Trio、馬鹿馬鹿しさの果てに
初版 2024/07/23 12:46
ここで、ちょっとメジャー級の人気を博したバンドTrioについて書いてみたいと思います。恐らく、他のNDW関係者が「俺たちをNeue Deutsche Welleのバンドなんて言うな!」と怒ることがある理由の一つには、このTrioの存在と商業的成功があったからではないかと想像しています。それはNena Hagenなんかも含まれるかもしれませんね。偶には、そう言ったメジャー系バンドも取り入れても良いのではないかと思っていますし、遠く離れた日本では、そこら辺の確執も良くは分からないので、敢えて取り上げることにしました。
Trio; Kralle (左), Peter Behrens (中央), Stephan Remmler (右)
Trioの構成とその成り立ちについて書きます。Trioは、1979年に、Stephan Remmler (Vo, Kbd; シュテファン・レムラー), Gert 'Kralle' Krawinkel (G, Back-Vo; ゲルト'クラーレ'クラヴィンケル), Peter Behrens (Drs, Back-Vo; パーテル・バーレンズ)の3人で結成された、ベースレス・ポップバンドで、世界的大ヒット曲"Da Da Da I Don't Love You, You Don't Love Me Aha Aha Aha"で、1982年頃に一躍有名になりますが、1986年に解散しています。それで、Trioのバイオグラフィーを書く前に、各メンバーのそれまでの略歴を先ず書いておきます。
Stephan Remmler (Vo, Casio)
先ず、リーダーでヴォーカルのStephan Remmlerですが、彼の父親は、Bad Godesbergのアメリカ大使館で監査員として働いていましたが、1950年代半ばに交通事故で亡くなり、一家は、Bremerhavenにある母親の実家に引越します。彼女の父親、つまりお爺さんは、キャピトル・シネマを所有していました。そこで、Remmlerは、Elvis Presleyのレコード"HeartBreak Hotel"に天命を受け、当時はアメリカ軍のラジオ局からの放送AFNを熱心に聴いています。彼は、Columbuskaje (コロンブスカヤェ)に徴兵されたElvis Presleyを見に行っています。また、その地区で毎年開催されるドイツ系アメリカ人のフォーク・フェスで、Ted Dog Saloonのカントリーバンドに興味を持ち、その後もその地区のアメリカのTeenage Clubに通っています。1960年代半ばには、地区の歌唱コンテストに参加し、3〜4回連続で優勝をしています。ここで、Remmlerは、Delf Jacobsと出会い、JacobsのバンドBottlesに誘われ、加入します。Bottlesは、Just Usとバンド名を改名し、HamburgのStar Clubで14日間演奏していますが、この時に、後のTrioのギタリストになるGert 'Kralle' Krawinkelが在籍しています。Remmlerは、高校卒業後、徴兵されますが、兵役を終えると、教師になる為に、Hamburgで勉強し始めます。しかしながら、Remmlerは、Rex Carter (レックス・カーター)と言う芸名でポップシンガーとしてデビューしています。その一方で、Holzminden地区の中学教師になり、更に、Oldenburg大学の音楽教師にもなります。そうして、1979年に、Remmlerは、Gert 'Kralle' KrawinkelとPeter Behrensと一緒にTrioを結成しています。そうして、Trioは大進撃をしていく訳ですが、Trioの休息期間に、当時9歳のAngela Smecca (アンゲラ・スメッカ)とで、Stephan & Nina名義でシングル"Feuerwerk (フォイアーヴェルク)"を英語、スペイン語、フランス語、イタリア語でリリースしています。
Stephan & Nina single "Feuerwerk"
それで、1986年にTrioは解散するのですが、Remmlerは、ソロ活動を始めます。ソロでの最初のシングル"Keine Sterne In Athen (カイネ・シュテルネ・イン・アーテン)"は、ソロとしては最も成功した曲になります。
Stephan Remmler 1st single "Keine Sterne In Athen"
セカンドシングル"Alles Hat Ein Ende, Nur Die Wurst Hat Zwei (アーレス・ハート・アイン・エンデ, ヌル・ディー・アルシュト・ハート・ツヴァイ)"もカーニバルヒットとなります。2枚ともドイツ・シングル・チャート3位になりましたが、それ以降はここまでのヒットはしていません。ただ、"I Don't Go to U.S.A."の英語ヴァージョンはフィリピンで1位を記録しています。Remmlerは、数多くのアルバムも出していますが、チャートにランクイン出来たのは、1988年リリースのセカンド・アルバム"Lotto"だけです。
Stephan Remmler 2nd solo album "Lotto"
1989年からは家庭生活に益々専念するようになり、音楽業界から手を引いています。それで、ベスト盤"10 Jahre Bei Der Stange (10 ヤーレ・バイ・デア・シュタンゲ)"をリリースしていますが、これにはTrio時代の曲も含まれています。
Stephan Remmler best album "10 Jahre Bei Der Stange"
1991年には、Freddy Quinnのカバー曲だけから成るサード・アルバム"Projekt F – Auf Der Suche Nach Dem Schatz Der Verlorenen Gefühle (プロイェクトF - アウフ・デア・ズヒェ・ナッハ・デム・シュアツ・デア・ウェアローレネン・ゲヒューレ)"を出しています。翌年1992年には、新曲を含む4枚目のアルバム "BarbarellaMortadellaohneTeller(バーバレラモルタデラオーネテラー)"をリリースしようとしますが、これは取り下げられ、1993年に別バージョンが"Vamos"のタイトルでリリースされています。
Stephan Remmler 4th solo album "Vamos"より"Bananaboat"
その後、ツアーのライブ音源から成るライブアルバム"HÜH (ヒュー)"をリリースしています。その後、Remmlerは、MCA Recordsに移り、アルバム"Amnesia"をリリースするも、10年間、私生活に引き篭もります。2003年になって、Remmlerは、3人の息子Cecil, Jonni, Lauriと一緒に作曲してアルバムを作りましたが、これはリリースはされませんでした。ただ、シングル"Everyday Cha Cha"と2枚のシングルは、ドイツでは上位にランクインしています。そして、Remmlerは、自分は影武者となって、息子達をしきりにTV出演させています。2006年に、ソロアルバムを作製しましたが、今度はInga Humpeの運営する小さなレーベルIt.Soundから、息子のCecilと共に作ったアルバム"1, 2, 3, 4...."は全く成功しませんでした。
Stephan Remmler 5th solo album "1.2.3.4...."
