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Anthony Mason:アンソニー・メイソン
身長は201cmと決して高くはなかったが、プロレスラーの様な屈強な体格を武器に、主にパワーフォワードとしてプレイし、リーグでも有数のタフなディフェンダーとして恐れられた。またその風貌からは想像し難い程の有能なパサーでもあり、ボールハンドリングも巧みなポイントフォーワードとしても活躍した。坊主頭にロゴや模様などの当時としては奇抜な剃り込みがトレードマークであった。 テネシー州立大学から1988年のNBAドラフトにエントリーし、ポートランド・トレイルブレイザーズに3巡目53位で指名を受けていたが、入団を前に解雇された。その後トルコやベネズエラ、さらにCBAやUSBLのクラブチームを転々しながらNBA入を目指していた。1989年、どうにかニュージャージー・ネッツと契約したものの出場時間は短く、翌年移籍したデンバー・ナゲッツではわずか3試合の出場しか与えられなかった。その後1991年オフにニューヨーク・ニックスと契約した。 新天地ニックスでメイソンは頭角を現わし始めた。当時の指揮官であったパット・ライリーに見出されたメイソンは、パトリック・ユーイング、チャールズ・オークリー、チャールズ・スミスといった面々と共に強固なフロントコートを形成する。プレーオフでは黄金期のシカゴ・ブルズと激闘を繰り広げ、彼らはバッドボーイズⅡと呼ばれるまでになった。そして1994年、ニックスにとっては1973年以来となるNBAファイナル進出を果たしたが、第7戦までもつれた末にアキーム・オラジュワン率いるヒューストン・ロケッツに敗れ優勝には届かなかった。多くの出場機会を得た彼は、1995年にNBAシックスマン賞を受賞している。 1996年、ラリー・ジョンソンとのトレードでシャーロット・ホーネッツへと移籍。1年目の96-97シーズンは、平均16.2得点、11.4リバウンド、さらには5.7アシストと軒並みキャリアハイの成績で、また4度のトリプルダブルも記録している。98-99シーズンには上腕筋の断裂により調子を落としてしまっている。 2000年、9人が絡む大型トレードによりマイアミ・ヒートへと移籍し、再びパット・ライリーの指揮下に入ることとなった。当初はロールプレーヤーとして起用が見込まれていたが、大黒柱であるアロンゾ・モーニングが腎臓の疾患により離脱すると、メイソンはチームの中心メンバーとして活躍するようになり、16.1得点、9.6リバウンドの好成績で、故障者の多かったヒートが50勝を上げプレイオフに進出する原動力となった。またこの年、モーニングやオーランド・マジック所属のグラント・ヒルが故障欠場する中、2001年のNBAオールスターゲームに初選出されている。 参照Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ アンソニー・メイソン
2001年 1995年 1988年 58位 SF/PFダブルクラッチ
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Larry Johnson:ラリー・ジョンソン
1988-1989年シーズンはオデッサカレッジでプレーしていた。移籍したUNLV大学で1990年のNCAA男子バスケットボールトーナメントで優勝、1991年のNBAドラフト1巡目全体1位でホーネッツに指名されて入団した。その年ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。ケンドール・ギルと翌1992年のドラフト1巡目全体2位で指名されたアロンゾ・モーニングが加入しホーネッツは「フューチャーブルズ」(未来のシカゴ・ブルズ)と呼ばれるほど強豪チームとして期待された。 1994年バスケットボール世界選手権にドリームチームIIとして出場し優勝した。 1996年、ジョンソンもアンソニー・メイソンとのトレードでニックスにトレードされた。 ニックスでは、1999年のプレーオフのインディアナ・ペイサーズ戦で重要な役割を演じた。残り11.9秒でボールを受けたジョンソンは3ポイントシュートを放った際に、アントニオ・デービスのファウルを受けたがこれを見事沈めてフリースローも与えられ92-91でそのゲームの勝利を呼び込んだ。その年ジョンソンにとって初のNBAファイナル出場を果たした。翌2000年のカンファレンスファイナルでのペイサーズとのシリーズでも活躍したが、チームは2勝4敗で敗れた。2001年の10月10日に引退を表明した。腰に爆弾を持ったままの現役生活で、キャリアの最後の5年間では序々に平均得点を減らしていた。 ジョンソンはパワーフォワードとしては身長201cmと小柄であるがパワフルなプレーでインサイドを支配した。無骨な容姿に似合わずシュートレンジも広く、アシストも巧みで洗練された選手である。 参照Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ ラリー・ジョンソン_(バスケットボール)
1990年 1989年 1991年1位 PFダブルクラッチ
