしようかしら、夜はカフエーにでも行つてみるか、などと夢想に耽りながら、ウヰスキイを呑んでただただ聴き続けていたのですが、不意に目の玉の裏がちらつき、鼓膜がどくどくと波打つ感覚に侵され、朦朧となり、さすがに私も、少し忌々しくなつて来たのです。

私には幼少の頃から浪費の悪癖があり、ものを惜しむという感覚は（決して自慢にならぬ事ですが）、普通の人に較べてやや鈍いように思つているのです。

けれども、そのウヰスキイは、謂わば私の秘蔵のものであり、昔なら三流品でも、しかし、サテイスフアクシヨンなる古道具屋で浪費を続ける今では、たしかに一流品に違いないのです。値段も大いに高いけれども(サテイスフアクシヨンでレコードが六枚も買えるぢゃないか！)、しかし、それよりも、之を求める手蔓が(金であることは間違いないのですが)、大変だつたのです。

この正体のわからぬ、忌々しさはもちろんウヰスキイを無駄に、無意味に鯨飲していることに対して、いよいよ吝嗇さが顔を覗かせてきたことに原因があることに間違いがなかつたのですが、しかし、延々と聴き続けていたものですから、もう、遂に発狂するのではないかと、吐き気をもよおしたその時、不意に、そして不思議なことに、音の揺らぎが(グルゥブとも言うようです)、聴こえるやうになつてきたではありませんか。

ベイスが激しくうねり、ドラムスは8分音符を刻み、チェンバロがきらびやかに鳴り響き、ギタァが低音で呟くその様は、クラシックのオーケストレイシヨンの、それとは全く似つかない荒々しいものなのに、同じ音の揺らぎを感じたのです。

私は戦慄し、それから、いつそ痛快になつて笑つた。あつぱれ、というより他は無い。サテイスフアクシヨンもどこにも、これほどのレコードはなかつたではないか。

もう、いても立つてもおれず、顔を紅潮させ、妻に「いやはや、驚いたものだよ。聴けば聴くほど、今まで聴こえなかつた音が聴こえてくるぢゃないか！たまげたなあ、これは大したものだよ。君もずいぶんなものを見つけたものだ。」と告げるや否や、妻は私の耳元で烈しく、こう囁いた。

「説明が長い！」

#普通に書けば二行で終わる内容でした。

#┐(￣ヘ￣）┌

#なんかスミマセン