2007年に、Remmlerの息子のCecilは、Tommy Jaud原作の映画"Vollidiot (ファルイディオット)"のサントラを手掛けています。これに関係して、Remmlerは、ポップシンガーNenaと映画の主人公役のOliver Pocherと共にシングル"I Can't Do Anything About It"をリリースしており、この曲は、元々Peter BjornとJohnの曲"Young Folks"のドイツ語ヴァージョンで、ドイツ国内シングルチャートでトップ10入りしています。これ以降、Remmlerは、音楽プロジェクトに時々取り組むようになります。それでも、2010年には、BerlinのラッパーSidoとMTV Unpluggedで"Da Da Da"を一緒に歌ったり、2014年には、LaBrassBandaと言うバンドのアルバム"Kiah Royal"の1曲"Keine Sterne In Athen"に参加し、公式ビデオにも出演しています。また、2015年に、Remmlerの児童書"Heinrich, Schweinrichと空飛ぶワニ"が出版されています。また、2013-2016年の間、息子CecilのパートナーSarah Jane Scottの為に、曲を書いて、プロデュースもして、2016年には、アルバム"Ich Schau Dir In Die Augen (イッヒ・シャウ・ディル・イン・ディー・アウゲン)"がリリースされています。
Sarah Jane Scott album "Ich Schau Dir In Die Augen"
2016年末には、チャリティーCD用のクリスマス・ソングを担当していましたが、その後は表舞台から身を引いています。以上が、Stephan Remmlerの略歴となります。
Gert "Kralle" Krawinkel (G)
次に、Gert 'Kralle' Krawinkelについてですが、彼はWilhelmshavenの船長の息子とした生まれ、Cuxhaven(クックスハーフェン)で育ち、1969年に男子高校を卒業しています。その高校時代の1963年にCuxhavenで最初のスクールバンドThe Vampyrsを結成し、そこでリードギターを担当しています。その後、Kralleは、RemmlerがヴォーカルをやっていたバンドMacBeatsに加入しますが、やがてバンド名はJust Usに改名されます。ここら辺はRemmlerのバイオグラフィーと重なります。それで、バンドはドイツ北部で注目されるようになりますが、1969年にバンドは解散しています。
Cravinkel 1st album "s/t"より"Get A Feeling Going Around"
その後、新バンドCravinkel(クラフィンケル)を結成し、フォーキーなプログレを演奏していたみたいで、2枚のスタジオ・アルバムをリリースしましたが、商業的には成功はしませんでした。その為、1972年に、バンドは解散し、Kralleは教師の職に着きましたが、その間も、Emsland Hillbillies(エムストラント・ヒルビリーズ)等のバンドでギターを演奏しています。
Emsland Hillbillrs 1st album "Endlich"
1979年に、元バンド仲間のRemmlerとPeter Behrensと共にTrioを結成し、"Da Da Da"で大ヒットを飛ばします。Trioでは、歌詞はRemmlerが、曲はKralleが作っていました。彼のギターには、Wiesmoor市の紋章のステッカーが目立つところに貼られています。そして、Kralleは、Trioと平行して、1982年には、Marius Müller-Westernhagen (マリウス-ミューラー・ヴェステルンハーゲン)のバンドにも加入しており、その年の秋には、アルバム"Das Herz Einer Boxer (ダス・ヘルツ・アイナー・ボクサー)"をリリースしています。
Marius Müller-Westernhagen album "Das Herz Einer Boxer"より"An Den Händen Einer Hure"
また、1983年初頭には、友人のバンドEgal 88と共に、Fritz Rauが企画した緑の党の選挙キャンペーン"Grüne Raupe (グリューン・ラウペ)"にも数回出演しています。1984年は、Trioが約1年間、休息していたので、Kralleは、再び、Marius Müller-Westernhagenのバンドでリードギタリストとして演奏し、アルバム"Die Sonne So Rot (ディー・ザーネ・ゾー・ロット)"を彼とリリースし、ドイツツアーをやっています。また、1985年には、Kralleは、Trioの長編映画"Drei Gegen Drei (ドライ・ゲーゲン・ドライ)に1人2役で出演しています。撮影中に、長編映画の追加シリーズを担当したTVプロデューサーMonika Kölling (モニカ・ケリンク)に出会い、Kralleが亡くなるまで交際は続き、2013年末に結婚しています。1988年、Kralleは、Berlinで撮影されたドイツの長編映画"Killing Blue"にArmin Mueller-Stahl (アルミン・ミュラー-シュタール)と脇役で出演しています。1986 年に、Trioが解散した後、Kralleの周りでは長い間、何事も無かったようですが、 1989年に、Kralleは、GroßenknetenからBerlinに移り、友人Wilfried Szyslo (ヴィルフリード・シスロ)と協力してソロアルバム"Kralle"を制作し、1993年にリリースしています。
