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のぼりべつクマ牧場
北海道・登別といえば? 登別カルルス、温泉入浴剤♨️→なんのCM?、クマ牧場🧸あったなと… 浮かぶのはそんな感じなのですが、 そんな登別へ初めて行ってみました。 温泉の硫黄モクモクと… 見るからに勢いありそーな、ダイナミックな光景が広がってます。 その規模と迫力に、 少々怖さを感じながら見て回れる場所。 そんな温泉地の一角から、ロープウェイで山に上り…クマ牧場ってそんな上にあるんだ⁈と。 そこはクマさんの園♪😆 といってココは北海道~いるのはヒグマです。 ヒグマの本物… そう見る機会なんてありませんで💧愛らしくも迫力なんでした。 お座りポーズで、招きネコのように手を振り👋 動物園のクマも、 こんなポーズでエサちょーだいwをやるんですが、ココでも見かけましたワ😁 透明なトンネル状に渡り、ヒグマにエサをやれるコーナーもあります。 ここを陣取ってるのは、とりわけデカいヒグマたち!思わず動画撮りましたがね~♪ おそらく、お座りしてるのんびりなクマたちは、来ないのかもしれませんw クマ牧場と言えば、昭和の昔から聞いてた施設。 あちこちの遊戯施設が消える中で、 今もその頃の名残りあるのは嬉しいような、懐かしさ覚える場所です😊
パンフレット 登別 2022年fanta
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函館ヒストリカルめぐり
五稜郭タワーで売られてた小冊子がなかなか濃く。 展望スペース内では、ジオラマで函館戦争のシーンや物語を展示しており。 そんなシーンを載せてるのがこの冊子です。 ----- ここで函館戦争をアバウトに😁 1868年、江戸時代もラストの幕末。 薩摩・長州(=薩長)を始めとした新勢力が、徳川幕府を倒さんと京都を出発! 京都、江戸→会津と攻め上り💥 武力で降伏させていた。 幕府側の榎本武揚(えのもとたけあき)は、軍艦で仲間と共に北海道へ。 薩長が新しい政府ならば、 かつての徳川の武士たちが追いやられ、切り捨てられてしまうと…危機を抱いたためだった。 榎本らは戦争を起こそうとしたのではなく。 あくまで自分たち幕臣らの居場所を、 未開の北海道に求め、それを新政府側に認めさせようとしたのだが。。。 はなから徳川勢力をぶっつぶそうとしてた薩長側。 榎本の要望を聞くはずもなく…。そこで起こされたのがこの戦いであります💧 ということで、 まずはリーダー榎本さん。 (1枚目→函館戦争当時+2枚目→ちょい若い頃) ・ ・ 榎本らが拠点にしたのは、五稜郭内にある函館奉行所。 五角形した五稜郭は、 奉行所を守る防戦施設で、江戸幕府によって作られた(1857年)。 つまり、 薩長と争う前からココにあったもの。 こんな形の防御施設は、ヨーロッパでよく見られるそう。その形を真似たワケです。 で、作られた当時… 海から3キロにある五稜郭は、 大砲で狙われたとしても、当時の弾では2キロしか届かず。余裕で守れる👍防衛距離だった。 しかーし年月経って幕末期、、 薩長軍が手に入れた、最新兵器の射程距離なんと4キロ!😱 余裕で奉行所がドンパチ狙われてしまったのですな。なんという時代の早さよ~😭 ----- 土方歳三死す… 函館駅から歩いて15分ほど。 土方さん最期の地となった、一本木関門のあった付近が公園になっており。 土方ファン、あるいは新撰組ファンはココまでやってくるのか? でありますが、私の行った夕方はすでに人影なく…ひっそりしていました。 土方は、 この関門近くで官軍の砲弾に倒れた…と言われています(3~4枚目)。 ですが、場所については諸説あるとのこと。 一本木付近だったかどうかもわかっておらず。 ----- 凌雲先生、博愛の気迫… 医師であった高松凌雲(たかまつりょううん)、 最後まで幕臣につき従い、ココ函館までやってきます。 先生の評判といえば、敵味方の区別なく手当てする…だったそう。 函館戦争の際、 ココ高龍寺には、凌雲先生の分院療養所があり。傷ついた幕臣の会津藩士ら大勢がいた(6枚目)。 それを知った薩長の官軍兵… 動けぬなら一気に襲ってしまえ😱となだれ込み、、ほとんどが斬殺されるという悲劇が起きます。 官軍は、凌雲いる本院にもなだれ込み。 そこに立ちはだかったのが凌雲センセでした。 “キミたちはそれでもサムライか⁈”🔥 (某ドラマのセリフより) 凌雲の気迫に官軍、圧倒されーの。 先生の姿勢に理解を示した、敵軍の将のおかげもあり。患者たちは救われた…というエピソード(5枚目)。 襲われた現場・高龍寺は広い敷地で、慰霊碑が建っています。 ----- 初の外国人墓地? ペリー艦隊が、港を開くためにとやってきた函館の地。 ここにも横浜の外人墓地と同じように、そこより小ぶりながら静かな場所が広がっています。 