-
自然硫黄 (natural sulfur) 九重硫黄鉱山 #0703
九重(くじゅう)硫黄鉱山産の黄白色の自然硫黄です。(背景はソフトウエア処理しています。) 九重硫黄鉱山は、九重火山群の硫黄山の火口の硫黄および昇華硫黄を採集していた鉱山です。硫黄の採取は戦国大名で積極的に海外交易を行っていた大友宗麟の時代に遡るとも云われますが、本格的な採取は江戸時代に始まりました。初期の採取法は岩石の間から硫黄を掘り起こして取る単純なものでしたが、次第に硫気の噴出孔の周囲に石を積み、ムシロで覆って硫黄を付着させたものを定期的に取り出す「練り硫黄」の手法が開発されました。純度の高い国産硫黄は火薬原料としての用途に加え、当時の主要輸出品目の一つであったマッチの材料として大量に用いられ、1878年(明治11年)頃に九重鉱山としての稼業が始まりました。1896年(明治29年)に広海二三郎が採掘権を取得し九重山硫黄鉱業所を設立、昇華硫黄を煙道に通して凝結させる誘導法(シチリア法)により生産を急増させ、大正時代から昭和時代にかけて黄金時代を迎えました。この頃設けられた硫黄の運搬道路が現在の九州横断道路(通称:やまなみハイウェイ)の基となっています。1934年(昭和9年)には福岡県久留米市でブリヂストンの工場が稼働し、ゴムタイヤの強度を高める添加剤としての需要も拡大しました。1950年(昭和25年)の朝鮮戦争時には、硫黄価格がつり上がり「黄色いダイヤ」と呼ばれ、鉱工業の花形となりましたが、昭和30年代に入る石油の脱硫装置からの硫黄生産が可能となり、折からの石炭から石油へのエネルギー転換を背景に石油の副生成物としての硫黄生産が急増したことから硫黄の生産者価格は大幅に下落しました。九重硫黄鉱山での硫黄採掘は、1972年(昭和47年)を最後に行われなくなりました。
元素鉱物 大分県玖珠郡九重町 ミニチュアサイズ石泉亭
-
自然硫黄 (natural sulfur) 米子鉱山 #0686
純度の高い自然硫黄標本です。背景はソフトウエア処理しています。 長野県と群馬県の県境に跨り日本百名山の一つに数えられる四阿山(あずまやさん、標高2,354m)カルデラ内では古くから自然硫黄が採集され、続日本紀には713年(和銅6年)に信濃国の調(租税)として硫黄が納められたという記録が残っています。江戸時代の宝永年間(1704年~1711年)に米子村の竹前権兵衛が運上金30両で採掘を請け負い、1719年(享保4年)に鷹ノ目硫黄五千貫を幕府に納め、1,600両を下付されたといいます。「鷹ノ目」は透明な黄色結晶からなる純硫黄を指します。ちなみに竹前権兵衛はこの資金を基に今の現在の新潟県新発田市で紫雲寺潟新田の干拓事業を行い、紫雲寺潟新田の中には竹前氏が庄屋として差配する米子新田が置かれました。米子鉱山(よなここうざん)は1898年(明治31年)に須坂硫黄会社が竹前氏から経営権を受け継いだ後、数回の所有者変更を経て中外鉱業株式会社が1934年に米子鉱山を買収、硫黄のほかに蝋石、褐鉄鉱なども産出しました。戦前、戦中は火薬原料としての硫黄の需要が高く、昭和10年代の最盛期には月産1,200トンに達し、鉱山関係者約1,500人が生活していました。鉱山から須坂駅までは全長14kmに及ぶ索道が設けられ、集落には共同浴場、学校、映画館なども建設されました。戦後石油精製の副生成物として硫黄が得られるようになったことから硫黄鉱山への需要が減少、1960年(昭和35年)に硫黄の採掘を終了し、1973年(昭和48年)に全面閉山しました。
元素鉱物 長野県須坂市米子 ミニチュアサイズ石泉亭
-