Kralle Krawinkel solo album "Kralle"より"Im Lauf' Der Nacht"
Kralleはアルバムの歌詞をすべて英語で書いていましたが、友人のRio Reiserにドイツ語に翻訳してもらっています。Nenaはシングル"'N Cmimeter Of Love"でデュエットパートナーとなっていますが、このアルバムは商業的には成功しませんでした。また、予定されていたセカンドアルバムの制作も結局、白紙に戻されました。Kralleは、Berlinのアパートの他に、第二の故郷であるスペインのSevillia近くにも自身のスタジオを持っていましたが、ソロアルバムでの不成功の後は、殆ど音楽から身を引いており、長年の友人のWilfried Szysloとのみ演奏をしていた位です。代わりに、Kralleは趣味である乗馬とオリーブ栽培を追求しています。Trio再結成の話しもありましたが、Stephan Remmlerとの音楽的アイディアの違いから、2000年頃に、再結成の話しは流れてしまっています。そして、2003年秋に、Kralleは気管支癌と診断され、2014年2月16日にCuxhavenで、66歳で亡くなりますが、その亡くなるまでの間に、長年のパートナーMonika Köllingと結婚し、彼女がKralleの遺産の管理を任されており、また息子が1人いるようです。
Kralle and the HooDoos album "s/t"
なお、2019年と2021年に、限定アルバム"Kralle & The Hoodoos"と"Kralle & The Hoodoos Unplugged 2"が死後リリースされており、また、Wilfried SzysloはKralleとの長年のコラボレーションで作成された、これら一連のデモ音源を自費出版しています。
Peter Behrens (Drs)
最後にドラムのPeter Behrensのバイオグラフィーですが、彼は、米国GIの非嫡出子で、実の母親に養子に出されています。それで、Behrens家に養子として引き取られ、Varel(ファレル)で育っています。小学校卒業後、Oldenburg (オルデンブルク)で写真家としてトレーニングを受けています。その後、兵役を終えた後、1965 年〜1968 年にかけて高等教育資格を取っており、小学校教師になるための勉強を始めめています。音楽に加えて、Behrensは、社会科学とドイツ研究を学んでいます。しかしながら、学業を終えた後、Wilhelmshaven-Heppens(ヴィルヘルムスハーフェン・ヘッペンス)の小学校での研修期間を途中で辞めてしまいます。その後、Behrensは、ポップ・バンドやスウィング・ジャズ・バンドのドラマーとしてドイツ北部をツアーしており、さらに6か月間アフリカを旅行しています。 1970年末まで、Wilhelmshavenヴィルヘルムスハーフェン)のカルテットP.U.P.(Pop Unites People)のドラマーで、ヒット曲をカバーしています。
Silberbart album "4 Times Sound Razing"より"God"
1971年には、クラウトロック・バンドSilberbart (シルバーバルト)に加入しており、商業的には成功しなかったものの、今ではコレクターの間で非常に人気のあるアルバムをリリースしています。 1970 年代の終わりには、ピエロになる為に、イタリアのミラノでアーティスト・スクールに 1 年間通い、その後、ピエロやパントマイムとして短期間働いています。1980年、失業中だったBehrensは、二人のミュージシャンStephan RemmlerとKralleが当時やろうとしていたバンドWindで、ドラマーのメンバー募集していることを新聞広告で知ります。何度もリハーサルを行った後、彼等は今後、この3人組としてのみ演奏することにし、バンド名をTrioに変更しています。コンサートやその後のテレビ出演では、Behrensはいつも同じ服装、つまり白いTシャツ、白いパンツ、赤いサスペンダー、そして赤い靴で登場していますし、ヴィルヘルム・ブッシュの絵物語"Max & Moritz"のMoritzに似せて、黒い髪を上向きカールに整えています。それで、1981年、Behrensも参加して、Trioはファースト・アルバムをリリースしましたが、そのアルバムのクレジットには名前は出ていません。 1982 年 2 月にシングル"Da Da Da"がリリースされ、全国的にヒットし、その後すぐに、Neue Deutsche Welleの中で世界的にヒットしており、セカンドアルバム"Bye Bye"とその他のシングルがチャートにランクインし、商業的にも成功を収めました。1984年にTrioが休息時期に入ると、Behrensは演技に専念し、エロティック・スリラー映画"Tausend Augen (1000 Eyes)"では口のきけない契約殺人者を、また別の映画"André Schafft Sie Alle (André Manages Them All)"では下っ端の詐欺師を演じています。1984年末、Behrensは昔からの交通違反で実刑判決を受けており、その為、公開刑務所で服役しなければなりませんでした。この為、Trioのサード・アルバム"Whats The Password"の制作には参加できませんでした。このアルバムとそれに付随してBehrensが2役を演じた長編映画"Drei Gegen Drei"は商業的に成功せず、評価も低かったのもあって、最終的にTrioは解散してしまいます。しかしなから、Behrensは、Trioのほとんどの作曲に関わっていなかった為、GEMAからの収入を拒否されています。また、Trioの解散後、RemmlerとKralleから、よく分からないお金の支払いと引き換えに、将来のレコード販売からの収入を放棄することに同意しています。なので、亡くなるまで、Trioでの演奏に権利を与えられていた付随著作権を全く利用してはいません。それで、Trio解散後、Behrensはさまざまなレコード会社から数枚のシングルをリリースしており、その中には1988年の欧州サッカー選手権公式ソング"Das Tor"やSuzanne Vegaによる"Tom's Diner"のカバー曲"Dep De Dö Dep (デップ・デ・デゥェ・デップ)"も含まれています。