ペリーさんの軍艦、 日本に来て、2名の水夫がここで亡くなったと聞いてます。一人は病、もう一人はマストから落ちての事故。 ペリーは2人をここに埋葬する。 高台の、大海原を見渡す眺めに…故郷アメリカに向けて建てられた二基の墓。 今も星条旗が目印に🇺🇸。 ただ長年の風雪のためか、文字はほとんど読めなかったです(6枚目)。 ----- 中島父子、ここに散る… いわゆる歴史本に載らない人物たくさんあれど…。 ここに出てくる、中島三郎助(さぶろうのすけ)もそんな1人。 最近出た、とてもマニアな歴史人物本に彼の名あってビックリ… 自分的にウケたです😁 三郎助は浦賀奉行所与力の出身。 ペリーが来た時は、その艦船にも乗ったとか。 そんな彼は、榎本武揚に付き幕臣として函館へ。2人の若い息子たちも一緒だった。 やがて函館戦争。 市電・千代台(ちよがだい)駅付近は砲台が置かれ、激戦になったという(8枚目)。 ここを守備してたのが三郎助だった。 浦賀時代の同僚たち、 そして2人の息子…長男(20)次男(18)と共に散った(7枚目)。 北の大地に未来を感じ、ともに渡った仲間や家族。しかし結果こうなり… 自身はともかく、 2人のまだ若い息子を思うと、無念だったのではなかろうか…。 その場所には碑が立ち。 彼らを悼み、そこを中島町と名付けたといいます。 今はビュンビュン車が走る車道の一角。 当時を偲ぶ景色はありませんが、なんでだか初の函館で足向いちゃいました。 里見浩太朗主演(榎本武揚役)の、 年末ドラマが印象的だった記憶あり→それなり昔だがね~😂 なんか引き付けられるエピソードだったです。 ちなみに、、 毎年5月に五稜郭祭りあり。 この函館戦争な装束で練り歩くイベントだそう。 そのとき先頭行くのがなんと、三郎助ご子孫の中島さん。 当時、浦賀に妻と三男が健在、そのご子孫なのでしょうか…。 なんと感慨なのだろう~と、思ってしまいましたね😌
パンフレットfanta
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函館スタンダード観光
函館には2018年初めて行きました。 その際もらった観光マップ… 地図中心ですいませんが🤣ザッと観光案内したいと思います。 観光客で混んでたのは、 ・函館山からの夜景 ・函館駅に近い、海鮮市場 ・塩ラーメン巡り ・金森(かなもり)レンガ倉庫街ショッピング&グルメ ・五稜郭 でした。 函館市内は市電が走っており。 JR函館駅から近いところに駅があります。 が⁈函館駅が始発終点ではなく…完全に途中駅になっとります💧 ----- 市電“函館どつく前”方向に乗り。 たぶん、ドックって意味なんでしょね。 ど突く→→じゃないっスよ😆 十字街駅辺りの途中駅から散策できるのは、異人館の雰囲気あふれるエリア(3枚目)。 港の情緒と言えば、横浜や神戸を浮かべますが、函館はこじんまり規模が良い。 まず、ひどい混みようがなく。 北海道の涼しい風と、ちょっと寂しげな港の眺め…物思いに耽るには素晴らしいんであります😊 マイペースな静けさを堪能でき、私はお気に入り。 坂がたくさん出てくるココは、 市電を降りると登りが始まります。が、そんな厳しい坂じゃないのもグッド。 有名な撮影スポットは、 八幡(はちまん)坂(4枚目)。 坂の上には教会、ロシア正教会、レトロな建物など…ガイドブックで見かける異国情緒はこのあたりに。 カフェも楽しめます。 近くには… 北海道フェアでよく商品見かける😁五島軒(ごとうけん)の本店あり(3枚目)。 歴史ある洋食屋さんで、 店内は格調あり…雰囲気バッチシ。よく知られてるのはカレーざんす。 ----- 函館山には、 このエリアから向かうこともでき(坂ちょっとキツい💦)ロープウェイ乗って展望台へ~(5枚目) 混むのはやはり夜ですな♪ 当時は外国人観光客でギッシリでした。夏でも夜は冷えるのでご注意を。 函館山から見る景色の、 ちょうど真ん中あたりに函館駅。さらに先にあるのが五稜郭という位置関係(2枚目)。 展望台からの眺めは、 2枚目の地図でいう…左から右に向かって眺めてることになり。 函館観光は、 この範囲に収まってると言えます😊 そんな函館山の麓に広がる坂や教会群エリア。夜にも歩いてみましたが、人っこ一人なく…展望台とはエラい違いでした。 けど八幡坂の夜景を独り占め。。 いい思い出です。 ----- 五稜郭へ行くにも市電が活躍。 近くに電停あり、市電の行き先は“湯の川”行き。ココ、湯の川温泉ってありまして♨️おススメです。 アバウトに言うと、 函館どつく➖湯の川🚃 それと分岐点の十字街を通る谷地頭行き。 この3方向を市電が走っとります。 手前にある、100mほどのタワーから見る五稜郭は壮観! 堺では、古墳を上から見ることできませんでしたが🤣五稜郭はこの高さでほぼ見える♪(7枚目) で、、五稜郭の中ってなんか見れるの?? 敷地内には、かつての函館奉行所が復元され見学できます(8枚目)。 ちなみに、 この五稜郭近くに六花亭あり。なかなかステキ空間でした~(6枚目)。 六花亭(ろっかてい)は、 北海道で展開する銘菓やカフェなお店で。それぞれ違った造りの店舗という…ファンには楽しみなお店。 でも、六花亭のカフェ入ったのココが初めてで。それまで店の名もあまり知らなかったという。 お土産で見る“マルセイバタークッキー ”は知ってたのに…w😅 という、グルメはまた別の機会に上げたいと思います。 ※ポストカード:山下正樹氏の作品より
