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丸容器形(憲法発布式)★皇室最古のボンボニエール★
皇室におけるボンボニエールの始まり これまで、皇室のボンボニエールが正式に登場したのは、明治27年に催された「明治天皇の大婚二十五年の饗宴」に際してだとされてきた。しかし、それ以前の大国家行事として明治22年(1889)2月11日、つまり皇紀2549年2月11日の紀元節の日に執り行われた「憲法発布式」の夜、竣工間もない明治宮殿の豊明殿、南溜の間、北溜の間、内閣の四室を使って催された天皇主催の「大宴会」の食後のお茶の折に、記念の菓子器が配られたという記録も宮内公文書館に残されているようである。もっとも、この時のボンボニエールは、「明治天皇の大婚二十五年の祝典」の折のように、統一されたデザインのものではなく、統一的に「十六葉菊紋」と「二(貳)五四九年 紀元節」の文字が入れられた数種の菓子器が用意された。いずれにせよ、これを もって皇室におけるボンボニエールの始まりと言うべきであろう。 丸容器形 花文ボンボニエール 憲法発布式(明治22年(1889)2月11日)(皇紀2549年2月11日) 径6.8 高3.5 銅製、刻印「十六葉菊文 貳五四九紀元節」 ★このボンボニエールは、明治22年(1889)(皇紀2549)2月11日の紀元節に下賜されたものと思われるが、当日は、宮中以外に浜離宮延遼館でも宴が催されたとされており、下賜された場所、状況等は明らかでない。
ボンボニエール 天皇家 不明kogan2020
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馬蹄形
馬蹄形 ボンボニエール 大正~昭和初期(1910~30年代) 5.1×4.6×2.15 宮家共通紋 銀製、刻印「純銀大勝堂」
ボンボニエール 宮家共通紋 不明kogan2020
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文台硯箱形
文台硯箱形 ボンボニエール 3.6×7.05×2.4 天皇家紋 銀製、
ボンボニエール 天皇家 不明kogan2020
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菊鉢植形
菊鉢植形 ボンボニエール 4.2×4.75×10.4 天皇家紋 銀製、 ★菊の花や葉の細部まで丁寧に作り込んでいる。
ボンボニエール 天皇家 不明kogan2020
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丸香合形葉文
丸香合形葉文 ボンボニエール 径5.3 2.0高 高松宮家紋 不明、刻印「河野製」 ★真鍮か青銅製か素材は不明だが、珍しい意匠。
ボンボニエール 高松宮家 不明kogan2020
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宝珠形菊文
宝珠形菊文 ボンボニエール 径4.7×高3.5 天皇家紋 銀製、
ボンボニエール 天皇家 不明kogan2020
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丸容器形(有栖川宮紋)
有栖川宮家は、江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家。伏見宮、桂宮、閑院宮とならぶ世襲親王家の一つ。大正2年(1913)に威仁親王が薨去により断絶が確定し、その後、大正12年(1923)威仁親王妃の薨去翌年をもって正式に断絶となった。 丸容器形 ボンボニエール (明治期か) 径4.8 高2.95 有栖川宮家紋 銀製、七宝 ★有栖川宮家は早くに断絶したため、ボンボニエールも明治期のものが多いようである。また、形状的には、銀製で七宝の紋の入ったものや、黒漆塗で金蒔絵の紋の入ったものが多くみられる。また、このボンボニエールと同形で七宝の色が異なるものも数種見られる。
ボンボニエール 有栖川家 不明kogan2020
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砲弾形(北白川宮永久王陸軍砲兵少尉御任官)
北白川宮永久王は、明治43年1910年(1910)2月19日 、北白川宮成久王と同妃房子内親王の第一男子として御誕生。大正12年(1923)、父・成久王がフランスでの自動車事故により薨去されたため北白川宮家を承継した。陸軍に進まれ、陸軍士官学校(43期)を経た昭和6年(1931)陸軍砲兵少尉に御任官。 昭和14年(1939)には陸軍大学校を御卒業(52期)。昭和15年(1940)9月4日、張家口での演習中の事故により薨去された。 砲弾形 ボンボニエール 北白川宮永久王陸軍砲兵少尉御任官御祝宴(昭和6年(1931)10月26日) 6.9×3.2×2.9 銀製、刻印「純銀三越」 ★砲弾形は、陸軍砲兵少尉御任官を象徴するにふさわしいモチーフといえる。
ボンボニエール 北白川宮家 不明kogan2020
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十四弁菊花形(陽宮恒憲王御成年式)