Peter Behrens "Dep De Dö Dep"
しかしながら、Behrensのソロ・シングルはいずれも大きな成功を収めませんでした。 1991年、ドイツのコメディ映画"Manta-Der Film"で交通警察官として脇役を務めています。Trio解散後、長期間アルコールと薬物中毒に苦しみ、その為、Trioの時に得たお金をすべて使い果たしてしまい、常に失業状態にありました。その後、依存症を克服して、Behrensは、Bremerhaven (ブレマーハーフェン)とWilhelmshaven (ヴィルヘルムスハーフェン)で社会福祉活動の路上労働者として働いています。2005年と2006年には、Hamburgで開催されたNDWミュージカル"Sternenhimmel (シュテルネンヒンメル)"にMenke先生と共演しています。その後、再びバンドでドラムを叩くようになります。 2008年には、Peter Behrens & Drei Mann Im Doppelbett (ドライ・マン・イム・ドッペルべット)と言うバンドで、3人のTrioのファンが書いた"Drei Zwei"と言う曲をリリースし、初めてのMVも制作しています。
Peter Behrens & Drei Mann Im Doppelbett "Drei Zwei"
同年に、このバンドは、NDRのAktuellen Schaubude(アクチュェーレン・シャウブーデ)で受賞しています。2013年、Behrensは、Klaus Marschall (クラウス・マルシャール)の協力を得て自伝本"Der Clown Mit Der Trommel (The Clown With The Drum)"を出版しており、この作品は、翌年2014年にドイツ伝記賞を受賞しています。
Peter Behrens著 "Der Clown Mit Der Trommel (The Clown With The Drums)"
2014年のNRWisionで行った珍しいテレビインタビューの1つで、この本に関する自身の取り組みについて答えています。失業手当 II を受け取った期間の後、年金受給者となり、地元のバーに数回だけ演奏しています。2014年8月に、Eckhard 'Ecki' Schrader (エッカード'エッキ'シュラダー)と共に、最後のシングル" I Am The Nowhere Man"をリリースしています。
Peter Behrens & Eckhard Schrader "I Am The Nowhere Man"
2015年2月には、Buddy Buxbaumの曲"Ballast"のMVで主役を演じたり、 2014年には、Behrensがピエロ役を演じたArt & Weiseの曲"Golden Times"というMVもあります。Behrensは独身でしたが、2人の子供の父親でもありました。最後に住んでいたのはWilhelmshaven(ヴィルヘルムスハーフェン)で、2016年5月11日に多臓器不全のため病院で68歳で亡くなっています。火葬された後に、遺灰は北海に散骨されており、Wilhelmshavenでは、石油港のRüstringer Berg(リューストリンガー・ベルク)にあるSeefrieden(ゼーフリーデン)記念碑に名前の銘板があります。
Trio Stephan Remmler (左), Peter Behrens (中央), Karelle Krawinkel (右)
Trioの3人のメンバーのバイオグラフィーを書いてきましたが、ではTrioとしてはどうであったのかを追記していきたいと思います。先述してように、Stephan RemmlerとKralleは、1960代後半には、Just Usと言うロックバンドで活動しており、主に、Rolling Stonesのカバーをやっています。そこそこ、ドイツ北部では人気はあったようですが、あくまで局地的なものであったようです。その後、メンバーチェンジを経て、バンドは1969年に解散し、2人はそれぞれソロで活動していきます。Kralleは、Cravinkelと言うバンドを結成し、Remmlerは、Rex Carterと言う名義でシングル2枚を出して、ヒットしています。一方、Peter Behrensは、1970年代初頭には、サイケ・バンドSilberbartのドラマーでしたが、商業的な成功はしませんでした。RemmlerとKralleは、一緒に勉強して、1970年代には公務員教師として務めていますが、Behrensは、ミラノで道化師の学校に通っています。当時は、Kralleだけが、Emsland Hillbilliesと言うバンドに在籍しています。1979年1月末、RemmlerとKralleは、Just Us再結成ライブを敢行し、好評を博しています。二人は教師の職を辞め、再び音楽業界に戻ることを決意します。 1979 年 7 月 17 日、成功する音楽の制作を目的としてJust Us Music Productions GmbHというレーベルを使っており、この2人はこのレーベルに雇用された形となっています。その資金は「彼等2人なら音楽で成功する」と確信した友人達から提供されています。