パンフレット 函館 2018年fanta
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新選組の宴会場
場所は京都、新選組のエピソードで知られる八木邸や壬生寺にも近いところにあります。 島原は江戸時代、花街だったところ。 その名はなんでも、島原の乱からついたとか。。 この角屋(すみや)は、料亭としての“揚屋(あげや)”の遺構を残し見学できる観光施設。 今は、角屋もてなしの文化美術館という名称になっています。 さて、この宴会場にどんな面々が集ったかといえば…幕末の有名どころが挙がるよう。 そして新選組ファンならば、 訪れてみたい数々のエピソードあり・・・な場所なのです😊 例えば… 局長だった芹沢鴨をグデングデンに酔わせ、八木邸に戻ったところを殺害というエピソード。 その酔わせた現場がこの角屋。 近藤や土方らが京都に上り、お世話になった八木邸。そこから近い角屋は、隊士らがしばしば宴会に使ったと伝わります。 大きな玄関、入り口には当時の刀掛けや刀タンスが残され。 おサムライさんでも、刀は預けていただきまひょ!😤というお約束です。 ところが! 新選組…これを堂々と破っちゃいます。 というのも、彼らの任務は京都の警護。刀取り上げられてはイザという時に困る、、 ということで特別に許さざるを得なかったとか。 しかーし、 酒が入ればドンチャンと、、調子も変わる💧 部屋には、隊士らが刀振り回して付けたという刀傷が残ってたり。 当時の飲み会、代金はなんとツケ払い。 江戸時代の商売はどこもそうなのですが、果たして新選組…年末にちゃんと払えたのかどうか?!w 近藤勇の手紙に… これからはツケ払いを止め、ちゃんと支払わせます…なんてのがあったとか。 もしかしたら、角屋からの請求や文句だったのかもしれませんね😅 一部は撮影禁止なのですけど、 2階の宴会場など…広さもあり、粋で個性ある天井絵やしつらえが見事だったです。 土方のお気に入りは“青貝の部屋”とか。 螺鈿細工の柱や調度品が優美な部屋。 また、柱や天井板など… 黒くすすけた感じを残してるのがリアル。 当時はロウソクが灯りの時代。たくさん点けたススが焼き付いてるんですねぇ。 新選組… 最初は壬生浪士組として、京都人からは“どこの狼藉集団?”だのと侮られてたわけですが。 芹沢局長を抹殺したあとトップが近藤に移り、池田屋で手柄上げーのと、だんだん活躍が知られていく。 そんな移りゆく新選組の、 つかの間の安らぎが角屋だったのだろうか~と思うと何だか感慨です。 ここは彼らの足跡が残る場所。 角屋の見学は3月から12月初め?までの期間限定。 しかも事前予約が必要という…フラ~っと見にはいかないかもしれませんが。 新選組ファンにはおススメの一つです😊
パンフレットfanta
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家康の八丁味噌
今年、大河ドラマの家康ネタ~ではありませんが笑) 愛知県岡崎市は徳川家康の生誕地。 八丁味噌で有名とは聞いてたものの、行ったのは初めて。 家康由来で残る八丁味噌メーカーが2つとか3つ?そのうちの、カクキューを見学したときのもの。 ここの味噌はスーパーなどで、少量入ってお値段良さげ💧なかなか普段使いは… という感じの、スポット登場なのですが😅 この味噌の特徴… ガイドさんによれば、二夏二冬寝かすところにあるよう。 色濃く、ちょい硬めのガッシリ味噌… でも?意外としょっぱくない。 実は年数置くほうが塩分は抜けていくそう。つまり健康的と言えるでしょか。 短い間で作ってしまう現代の味噌… に対して年数かける八丁味噌。コクもそれだけ出るとか。 ふたなつふたふゆ~~の説明が印象的😁 味噌を入れてる大樽は昔からのもの。 その巨大さよ…今じゃ作れる職人さんもいないそうで、樽の保存は大事なところ。 発酵生物が棲む… 味噌樽の空間にいるだけでも体に良さそ。 そんな敷地の一角にレストラン。 ザ・味噌ラーメンで、その名も家康ラーメン…すごーく美味しかったです。 ふたなつふたふゆ~ 巨大な樽の壮観な眺め、家康ラーメン… こんな記憶が残る、八丁味噌の現地です😊
パンフレット 愛知県岡崎市fanta