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Corliss Williamson:コーリス・ウィリアムソン
アーカンソー大学時代の1994年に、NCAAトーナメントで優勝し、ファイナルフォーの最優秀選手にも選出されたウィリアムソンは、翌年の1995年のNBAドラフトにアーリーエントリーを表明。13位でサクラメント・キングスから指名されてNBA入り。1997-98シーズンには平均17.7得点を記録し、MIP候補にも挙げられたが、チームは1998-99シーズン開幕前にリック・アデルマンをHCに迎え、クリス・ウェバー、ペジャ・ストヤコヴィッチ、ブラデ・ディバッツなど大型補強を行い、ウィリアムソンの序列は低下。結局2000年夏にダグ・クリスティとのトレードでトロント・ラプターズに移籍。更に2000-01シーズン途中に大型トレードでデトロイト・ピストンズに移籍。ピストンズ加入後はシックスマンに転向し、2001-02シーズンはNBAシックスマン賞を受賞。2003-04シーズンにはNBAチャンピオンを経験した。 2004年夏にフィラデルフィア・76ersに移籍するも、翌年2月にクリス・ウェバーとの大型トレードでサクラメント・キングスに復帰し、2007年に引退した。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ コーリス・ウィリアムソン
2002 2004年 1994年 1995年 13位ダブルクラッチ
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Glenn Robinson:グレン・ロビンソン
ニックネームは「ビッグ・ドッグ」 高校時代、ゲイリー・ルーズベルト・ハイスクールをインディアナ州チャンピオンに導き、マクドナルド・オールアメリカンに選ばれている。パデュー大学でプレイしたのは2年間だけだったが、1994年にはウッデン賞とネイスミス賞を受賞、大学をNCAAトーナメントのベスト8に進出した。また1試合平均30.3得点、10リバウンド以上をマーク、ビッグ・テン・カンファレンスの年間最優秀選手にも選ばれている。 1994年のNBAドラフトで全体1位でミルウォーキー・バックスに指名されて入団した。ルーキーシーズンに1試合あたり21.9得点を挙げてオールルーキーチームに選ばれている。ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票では同時受賞となったグラント・ヒル、ジェイソン・キッドの2人に次ぐ3位となった (ヒルとキッドは新人王を同時受賞)。入団した当初はオールスター選手であるヴィン・ベイカーと共にチームを引っ張った。また2001年にはレイ・アレン、サム・キャセールらと共にイースタン・カンファレンスファイナルまで進出した。ロビンソンはバックス史上2位の歴代得点を挙げており、バックスでプレイした8シーズン中7シーズンは1試合平均20得点以上を挙げた。 2002年8月2日にトニー・クーコッチ、レオン・スミス、2003年のドラフト1巡指名権と引換にアトランタ・ホークスへ移籍したが、その1年後の2003年7月23日にはフィラデルフィア・セブンティシクサーズへ移籍した。2004年-2005年シーズンは怪我のためプレイしていなかったが、2005年2月24日にニューオーリンズ・ホーネッツからバイアウトでFAになった後にサンアントニオ・スパーズと契約。プレーオフでも活躍し、チームがNBAファイナルを制覇するのに貢献、チャンピオンリングを手に入れ、その後引退した。これまでの通算成績は14,234得点(1試合平均20.7得点)、1試合あたり6.1リバウンド、2.7アシスト、1.2スティールをマークしている。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ グレン・ロビンソン
2005年 1994年 1位 F ミルウォーキー・バックスダブルクラッチ
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Reggie Miller:レジー・ミラー
NBAで活躍した元プロバスケットボール選手で、現在はTNTのNBA解説者。カリフォルニア州リバーサイド出身。 1987年のNBAドラフト1順目11位でインディアナ・ペイサーズに指名された。当初ペイサーズは、セント・ジョーンズ大学のマーク・ジャクソンを指名する予定だったが、ドニー・ウォルシュ球団社長の閃きで、急遽ミラー指名に切り替えたという。その後ジャクソンは18位で地元のニューヨーク・ニックスに指名され、ペイサーズでもプレーしている。 2006年3月、インディアナ・ペイサーズがミラーの背番号31を永久欠番にすることを発表し、3月30日に永久欠番のセレモニーが行われた。 参照Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ レジー・ミラー
1994年カナダ 金メダル 1995年,1996年,1998年,2000年 1998年 2002年ダブルクラッチ