Just Us Music Productions GmbHの一軒家(シェアーハウス)
2人は、OldenburgのGroßenknetenのOrtsteil地区(オルデンブルクのグローシェンクネッテンのオルトシュタイルちく)にある一戸建て住宅を月600マルクで借りて、そこで、Windと言うバンド・プロジェクトを色々とやり始めます。そのプロジェクトは数多くあり、時には25人のミュージシャンが参加したことも。この時に、後のTrioのレパートリーにもなる曲"Energy"や"Nasty" もやっています。この時には曲とかの出来を確かめる為に、様々な学校の人脈を利用して、学生の前で演奏したりしています。この間に、2人は新聞広告にドラマーのメン募を載せたりしていたところ、当時失業中だったBehrensがフルタイムで加入しており、ほぼ毎日、Großenknetenの一軒家に通って、リハーサルをやっていました。ただ、1980年初頭には、Windの資金は殆ど無くなり、RemmlerとKralleは、舞台装置の多くを売却せざるを得ませんでした。最終的には、2人は、Behrensだけを残し、ベースレスで音楽をやっていくとこにし、寧ろ、その方が面白くなるとも思っていたようです。よっで、歌詞がミニマルであり、楽器がドラムとギターで、ヴォーカル1人と言う編成になりました。それで3人は、細かいステージでの動作やMCとかまでをかなり練り上げで、バンド名もTrioとして、1980年12月20日に、資金寄付者や友人達を、地元のGasthaus Kempermann (ガストハウス・ケムパーマン)に招待し、最初のライブを行っています。
Trio 10-inch Mini-Album for Demo
1981年の初頭に、バンドは3曲入りの10インチ・デモ・ミニLPを自主制作し、多数のレコード会社に契約を持ち掛けましたが、23社から断られています。同時に、Trioは北ドイツをツアーしており、その珍しいラインナップにより少しメディアの注目を集めまています。 10インチミニ LPが、HamburgのレーベルのマネージャーLouis Spillmann (ルイズ・シュペルマン)の手に渡り、その中で、"Sunday You Need Love Monday Be Alone"という歌が彼の注意を引き、東フリジアでのTrioのライブを観に行き、特にプロとしてのステージでのショーマンシップが、最終的に彼を説得して、バンドはやっとレコード会社と契約出来ました。
Trio 10-inch Mini-Album for Demoより "Sunday You Need Love Monday Be Alone"
その契約では、数万マルクのの金額で、期間は3年間でした。プロデューサーには、The Beatlesとも親交があり、1970年代初頭には、John KennonのバンドのベーシストでもあったKlaus Voormann(クラウス・フォアマン)が抜擢され、彼の強い要望で、経営陣とバンドの仲介役も務めています。
Trio 1st album "Trio"
Trio 1st album "s/t"より"Ja Ja Ja"
1981 年の夏、Trioの最初のLP"Trio" の録音は、Husumにある厩舎を改装して行われました。Klaus Voormannはアルバムとその後の全ての録音に関わっており、制作費はわずか約40,000 マルクでした。一部の曲は、ステージ上での視覚的な衣装や小物等も含んでおり、録音費用に全て投資が出来ませんでした。その為、Trioの曲は、大幅に短縮され、場合によっては完全に抹消されたりもしています。このアルバムは 1981 年 10 月 20 日にリリースされますが、ジャケは、白紙にはTrioという名前と、Großenknetenの一軒家の完全な個人住所 (実際には Regenterstr. ではなく Regenter Str. と書かれている) と個人の電話番号のみが記載されていました。また、Remmlerは、裏ジャケに、タイトルの順番を手書きで書いたものをそのまま使用しています。これをデザインしたRemmlerとKralle, そしてプロデューサーのVoormannはレコードステッカーに名前だけが記されていました。ただBehrensは、アルバムのどの曲の作曲にも関与していなかった為なのか、レコードには名前が記載されていませんでした。Trioは、大都市や大きなクラブでの演奏を拒否した為、マネージャーであるLouis Spillmann(ルイス・スピルマン)は、地元でバンドの最初のアルバムを宣伝する為、3人でドイツのレコード店ツアーをすることになります。なので、バンドは午後はレコード店で演奏し、夕方はクラブで演奏していたそうです。Voormannは、RemmlerにCasio社のチープなキーボード、Casio VL1をプレゼントし、それを使って、Remmlerは、"Da Da Da I Don't Love You, You Don't Love Me Aha Aha Aha"を作曲し、この新曲はコンサートのセットリストに組み込まれて、観客からも好評でした。
Casio VL-1 keyboard
そこで、Voormannはこの曲をシングルとしてプロデュースすることにしました。そこで、Voormannは、仲の良かったYelloのZürichのスタジオで、1982年初頭に、"Da Da Da"の録音が開始されました。Voormann自身も、ベースパートを弾いています。また、Idealの女性ヴォーカルAnnette HumpeもBerlinのスタジオにてコーラスで一緒に歌っており、更に、"Ich Lieb Dich Nicht, Du Liebst Mich Nicht“とささやき声でナレーションも入れています。
Trio maxi-single "Da Da Da"