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しっとり風の盆祭り
富山県八尾(やつお)。 越中八尾・風の盆と呼ばれるこの祭りは、9月に入ってすぐの3日間開催されます。 どんなお祭りか…動画を見てもらうのが早いかもしれません😊 盆踊りといえばそんな感じなのですが、それぞれの町内から若い男女が参加。しかも、踊りに加われるのは20代までと制限付きであります。 三味線や胡弓の音色に合わせ、情緒ある踊りと唄は…日本の原風景のよう。 呼吸するような優しいリズムと、編み笠姿の男女が幽玄の世界にいざないます。 で、我々のような世代は?? 踊りの輪にこそ入れませんが😅、地方(じかた)と呼ばれる音曲・お囃子組に回り、若い世代を応援♪するわけです。 昔、どの地域の祭りもそうかもしれませんが、そこは若い男女が知り合う場…でもあったとか。風の盆にもそんな名残りを感じますねぇ😊 ワンパクだった少年も、お転婆だった少女も…年頃になり、この祭りで出会ってみればあらビックリ?独特な気分になるのでは。 で、親や祖父母は陰から応援なのですw ***** 八尾はこじんまりした町。 養蚕で栄え、昔ながらの風景も残ります。普段静かな町は、この祭りの時期には一変します。 なんでも富山一の人出であふれるという風の盆には、今や全国から観光客がやって来るそう。 私が行ったときはお祭りの少し前。 ですが前夜祭として、ホールで踊りの演舞が見られました。またそれもすごい人。 踊りの振りつけには男女の別もあり… 男踊りは農作業の様子を、女踊りはホタルを掴まえるしぐさなど表現。古き日本の暮らしぶりが、舞いに取り入れられ。 ・・・ってことを壇上から教わるのですが、すでに忘れとる😂これからは認知機能の向上に?よろしいかもしれない踊りの動作。 それ置いといても、日本ならではの秘めた美しさ漂う…風の盆です。 https://www.youtube.com/watch?v=RX4FjpNajwM
パンフレット 富山、八尾 2019年fanta
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世界一の大古墳
大阪・堺にある古墳といえば・・・仁徳天皇陵(→教科書の影響w)。 堺の探索で真っ先に行ってみました。 といって気づけば、、手元にパンフがありません。 8823yahabusa館長が先日行かれた古墳巡りの際、送ってくださいましたのでそれを掲載しまっす♪😆アリガトウゴザイマス 私が行った当時、ココはまだ世界遺産ではなかったですが、すぐあとに…登録がなされたとのこと。 百舌鳥・古市(もず・ふるいち)古墳群としての登録。。。 ん?百舌鳥、古市… わかんなかったですが、なんと周辺にはたくさんの古墳あるエリアなのですねぇ。 仁徳天皇陵(=大仙古墳だいせんこふん)は世界最大級。 上空からのこんな姿のように、地上からは見えませんで😅それはわかっていたものの、地上で見れば不思議の森状態。 ここからバスで少しいった、堺市役所の展望スペースからも眺められ。 でも、ンーーあまり変わらんよ、、見えかたは・・・🤣 究極に見るにはヘリコプターでどうぞ~~だそうでス🚁 でもこの展望スペースから、ところどころ似たようなこんもり緑の森あり。 もしかしてコレが古墳群なのか?!ということは見てとれる、楽しみがあるかと思います。 大仙古墳の近くには堺市博物館あり。ここのミニシアターで、当時の風景を再現してくれてます。 堺は大阪湾に面したエリア。 海上から古墳の姿がよく見えたであろう、とのこと。 例えば大陸からやってきた人々に、政権の権威を見せつける…という意味合いがあったのでしょうか。 そういえば古代エジプト・クフ王のピラミッドもあれほど巨大だった。 この仁徳天皇陵を、とりわけ巨大にした理由は、、なにかあったのだろうか?なんて古代史のロマンがわきます。 5枚目の写真。 古墳が台地の上に築かれてるトコに注目してみたり。 ブラ○モリ、、じゃないですが、地形を意識してできてることを思わせます。 古墳の向きは…けっこうバラバラなように見え。この辺の意識は、、なかったのだろうか?というナゾも😁
パンフレット 8823hayabusa館長よりfanta
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堺のディープな妙国寺