賀陽宮恒憲王は、明治33年(1900)1月27日、賀陽宮邦憲王の第1王子として御誕生。大正9年(1920)に御成年。陸軍に進み、陸軍士官学校(32期)、陸軍大学校(38期)を御卒業後、東京・名古屋の各部隊の師団長や、陸軍大学校長などをご歴任。陸軍中将。この間、大正10年(1921)5月3日には、九条道実公爵の5女・敏子さまと御成婚。昭和22年(1947)10月14日)皇籍を離脱された。 十四弁菊花形 ボンボニエール 賀陽宮恒憲王御成年式(大正9年(1920)5月) 径5.6 高3.0 銀製、
ボンボニエール 賀陽宮家 不明kogan2020
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重ね色紙形秋草牡丹文(久邇宮智子女王・大谷光暢御結婚)
久邇宮智子女王は、明治39年(1906) 9月1日、久邇宮邦彦王の第三王女子として御誕生。大正13年(1924)5月3日、浄土真宗の宗祖親鸞の末裔で東本願寺の住職を世襲した大谷家(伯爵家)の大谷光暢(24世法主)と御結婚、大谷家に降嫁した。お印は萩。 重ね色紙形秋草牡丹文 ボンボニエール 久邇宮智子女王・大谷光暢御結婚(大正13年(1924)4月) 5.4×5.4×2.2 銀製、
ボンボニエール 久邇宮家 不明kogan2020
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扇形三笠山に若杉桐文(三笠宮御結婚)
三笠宮崇仁親王は、大正4年(1915)12月2日、大正天皇と貞明皇后の第四男子として御誕生。昭和11年(1936)に陸軍士官学校(第48期)を御卒業、在校中の昭和10年(1935)の御成年にともない、「三笠宮」の宮号を昭和天皇より賜った。 昭和16年(1941)10月22日、子爵高木正得の次女高木百合子さまと御結婚された。 扇形三笠山に若杉桐文 ボンボニエール 三笠宮御結婚につき皇太后貞明皇后御主催御内宴(昭和16年194112月7日)(大宮御所) 6.8×9.4×3.0 陶製 ★戦争の激化に伴い、昭和15年7月7日に「奢侈品等製造販売制限規則」(一般には施行日をとって七・七禁令(しちしちきんれい))が施行され、銀製品の製造販売にも規制がかかることになり、以後、ボンボニエールの素材も陶磁器、漆器、木製などに切り替わっていくことになる。皇室でも銀素材の使用を控えられたものと思われる。
ボンボニエール 天皇家 不明kogan2020
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洋書形(久邇宮邦英王御成年式)
久邇宮邦英王は、明治43年(1910)5月16日、久邇宮邦彦王の第3王子として御誕生。その後、子女がなかった東伏見宮依仁親王の事実上の継承者の立場になるが、旧皇室典範は皇族に養子を認めていなかったため、邦英王は東伏見宮を皇族としては継承することができなかった。邦英王は、昭和5年(1930)5月に成年となられたが、東伏見宮家の祭祀を継承するため、昭和6年(1931)に臣籍降下の願出をし、同年4月に「東伏見」の家名を賜い、華族に列せられ、伯爵を授けられて伯爵東伏見邦英となられた。昭和12年(1937)5月5日、伯爵 亀井茲常の次女・保子さまと御結婚された。その後、1945年(昭和20年)に京都の青蓮院で得度、昭和27年(1952)に善光寺大勧進の住職に就き、昭和28年(1953)に青蓮院門跡の門主となって法名を慈洽と称し、長らく門主の地位にあられた。 洋書形 ボンボニエール 久邇宮邦英王(のち東伏見邦英)御成年式御披露(昭和5年(1930)5月) 6.9×4.9×3.2 銀製、刻印「新城製」
ボンボニエール 久邇宮家 不明kogan2020
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鳥籠形(外国賓客の接遇)
鳥籠形 ボンボニエール フランス新任大使ポール・クローデルとの午餐(大正10年(1921)12月7日) 径5.3 高8.3 純銀、
ボンボニエール 天皇家 不明kogan2020
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笙形(久邇宮朝融王御成年式)
久邇宮朝融王は、明治34年(1901)2月2日、久邇宮邦彦王の第一皇子として御誕生。大正10年(1921)2月御成年。大正14年(1925)1月、伏見宮博恭王第3王女子の知子女王と御結婚。昭和4(1929)年1月邦彦王の薨去を受けて久邇宮家を継承。海軍に籍を置き海兵卒業(49期)後、海軍中将にまでいたる。昭和22年(1947)10月14日皇籍離脱。 笙形 ボンボニエール 久邇宮朝融王御成年式(大正10年(1921)) 9.7×2.2×1.7 銀製、刻印「純銀」「小林」
ボンボニエール 久邇宮家 不明kogan2020
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舞楽兜形(皇太子(上皇陛下)御誕生)
舞楽兜形 ボンボニエール 皇太子(上皇陛下)御誕生宮中饗宴(昭和9年(1934)2月24日) 6.3×6.3×4.9 銀製、刻印「三越製」 ★舞楽の常装束で用いられる鳥兜(鳥甲、とりかぶと)は、鳳凰の頭部をかたどったものとされ、鶏冠のような形状で縦に長く、後の首周りにはしころが付いている。 兜とは名づけられているものの錦や金襴で華麗に仕立てられ、舞楽の種類によっても微妙に色彩などが違う。
ボンボニエール 天皇家 不明kogan2020