1982年2月にシングルとマキシシングルとして、"Da Da Da"はリリースされ、その直後、Trioは有名音楽番組RockPalastで 75 分間のライブを行い、TVでドイツ全国に放送されています。そして、"Da Da Da"が成功したのは、この曲が、当時の人気TV番組 Bananas で取り上げられたことと、サブカル雑誌AspekteにもTrioの写真が載ったことにもよるとされています。1982年5月初旬に、Trioは、"Da Da Da"と共に、ZDFのヒットパレードに出演していますが、これはNeue Deutsche Welleとされるグループの中では、初めての出演となっています。シングル"Da Da Da"はドイツのシングルチャートで2位に達し、ヨーロッパでは約300万枚を売り上げています。この曲は、後になって、デビュー アルバムに追加され、その後、Trioは、ドイツのアルバム チャートで 3 位に達しています。そうして、1982年5月末〜6月初旬に、Trioはコンサートを小さなクラブから大きなステージに移すようになり、1982年5月30日のローレライ野外ステージなどの様々なフェスにも参加・出演しています。しかし、ショー要素の多くは大きなステージには適していないため、音楽での勝負になっていきます。Trioは、1982年6月6日にEppelheim(エッペルハイム)のRhein-Neckar(ライン-ネッカー)ホールでドイツでの最後のコンサートを行っています。Trioはヒット曲"Da Da Da"でイギリスでの関心を集め、バンドは世界的に有名なTV番組Top of the Popsに出演するよう招待され、そこでは、この曲の英語バージョンを披露しています。このパフォーマンスにより、Trioに対するほぼ世界中の関心が呼び起こされました。その後、バンドは、"Da Da Da"の英語バージョンとして録音し、約30か国でリリースされており、カナダで最大の成功を収め、シングルは、ダブル・プラチナディスクを獲得しています。一方、日本とアメリカでもリリースしましたが、そこでは余り成功しなかったようです。シングル"Da Da Da"は全世界で約1,300万枚を売り上げ、ファースト・アルバム"Trio"は、20か国でリリースされています。彼らの国際的な成功の結果として、TrioはイタリアのVerona (ヴェローナ)の野外アリーナを含む、他のヨーロッパ諸国でも、いくつかのコンサートを開催しています。
Trio Maxi-Single "Anna - Lassmichrein Lassmichraus"
続いて1982年10月に、"Anna - Lassmichrein Lassmichraus (海外では、"Anna - Let Me In Let Me Out")というタイトルのシングルがリリースされ、1982年春に、ライブカセット"Trio Live"が同時にリリースされています。このライブ音源は、当初、カセットとしてのみリリースされ(1992年にCDのみで再発)、「カセットのみで入手可能な初のレコード」というキャッチコピーで宣伝されています。
Trio live cassette "Trio Live"
Trio "Tooralooralooraloo – Is It Old & Is It New"
この頃、Kralleは、Trioと並行して、別の音楽基盤を築き始める為に、彼はMarius Müller-Westernhagen(マリウス・ミュラー=ヴェスタンハーゲン)のバンドにも参加し、アルバム"Das Herz Eines Boxers"を出しています。Trioはもうコンサートを行っていませんでしたが、多くのTV番組には出演しています。 1982年12月、Trioは、ARD Klassik Rocknacht (クラシック・ロックナハト)の一部として演奏しています。この番組では、Trioの3人がオーケストラと合唱団の伴奏で、新曲Immer Noch Einmal" と"Tooralooralooraloo – Is It Old & Is It New"を初めて披露しています。また、"Da Da Da"では、Trioはアヒルのダンスを伴ったスペシャルバージョンを演奏しています。1983年初頭に、Trioは公の場から撤退し、新しいアルバムの制作に取り組み始めます。
Trio single "BUM BUM"
このアルバムから、1983年5月にシングルカットされた曲が"BUM BUM"でした。このシングルは英語バージョン"Boom Boom"もリリースされ、アメリカでも成功を収めています。ジャケにはHamburgの売春婦Domenica Niehoff (ドメニカ・ニーホフ)の深い胸の谷間が描かれており、彼女の胸に口紅で"BUM BUM"という文字が書かれていました。Niehoffはこの曲のために制作されたMVでも主役を演じています。1983年の夏、Großenknetenでのファンやメディアが押し寄せてきて、Trioは、安心して新アルバムの制作に取り組むことが出来なく成りつつあり、そのシェアハウスを数ヶ月間出て、スイスの新居に引っ越して、漸く、彼等は仕事に集中することが出来るようになります。セカンドアルバムを制作する際、Trioはファーストアルバムのミニマル・コンセプトから離れています。プロデューサーのVormannはほぼすべての新曲でベースを演奏しており、クリスマスソングでもある新曲"Turaluraluralu - I Do BuBu, What Are You Doing"を、女性合唱団とオーケストラでアレンジして収録しています。
Trio single "Turaluraluralu - I Do BuBu, What Are You Doing?"