堺には2019年に行ってみました。 大阪から近いところに、いにしえの歴史スポットが?! ということでLet's Go~笑)🥳 今回のディープスポットは妙国寺、、 であります。 生麦事件は聞いたことあっても、 堺事件・・・とは聞いたことあるでしょうか? 私は全く知らなかったんです。 が・・・!😳 強烈なエピソードが浮かぶ、幕末の事件簿… じゃないですが、 なぜかそのシーンは聞き覚えあって、その現場となったのが堺の妙国寺だと知る。 そのエピソードとは、、、 外国人がサムライのハラキリをモロ見することとなり、その場にいた者たちが卒倒した・・・というお話😱 ***** 事件のあらましは次のようなもの。。。 1868年2月、 堺の警護に当たっていた土佐藩のサムライたち。 そこへフランス水兵がドヤドヤと上陸し、町の風紀を乱すなど…問題が起きた。 土佐藩士はこれを見かねて、水兵らに発砲! 11名を死なせてしまった。 異国人をこんなに殺害するとは、、 外交問題になりかねない…と判断した土佐藩+誕生したての新政府側。 撃った藩士たちの中から、 なんとくじ引きで20名を選び、ココ妙国寺にて11名が切腹した。 ***** ところで堺という町… ココは戦国時代から、商人が自由貿易し治めてた場所でした。 信長・秀吉・家康とも縁深く。 千利休をはじめ茶人たちのネットワーク、 南蛮や東南アジアと交易する商人などが、日本にさまざまな文化や武器をもたらした前線基地…みたいなところ。 歴史ある寺もあり、妙国寺もそんな一つ。 どんなエピソードがあるかといえば。。。 まず織田信長。 この寺にある見事なソテツが欲しい~~ と駄々をこね、無理やり引っこ抜いて安土城へ持ち帰る、、ってことをやってます😬🌴 続いて徳川家康。 本能寺の変が起こったとき🔥ちょうど泊まっていたのがこのお寺。 さぁここからどう逃げる?!😱というエピソード残る地だったり。 ・ ・ ・ 堺では、いろんな観光スポットにガイドさんおり、この妙国寺でもいろいろお話くださいました。 それで知ったさまざまなエピソード。 お寺には資料展示なブースがありまして、 信長・秀吉・家康伝来の品々が展示。 それもガラスケースにゴソッと収集、、 という状態がもったいなく。 もっと…しかるべきスペースで眺めたほうが良いのでは?と思わす貴重な展示だったかと😌 そうしたなかに堺事件の展示あり。 いきなり目に飛び込む黒髪の束、束・・・!?👀 切腹者が、 髷を落とした遺髪がココに残されています。 他にも白木の三方、、 生々しく血痕の残された状態のあり。 生き残った隊士が描かせた肖像の掛け軸など。 寺の一角で行われた切腹の場。 その跡地が残されています。 20名の土佐藩士のうち、切腹したのは11名。 12人目が着座して間もなく、 フランス側から中止を申し入れられ、あとの9名は命拾いした…というわけです。 ・ ・ ・ 戻ってから、この堺事件のことがどーにも気になり、、 図書館で資料を集めーの、 戦前の書物を中古で見つけたりと。のめり込みをしちゃったわけですが。 150年ほど前の、 彼らの念を想像させるかのような境内。 妙国寺のすぐ前には、 11名の墓が並ぶ別寺があります。 当時は堺の町民がこぞってお参りし、 涙を流さぬ者はなかった… と伝わるそんな日々から~~ずいぶん月日が経ったと感慨😌 どーして頭を離れなかったのか、、 それはあの黒髪の束、三方に残る血、短刀など生々しさが、 なんだか時を超え迫ってきたからでしょか。 確かにそこには彼らがいて、 こうして命を落とし、その遺品が一人一人を浮かび上がらせるかのように、 思えてしまってなりませんでした😥 ところで妙国寺、 ここは見事なソテツで知られてるそうで。 撮影は禁止でしたが、 信長のエピソード残るソテツ群が、それを思わせてくれます😊
パンフレット 堺、妙国寺 2019年fanta
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庭がとびきりの美術館
足立美術館の名は、ずーーっと聞いたことないままにきて。 何かの情報で、たまたま2枚目にあるポスター見る機会で“ココってどこ?!”みたいな笑) アメリカのガーデニング誌で、毎回1位をとってる…あちらの人には有名な庭園美術館だと。 ちなみにランキングには他・桂離宮など、いくつか日本の庭園が載っております。 で、、松江からそう遠くないココへも行こうと思い立ち。 チラシ見ると、かなり広い庭園?と見える。 実際行ってみると、直前の駐車場に着いてからも、ここにそんな庭園あるのかな?という雰囲気。 まぁ、出雲大社も近くまで行って、その雰囲気わからなかったくらいなので。 入場料はけっこう高いです。 美術館は、日本画をメインに展示しており。あまり、、、詳しくないんですけどね苦笑)💧 横山大観の作品も多く展示されていました。 ・ ・ そう、そんな一応美術館なのですけども、なんといっても注目は日本庭園! なるほどコレはヽ(; ゚д゚)ノ~~という、 ぜいたくに眺められる(ガラス越し)場がいくつも用意されているのです。 館内は・・・空いてました😁なので存分に庭を眺めることでき。 いわゆる、借景庭園になってるんですね~。 自然の山並みを背景に、手前の日本庭園を見事につなげて、自然に見せるという手法。 京都の東山、高松の栗林公園などいくつかあり、広々とダイナミックに感じられる景色となります。 見て回るとわかりますが… まぁーこれは、この庭園の維持管理が大変そう。入場料のメインはこれだね、などと思いつつ。 美しく、いつまでもゆっくりいたいような、そんな空間が広がっていました。 というわけで、、日本画はそこそこに。。庭にばかり目線いってました。 館内にはカフェが2店ほど。 残念ながらスルーしてしまったけれど、庭の絶景に面したふかふかソファーのくつろぎ席。 1000円以上のコーヒーにひるんでしまったけれど、、😂今度はぜひ! 次回の宿題: 優雅な喫茶店に入り浸る