自然硫黄 (natural sulfur) 知床硫黄山 #0659
硫黄を熱すると120℃で溶融し、液体の硫黄に変わります。本標本は既に固体化しているため黄色ですが、液体の硫黄は赤茶色になるそうです。1~3枚目は背景をソフトウエア処理しています。 知床硫黄山は、大量の溶融硫黄を噴出することで知られています。1857年(安政4年)に北西側中腹の爆裂火口から噴火し、溶融硫黄が海浜まで流出し、1859年(安政6年)に会津藩によって採掘が試みられたのをきっかけに、硫黄採掘が始まりました。記録に残っている範囲では、標高600mの北西山麓に位置する1号火口(現在の新噴火口)から4回の噴火があり、大量の溶融硫黄を噴出し、そのつど採掘が行われています。最後に噴火したのは1936年(昭和11年)で、当時採掘権を持っていた皆月家から日本特殊鉱業に採掘権が移り、近代的な設備を導入した本格的な採掘が行われました。第二次世界大戦以降は知床硫黄山での硫黄採掘は行われていません。
元素鉱物 北海道斜里郡斜里町遠音別村 スモールキャビネットサイズ石泉亭
-
自然硫黄 (natural sulfur) 松尾鉱山 #0649
クリーム色の自然硫黄です。 松尾鉱山では1882年(明治15年)に自然硫黄の大露頭が発見され、1888年(明治21年)に小規模な採掘が試みられましたが、失敗に終わりました。1911年(明治44年)に、横浜の貿易会社増田屋が参画し経営を掌握してから多額の投資による本格的な採掘が始まり、増田屋は1914年(大正3年)に松尾鉱業を興し、その後30年にわたって鉱山経営にあたりました。鉱山がある標高約900メートルの元山から麓の屋敷台まで索道を通し、1934年(昭和9年)に東八幡平駅から花輪線大更駅まで松尾鉱業鉄道を敷きました。 一時は日本の硫黄生産の30%、黄鉄鉱の15%を占め東洋一の産出量を誇り、鉱山地域の人口は1920年(大正9年)に1132人、1935年(昭和10年)に4145人、1940年(昭和15年)に8152人、最盛期の1960年(昭和35年)には1万3594人に達しました。戦後になると労働者の確保を図るため、公団住宅が一般化する前から水洗トイレ、セントラルヒーティング完備の鉄筋コンクリートによるアパートメントや小・中学校、病院、映画館、会館等が建築され、標高900メートル前後の山奥にもかかわらず当時の日本における最先端の施設を備えた近代的な都市が形成されたため、「雲上の楽園」と呼ばれました。 しかしながら1960年代後半以降は深刻化する大気汚染防止のため石油精製工場において脱硫装置の設置が義務付けられ、脱硫工程の副生成物である硫黄の生産が活発化し、硫黄鉱石の需要は急速に無くなり、1972年(昭和47年)に完全な閉山となりました。廃墟となったアパートメント群は今でも八幡平アスピーテラインから遠望することができます。
元素鉱物 岩手県八幡平市松尾寄木 ミニチュアサイズ石泉亭
-
自然硫黄(natural sulfur) 精進川鉱山 #0323
透明感のある高純度の自然硫黄標本です。 精進川鉱山は雨鱒川鉱床と精進川鉱床からなり、その歴史は1895年(明治28年)に雨鱒川鉱床で硫黄が発見・採掘されたことに遡ります。精進川鉱床は1938年(昭和13年)年に発見され、以降この鉱床を主力とする硫黄鉱山として稼行されました。1955年(昭和30年)以降は硫化鉄も併せて採掘しましたが、1959年(昭和34年)に閉山となりました。閉山時の月次生産量は硫黄約400トン、硫化鉄鉱1,500~2,000トン規模であったとされています。
元素鉱物 北海道亀田郡七飯町東大沼 スモールキャビネットサイズ石泉亭