Trioは、Voormannが、The Beatlesと深い親交があったことから、オノ・ヨーコの曲""Wake Up"も録音しています。この曲は、後にアメリカだけでリリースされたオノ・ヨーコの曲のコンピレーションへ収録されています。録音の大部分はWeilerswistにあるCanのスタジオで行われており、インスト曲"W.W.W."には、Holger CzukayとJaku Liebezeitも参加しています。この作品は、以前に Wir Wolln Watt という曲名でグリーンピースのチャリティー レコードとして独占的にリリースされています。そして、特別に、Stephan Remmlerが、1982 年のクリスマスイブにHolywoodのParamount Picturesスタジオで録音した"Turaluraluralu - I Do BuBu, What Are You Doing"をリリースしています。。Remmlerは、後になって、Bing Crosbyも同じスタジオで、伝説のクリスマスソング"White Christmas"を録音しているので、曲のクリスマスの雰囲気を高める為だったと語っています。
Trio 2nd album "Bye Bye"
trio 2nd album "Bye Bye"より"Immer Noch Einmal"
セカンドアルバムは、"Bye Bye"というタイトルで、ジャケは最初のアルバムと同じように真っ白でした。表と裏をそれぞれ8つの空白欄に分け、そこに商業広告を掲載できる旨が記載されています。広告費は版および分野ごとに 10,000 マルクで、初版には Uvex社からの広告が 1 つだけ含まれていましたが、第 2 版には、法律上の煩雑さのため広告がまったく含まれていませんでした。しかし、 3刷目以降、表紙はどんどん広告で埋め尽くされるようになり、合計 5 つのエディションが制作されており、最後の広告では、16 の広告フィールドすべてが占有されます。Trioは集まった資金をグリーンピースに寄付し、広告スペースも無料で提供しています。この作品はアルバムチャートで9位に達しました。
Trio single "Herz Ist Triumpf (Then You Call....)"
このアルバムから"Herz Ist Trumpf (Then You Call...)"と "Turaluraluralu - I'm Doing BuBu, What Are You Doing"がシングルカットされ、ドイツのシングルチャートでさらに上位を獲得していますが、ドイツのシングルチャートでは、1984年になると下位にしか上らなくなります。
Trio single "Tutti Frutti"
ただ、2016年の初めにリリースされた"Tutti Frutti"は、更に上位を獲得しています。アルバム"Bye Bye"は、海外でもリリースされましたが、こちらにはほぼ全曲英語バージョンが収録されており、アメリカとカナダでは、このアルバムは、"Trio And Error"と呼ばれ、現地の批評家から好評を博しています。
Trio 3rd album "Trio And Error"
Trio 3rd album "Trio And Error"より"Ich Liebe Den Rock'n'Roll"
その後、Trioは、1983年末にNYCの伝説的なクラブRitzを含むアメリカとカナダで数回コンサートを敢行したいます。NY Times紙は次のように報じています。「RitzでのTrioのショーは、彼等のユーモアを際立たせています。バックグラウンド・シンガーの代わりに人形が登場し、おもちゃの楽器がいくつか使用されます。洗練されたテクノロジー、シンプルな楽器、微妙なユーモア、純粋なロックの力が混ざり合ったパフォーマンスは、今年最も面白いダダイスト・ロック・イベントの 1 つとなりました。」と。しかしながら、アメリカでのこれらのコンサートはTrioにとって最後のコンサートとなります。その時に、Joe Jacksonとともに米国ツアーを行おうという申し出が提案されましたが、RemmlerとBehrensは拒否します。そして、1984年に、RemmlerとBehrensは、Großenknetenの一軒家から引っ越し、Remmlerは、Bayern に定住し、Peter Behrensは、Baden-Badenに移っています。つまり、あの一軒家には、Kralleだけが残りました。3人は1年間、音楽的に別々の道を歩みたいと考えていました。1985年初頭になって、初めて、3人が一緒にバンドの曲"Naked In The Wind For Africa"を演奏しているところが観られました。しかしながら、始めに書いたように、RemmlerはStephan & Nena名義で、少女Angela Smecca(アンジェラ・スメッカ)と一緒に"Feuerwerk (フォイアーヴェルク)というシングルをリリースし、John Williamsの指揮の下、彼は古典的なおとぎ話「ピーターとオオカミ」のナレーションを務め、アメリカの長編映画"Electric Dreams"でコンピューターの吹き替えを担当しています。彼はまた、次のような他のアーティストの作曲家およびプロデューサーとしても活動しており、最初、彼は、Die Ärzte の 2 枚目のアルバム"Im Schatten Der Ärzte (In The Shadow Of The Doctors)"のプロデューサーはどうか?と言われていましたが、バンド側はRemmlerの作品を好まなかったので、結局、この話は流れています。一方、Kralleは、Marius Müller-Westernhagenとのコラボレーションを続け、アルバム"Die Sonne So Rot"をリリースし、一緒にツアーを敢行しています。