パンフレットfanta
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ザッと松江市内
松江に行ったのは2014年。 新幹線で岡山へ→在来線で山間部を通り日本海側へ向かうルート。 途中の景色がホント山深く、印象深かった気がします🏔 松江の観光は、小京都と呼ばれる城下町や、宍道湖の風景、そして出雲大社(パンフないw💧)温泉などなど。 まずは、この城下町めぐりが風情あってよかったです。 当時の松江城…まだ国宝ではありませんでした。 “松江城を国宝に!”という、のぼりがあちこちに立っていて。 そのあと市民の念願かなうわけですが。肝心のお城に上らなかったワタシ…次への宿題となってます😅 ***** 城の向かいに『松江歴史館』という新しそうな施設あり(1~2枚目) お目当ては、上生菓子と抹茶をいただける和の空間。 しかも、、職人さんが生菓子作ってるのです…その場で。種類よりどりみどり。 京都観光でも“上生菓子+抹茶”を出してくれるところはあまりなく。 むしろ地方都市のほうが優雅に楽しめます、、という経験ここでも😆 ちなみに抹茶、お茶については、松江にはこだわりあるそうで🍵 歴史的にどの代かの藩主が、茶道を奨励したらしく…以来、そういう文化が息づいてるとか。 例えばJR松江駅、無料で緑茶をいただける休憩所がありました。 しかもおいし~♪美味しく無料、、というのはなかなかないッスよw こんなサービス、東京駅じゃムリ😱 ***** さて話を戻しましてw 市内の地図はザッとこのような感じになってます(3枚目) 上がお城。城下町は、宍道湖の水をうまく引いて作られてるのを感じます。 城に近い一角には武家屋敷、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の住んだ屋敷も見学でき。 とある番組を見てたときです。 海外の観光客がおススメだと言ってたのが、お堀を巡る“堀川めぐり”。 見てなければ、スルーしてたかもしれないソレに乗ってみると。。(6~7枚目) なるほど、これはなかなか楽しめます! 時間をかけてユラユラと…船頭さん漕ぐ舟で周るというもの。 楽しくガイドしてくれて、しかも…舟歌まで歌ってくれます♪ その哀愁帯びた音色は、かつての日本が、こういう労働歌や、物売りの声や、時を知らせる鐘だったり…風情ある音が響いてたんだろうなぁ~を思わせる気がして😌 と…帰ってきてから小泉八雲の本を読み、余計にそんな思いをめぐらせてました😊 ***** 松江市内の観光はうまくできてると思います。 足は巡回バスがうまく結んでいて、途中からでもあまり待たされることなく乗れるし空いてるw 私もこの巡回バスに乗りまくり。 そして観光スポットには、おしゃれな店が点在し。 女子旅で行ってもゆるりと楽しめる。ここにはまた一度、行ってみたいと思います。 松江での宿題:😁 松江城に上る 宍道湖のシジミをいただく
パンフレットfanta
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秋山兄弟物語
人間は苦労せんとできあがらんのじゃ ・ ・ 昔の人からの、聞き覚えあるこんなセリフも…この人物から聞かされると、妙に含蓄込もって聞かされる気がしてしまうのは。。。 数年前、ドラマ化されて観た『坂の上の雲』は、作家・司馬遼太郎の作品。 原作を読んだことありませんが、ドラマはとても印象深かったのを覚えています。 四国・松山を舞台に、ここで生まれ育った秋山兄弟の、明治時代を生きた人間模様が描かれる物語。 兄・秋山好古(よしふる)と、 弟・秋山真之(さねゆき)は、貧しい藩士の出から軍人となり、日露戦争で活躍する…アバウトに言うとそんなストーリー。 同時代を生きた正岡子規、東郷平八郎、乃木さんなど。 ほぼ名前くらいしか聞いたことない、軍人が主役のストーリーなんですが、こういう時代だったんだなぁーと知れて新鮮に興味深く。 そんな秋山兄弟の生まれ育った家が今に残されています。場所は、松山城へ上がる山裾近くにこじんまりと。 明治時代というと、結核が流行りーの野麦峠だの…暗い格差社会のイメージがあるものの💧 江戸から明治へと近代化するために、どこもかしこも上昇気流~!