私め、房総半島の東端から、大都市東京日本橋まで大凡、120分近く電車に身を委ね働きに出ているものですから、電車の中で過ごす時間が、妻と過ごす時間より多いのではないか、と思うくらいに、冗長で情緒のない、いわば孤独の時間を過ごしているのです。
妻の代わりに(それは、以上であることには疑いの余地はないのですが)見目麗しい女性を眺めながら、邪な下衆な想像を描こうにも、何事も顔に現れてしまう質ですので、やおら女性を眺めようものなら、(コロナ騒動で電車を緊急停止させてしまった福岡の事案が思い出されます)不審者とおもわれ、緊急停止ボタンを押されてしまうんじゃないかしら、とどうにもやるせない気持ちに侵されるものですから、ついつい車中はスマートフォン(スマホ、なんて便利なのでしょう)を、いたずらに弄ぶしかなかったのです。
しかし、こと最近、"データ通信料が制限を超えましたので、制限モードに切り替わりました"などという、キャバレークラブで黒服が脅しのように延長有無を問いかけてくるような、この一瞬に何の意味があったのだろうか、否、愉しむことに意味などいらぬ、など格好をつけて刹那的に生きるハードボイルドを気取って、家に帰ってから妻にこっぴどく罵倒される、このような、いわば人生そのものを否定するようなメールが届くものですから、電車のなかでスマホを叩き壊してやろうか、はたまた、NTTド○モに苦情の一つでもいってやろうじゃないか、と思うのですが、やはり、不審者と思われて緊急停止ボタンを押されてしまうのも、他の乗客のみなさんに迷惑がかかってしまうなあ、と他愛を信条とする、私のちんけな品格が顔をのぞかせてくるため、ぐっと我慢して、耐え忍んでいたのです。
この鬱屈とした時間をどうにかできないものか、と思案をしておりましたところ、本をよんでみようじゃないか、これは名案だ!、いまは所謂"ステイホォム"なるプロパガンダが発せられてるわけで、読書はうってつけではないか!!
なんて、産まれたての小山羊でもわかるような(山羊は紙を食べるのでしょうか?)、迷暗なるくだらぬ論を信ずることとしたのです。
私は若かりし頃、自己紹介欄を書くときには気取って音楽レコード蒐集のわきに読書、などという誇大妄想に等しい言葉を書いていたものですから、"おい、君は一体どんな文学が好きなのかい?"と、不意にそのようなことを、尋問されてしまったら、へどもどして、おぼっちゃまくん(へけけ!)と、漱石の坊っちゃんとも答えられぬきがしましたので、古書を無駄に集め、本棚をみて、その恐怖から逃れようとしておりましたことをここに告白します。
さりとて、全くのポーズで本を集めていたわけではなく、しっかりとそして着実に読破しておったわけですが、不意に私が持ち合わせている断捨離の気質、ミニマリズムの精神("こんまり"以前の"こんまり"が私であると自負しております)によって、はたして蒐集させられた本を一掃してしまったのです。
しからば、また新たに本を買えばよいではないか、という、これまた滑稽で、まさに金の貯まらぬ欲望の亡者が顔を覗かせ、呑んでは吐き、吐いては呑むアルコール中毒者がどうにか酒にありつこうとするような無駄な行動に走らせ、気づけばこの二週間で10冊もの本が書庫に積み重なってしまったのです(むろん、先の気質ですから、全て缶ビールが買える程度の中古品であることを申し添えます)。
しかし、本棚に並べてみたならば、これがまた、桃の節句の雛壇のごとく、何か意味のある、そして気品のある並びにどうにもこうにもならなく、ミニマリズムの本性が顔を覗かせてきたので、読むまもなく、全て捨ててやろうかしら、と初めて父親の春画を見たときのような、何もかもどうにでもなれ、という、ある種、原始的な衝動がふつふつと沸きあがってきたのですが、しかし、その一方で、これらの本に費やした金を集めれば、ウヰスキーのダルマが2本くらい買えてしまうことを考えれば、いよいよ吝嗇さが顔を表し、どうにか妙案がないものか、以前友人から貰ったコーヒーが辛うじて一杯分残っていましたので、子供(小学校四年生)に淹れさせ、啜りながら思案していると、不意に障子紙で本を包み込んだらどうかしら?と、ダーウィンが唱えた進化論は自分のためにあるんじゃないかしら?と思うくらいに、私にとって非常にそして荘厳な案を思いついたのです。
果たしてさらば、そのような結論に達し、すぐさま障子紙を買いにでかけ(途中でマスクをしていないことに気づきあたふたと家に戻ってきました)、遂に漸く障子紙で本包を拵えることができたのです。
はい、すっごく疲れます…疲れました
ブックカバーつくるのにこんなに疲れると思いませんでした…まだまだたくさん残ってます…
#なんかスミマセン
2020/4/29
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