Marius Müller-Westernhagen album "Die Sonne So Rot"より"Bye Bye"
そして、Behrensは 2 本の長編映画"Tausend Augen (1000 Eyes)と"André Can Do Them All" に出演していますが、昔の交通違反(無免許運転と飲酒運転を繰り返した)の為、1984年と1985年とに、4か月間、公開刑務所で過ごしています。また、この間、Behrensは、写真家としてのトレーニングを受けています。1984年には、Trioの曲のみを使用したカナダの学生映画"Mother's Milk, Freud's Flesh"が公開されています。1984年末に、Trioは再始動した時に、長編映画と新しいアルバムの制作を同時に始めることにしています。映画"Drei Gegen Drei (Three Against Three)"は、Dominik Graf (ドミニク・グラフ)監督のもと、1985 年の春と夏にBerlinで撮影され、プロデューサーはBernd Eichinger (ベルント・アイヒンガー)が担当しています。映画作品と並行して、Trioは4枚目のスタジオ・アルバムを制作することにします。
Trio 4th album "What's The Password"
Trio single "Ready For You"
音楽的には、4枚目のアルバム"Whats The Password"には、バンドのオリジナルのミニマル・コンセプトとの共通点はなくなり、ここでは電子楽器がサウンドを支配しています。この曲はCanのスタジオなどで再び録音されましたが、London, Berlin, München等でも録音されています。なお、Behrensは、刑務所にいたため、製作には関与してはいませんが、ドイツ人のドラマーCurt Cressが後任となっています。長編映画"Drei Gegen Drei (Three Against Three)"のプレミアは、1985 年 9 月末に行われ、アルバム"Whats The Password"も同時にリリースされました。 1 年の休暇の後、TrioはドイツのTV番組Wetten, Dass?に初めて出演しています。しかしながら、この映画とアルバムは評価が低く、商業的な期待を大きく下回りました。
Trio single "Drei Gegen Drei"
1985年末から1986年初めにかけてアルバムから3枚のシングル"Drei Gegen Drei", "Ready For You", "My Sweet Angel"がシングルカットされましたが、アルバムと同様にチャートにランクインすることは出来ませんでした。Trioは1986年の春まで何度かTVに出演していますが、Remmler, Kralle, Behrensが一緒に出演した最後は、1986 年 3 月 19 日のディンスタンダと言う番組でした。それで、アルバムと長編映画が商業的に大失敗した後、Trioは解散しました。ただ、別居の理由は不明ですが、Remmlerは後に、実際には6か月後に再会して新しいアイデアを交換したかったと説明しています。また、彼は、KralleとBehrensがTrioに何の貢献もしていないことに失望し、ソロアーティストとしてキャリアを続けると決意したとのことです。Remmlerは、1986年末に、4枚目のトリオ・アルバム用に作られた曲の一部を、最初のソロ・アルバムとしてリリースしています。更に、Remmlerは後に、この編成(Vo, G, Drs)での音楽的可能性が枯渇したことも理由として挙げています。解散後、Trioは1986年に、ベストアルバム"5 Years Too Much"をリリースしましたが、不成功に終わっています。その後、バンドは何年も沈黙を保っていました。 1990 年代のテクノ・ムーブメントの一環として、ヒット曲"Da Da Da"のリミックスが何度もリリースされ、その中にはJason Nevinsなんかも含まれていました。 1997年、自動車メーカーVolkswagenのCMが米国で放映され、それには英語バージョンの"Da Da Da"が付けられています。その後、この曲はアメリカで人気となり、アルバム"Trio And Error"の再発盤が"Da Da Da"という名前でリリースされ、米国のビルボードチャートにランクインしています。2000年頃、Trioは再び一緒に音楽を作ろうとしました。正確な背景は不明ですが、"Hertz Ist Triumph"の新録音など、3~5の新作が制作されていたようです。しかし、Remmlerは、後に、再結成が成功しなかった理由を曖昧に説明し、「うまくいっていればよかったのに」と述べたらしいです。再結成の試みは、Remmlerの長年のマネージャーであるGeorge Glueck(ジョージ・グリュック)の発案によるもので、レコード会社Universal Musicは、Trioに約50万ユーロの前払いを約束していたらしいのですが、Behrensのその後の発言によると、RemmlerとKralleの音楽的アイデアの違いによって、再結成の試みは失敗したらしいです。
最後に、Trioのライブを貼っておきます。Vo, G, Drs(しかも、Drsはバスドラ、スネア、ハイハット、シンバル1枚で、立って演奏すると言うスタイル)だけでこれだけの勢いは凄いです!
Trio in concert (1982年)