を目指した、、新たなたくましさを感じる時代でもあったんですねぇ。 彼らもこの明治の上昇気流に、見事に乗るわけです。 貧乏な秋山家、、と物語ではよく出てくる。 でも当時は多くがそんな境遇。貧しさがさほど劣等感にならない明るさ、逞しさみたいなのはあったかもしれません。 (それが昨今とは違う事情?😕) 当時は政府も制度もなにもかもが手探り状態、人材は足らず。新しいチャンスに満ちてる時代とも言えたワケですな。 ・ ・ そんな物語で印象に残ったのは、兄・好古の晩年でした。 陸軍大将にまで昇りつめた好古。 その先…といえば“元帥”の椅子に出世するのが、この頃の流れだった。。 ですが彼はきっぱりと退き、故郷・松山で校長を務めます。 実は、若い頃から教育に携わりたい夢があったのです。根本は教育が大事だと、思うところがあったのでしょうか。 軍人として活躍するのが不本意だったとは思わない…。けれど本当にやりたかったことに立ち返れるこの、、なんでしょね…潔さっていうの😌 おそらくサムライの気概というか、貧乏なところから出発してるがゆえの原点への慎ましさ、というか。 貧しくとも恥じるところはない!みたいな思いが、人生に昇華してるかのように見えて、感動するトコだったですね。 それは好古のみならず、物語で登場する軍人さんに往々にして感じる部分でもあります。 多くが幕末を生きたこともあり…どこかに武士道の精神が宿ってるとも言えるか。 年代で言えば好古は、明治より10年前の生まれ。真之や正岡子規は明治と共に生まれてる。 なので、彼らは江戸時代を知らない世代なのですが、周囲の大人たちにサムライ精神の空気を感じながら育ったことでしょう。 明治を過ぎると軍人も、だんだん悪く変わっていくのは時代の悲しさか。悪くというか、官僚的になっていく。 明治を生きた、一服の清涼感(キザ?w😆)のような生き様が、好古らしさを思わせて魅力です。 https://www.youtube.com/watch?v=sqhCtr15FQE
パンフレットfanta
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ザ・松山城
お城のある街って良いな~と思います🏯 規模はどうであれ、それに興味ない、意識してないにせよ… 幼い頃から家族に連れられたかも。あるときは遠足、、お花見🌸、誰かと記念写真を撮ったかもしれない。 ときに他から来た者に行きたいと言われてみたり?故郷を離れて戻ってくれば、いつしか懐かしく眺めるかもしれない。 そんなんで…興味なくともいつのまにか。。。 町の象徴に思えてくる、そんな存在にお城が入るのでは?なんて思います。 と…熊本城に引き続き、、愛媛の松山城。 この城も立派な街のシンボルでしょう。 小高い山の上に鎮座、下からあおぎ見る姿は美しく。 登るにはロープウェイか、リフトが選べる。私はリフトで上がりました。 山の上の城…というと登ったあと、山道のようなルートでたどり着くパターンもあり。 例えば岐阜城、津和野城跡など。なかなかに歩きます。。これが😅 松山城はそんなことなく、上がったあとはわりと平らで歩きやすい道だったかと。 何より、山のてっぺんにこんな広いトコが?! ってくらいの場所に、立派な城が構えてる…見ごたえのある城。 なのに、、城主って誰でしたっけ??なんでだか印象に残らないお城の城主🤣 敷地からの眺めも素晴らしく、眼下の松山市全体が見渡せるような感じです。 ホント、大きな街だなぁーと思って聞いてみれば、なんと人口50万以上とか? そんなに住んでるのね~と驚いた。 お城からの眺めよし!城の見ごたえ、美しさもあり。ふもとからあおぎ見ても良し♪ 松山城は、おススメの城の一つでっす😊
パンフレットfanta
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刀剣
2015年、水戸にある徳川ミュージアムには、 ある刀剣の展示を見に、、たくさんの女性がつめかけておりました😁 お目当てはこちら・・・ 燭台切光忠(しょくだいきりみつただ)と呼ばれる一振り。 なんで刀見に女性がそんなに?!👀 当時、刀剣を展示する施設が、どこも驚き首をかしげる現象でした。というのも2015年、 あるゲームがヒットしてからなんです。 刀・剣・乱・舞! そこで登場する刀剣(=キャラね笑)の実物を見に、各地に殺到してたのでした😲 ココ水戸でもそれを知ったミュージアム、 急きょパンフレットを用意してくれたわけで。 燭台切と呼ばれたのは、 あるエピソードから(4~5枚目)。 もとは伊達政宗が持っていたこの刀。 それを少年時代の水戸黄門サマが欲しい~~とねだりーの。 で、それ以来… 水戸徳川家に伝わり今日に至ります。 が!関東大震災で武器庫が炎上🔥 燭台切はそれ以来、こんな黒い姿になってしまいます。 ----- 燭台切光忠の光忠とは、刀工の名前。 時は鎌倉時代、 備前(今の岡山)長船(おさふね)の地で勢力を築きます。 この一帯はかつて刀剣の一大産地、、 刀剣博物館があるのどかなところ。それらの刀は総称して“備前刀”と呼ばれています。 ちなみに、国宝の日本刀のうち… 半数近くが鎌倉時代に作られたもの。 中でもこの備前刀が多くを占めるとか。 刀の質も鎌倉・室町時代くらいまでが頂点で、時代を経るごとに質が落ちてくると聞いてます。 鎌倉時代はサムライが台頭してくる時代にあって、刀はまさに実戦向け。 一本一本が時間かけて作られたわけではないでしょうに、それでも名刀はこの時代に多いんですねぇ😲 ----- そんな光忠作の燭台切・・・ ありし日の姿が資料に残されています(6枚目)。 光忠を初代とする長船派の特徴として、 丁子(ちょうじ)と呼ばれる…実のような模様あり🌱 7枚目は、国宝・生駒光忠のカタログ写真。 美しいほどの刃文が刻まれ~ところどころの丸い模様に目がいきます。 そして燭台切の刃文写しを見ると。。。 似た面影を感じる😊 名刀と呼ばれる刀の多くは、 足利将軍家→信長→秀吉→家康と受け継がれ。 あるときは誓いの証に、、 あるいは贈答に…権力者たちの手によって伝えられたブランド♪と言えそうです。 人の人生よりも長く伝えられる刀は、、近寄りがたくも妖しく美しく。 武器でありながら格別の価値を持つ… 不思議な、日本ならではの存在。 8枚目は→ゲームの燭台切光忠キャラ (ファンかどうか?聞かないでね笑🤣)
パンフレット 徳川ミュージアム 2015年fanta
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ザ・熊本城
お城のある街って良いな~と思います🏯 規模はどうであれ、別にそれに興味ない、意識してないにしても… 幼い頃から家族に連れられたかも。あるときは遠足、、お花見🌸、誰かと記念写真を撮ったかもしれない。 ときに他から来た者に行きたいと言われてみたり?故郷を離れて戻ってくれば、いつしか懐かしく眺めるかもしれない。 そんなんで…興味なくともいつのまにか。。。 町の象徴に思えてくる、そんな存在にお城が入るのでは?なんて思います😊 さて…熊本城です。 ここのパンフはサイズがすごいですw どこも城のパンフレットは力入れてるのですが、やはり・・・熊本城は規模が壮観なのを思わせる。 建てたのは加藤清正、秀吉に仕えた戦国武将です。清正よりあとを治めたのは細川家(あの前首相を出した細川家ですね)。 ですがいまもっても、お城と清正とは結びつけられ、崇敬されてるのは熊本城ならでは。 ・ ・ ・ そんなお城…熊本地震で危うい状態に!! それでも崩れなかった石垣ややぐらはありました。 そんなときでも“さすが清正公の城だ”と声上がりーの👏 そもそも地元では“清正”などと、呼び捨てにするのもはばかられるような空気…一部にあるくらい??😁 そんなお城なので、地震での市民の心配はある意味…自宅と同じくらい(かそれ以上?)なほどだったかもしれません。 熊本城は近くにある繁華街からも、見上げる目線でよく見える。見えるというか、よく映える♪ まさに象徴に思えましたね。いいなぁ~とも思った。 人々からそんなふうに慕われるこの城は、郷土の誇りでありましょう😊
パンフレットfanta
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ザ・阿蘇山
火の国熊本、、、🔥なんて昔聞いたような。 熊本の観光といえば? ザックリ言わせてもらえれば、阿蘇山と熊本城だと思います。 それくらい見応えあり、迫力あり、畏敬の念あり…という意味で。 阿蘇山はホント火口近くまで見学でき、真近で見ると恐ろしさを感じるほどの迫力。 常にガスがモヤモヤと出、いかにも活火山の雰囲気。時々警戒が出ると、見学ができなくなる場所。 そんな山頂までの道のりは草千里と呼ばれ、のどかな緑の牧場♪ 緑の鮮やかさがまぶしいほど。牛ものんびり放牧され、おススメのドライブコースでっす🐮 ふもとの町からは阿蘇連山が一望でき、湧き水も豊富。なんとその数、数百数千とも…火山の恵みでしょうか。 他九州もそうなんですが、熊本も食材は豊富。 野菜、水、乳製品、牛肉、魚…地産地消バッチシだよね熊本も😊 地図で見ると、山を囲んでぐるーっとリングのようなふもとの町。つまりコレ、阿蘇山のカルデラなんですねぇ。 かつてこんな広い範囲で噴火したってことか。 それは縄文時代だと聞いてます。それってすごいすごい規模だったはず。想像は・・・したくない、、😱 けど阿蘇はそんなエネルギッシュな山ということで。。まさに火の国。でも恵みも計り知れないのですね。
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