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1963 15TH SPARK (SIFFERT RACING TEAM) LOTUS 24 J.SIFFERT
プライベーター・スイスの星 ジョー・シフェール 初ポイント ジョー・シフェール スイス出身 2輪ライダーとしてキャリアをスタート 1960年4輪転向しヨロッパFJチャンピオン 1962年F1デビューを果たす 1963年は自己のチーム SIFFERT RACING TEAMを立ち上げ ロータス24のマシンを購入して参戦 R3オランダGP 決勝7位初完走 R4フランスGP 予選10位から 自身の初入賞の決勝6位 シフェールのキャリア入賞は20回 この年の入賞は1回1ポイントで 3名のドライバーが並んだが オランダの7位があり 3名の最上位の年間15位 モデルはスパーク R5イギリスGP仕様 予選15位→決勝はリタイア フロントのカーナンバー25が 中心の白い丸から右斜め前方に ずらしたデザインとなっている
240122 J.SIFFERT 1963年 25FW12C
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1977 (30TH) SPARK HESKETH 308E H.ERTL
フランク・ダニー作 HESKETH 308E ハラルド・アーテル ポイント獲得ならず 1977年ヘスケスは資金難により 開幕~R4までを欠場 R5スペインGPでニューマシン308Eを投入 翌1978年序盤まで使用されて ヘスケスの最後のマシンとなった このヘスケス308Eは後に 空力のスペシャリストとも呼ばれ ウイリアムズ・ロータス・リジェ等で 活躍したフランク・ダニーのデザイン ドライバ―は前年より残留の ハラルド・アーテル(オーストリア) チームメイトはルパート・キーガン アーテルはR7ベルギーGP 予選25位→決勝9位が最高位 R9フランスGPでシーズン2度目の 予選落ちを最後にチームを離れ ヘスケスもノーポイントでシーズン終了 モデルはスパーク R7ベルギーGP仕様 アートル シーズンベスト9位 メインスポンサーのHEYCOは ナイロン樹脂製や金属製の配線材料を 販売するアメリカの会社 1970年代ではあまり見ないFORDのロゴが フロントウイングに存在する
231214 H.ERTL 1977 25FW12C
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1975 (29TH) SPARK HESKETH 308 B.LUNGER
デュポン創業者一族の御曹司 ブレット・ランガー デビュー ブレット・ランガー アメリカ出身 メロン財閥・ロックフェラー財閥と並び アメリカ3大財閥とも言われるデュポン財閥 創業一族の御曹司 デュポンは化学メーカー 1975年ヘスケスの2NDドライバ―で 終盤3戦をスポット参戦 チームメイトはジェームス・ハント 3戦ともハントがポイント獲得したが 13位完走/10位完走/リタイア に終わる 翌1976年はサ―ティスに移籍 R10ドイツGP ニュルブルクリンク 燃え盛るマシンからラウダを救出した 勇気ある英雄ドライバ―4人の1人 (G・エドワーズ H・アートル A・メルツァリオ) ランガーはF1通算決勝出走34回で 残念ながらポイント獲得は無し これはポイント獲得無しドライバ―の 決勝出走回数のワースト3位 (2位 マックス・チルトン 35戦 (1位 ルカ・バドエル 51戦
230710 B.LUNGER 1975 25FW12C
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1993 7TH SPARK LIGIER JS39 M.BRUNDLE
2度目のブランドル・ブランデル イギリス人コンビ LIGIER JS39 1993年はリジェはドライバ―を一新 当初は前年度にブラバムで参戦 ウイリアムズのテストドライバーも 務めたデイモン・ヒルにオファーも固辞 その後も実力者イギリス人ドライバ―で ベネトン離脱のマーティン・ブランドルと マクラーレンのテストドライバーであった マーク・ブランデルを起用 実況泣かせの2度目のM・Bコンビ結成 1976年から参戦のリジェ史上初めて フランス人ドライバ―無しとなった 当時最強のルノーエンジン2年目 マシンともマッチして飛躍 ブランドルはR4サンマリノGPで 予選10位→決勝3位表彰台を獲得 ここから13戦で半分以上の7度の入賞 チームも最終戦まで4位フェラーリと争い 敗れたものの4強に次ぐ5位に躍進 ブランドルは終盤2戦を 日本でのGITANEタバコ発売記念の 特別artカラーで出場し話題となった https://muuseo.com/FW12C/items/124?theme_id=31948
230626 M.BRUNDLE 25 1/43FW12C
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1978 21ST SPARK TEAM REBAQUE LOTUS78 H.REBAQUE
ヘクトール レバーク自チーム設立 チームレバーク唯一の入賞 LOTUS78 ヘクトール・レバークはメキシコ出身 ホテルチェーン経営者の息子 1977年エンサインでデビュー その豊富な資金を基に 1978年は自チーム チームレバーク設立 この年のチャンピオンマシン ロータス78のマシンを購入して参戦 チームカラーはF1では珍しいブラウン 体制が整なわなかった事もあり 全16戦中 予備予選落ち3回 予選落ち4回 予選も20位前後の成績であったが R11ドイツGPでは自身初の6位入賞 約2年間活動のチーム レバークとしては F1選手権での唯一のポイント 翌1979年もロータス79のマシンを購入 それだけにとどまらず終盤3戦は 独自のシャーシ レバークHR100を制作した
H.REBAQUE 1978 25 1/43FW12C
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1975 (24TH) SPARK HESKETH 308 H.ERTL
ハラルド・アートル F1デビュー 1975年R11ドイツGP HESKATH 308 ハラルド・アートルはオーストリア出身 イエローのヘルメットが特徴 ヴァルシュタイナー・ブルワリーのチームが HESKATH 308のマシンを購入して 1975年R11ドイツGPより3戦限りの出場 デビューとなったモデル仕様の ドイツGPは予選23位→決勝8位完走 決勝はシーズンベストリザルト ヴァルシュタイナーは1753年以来 ドイツのアルンスベルクの森で醸造される 淡い黄金色の伝統的なドイツビール 1978年からのアロウズのスポンサーでも 有名ですが 1975年は自チームで出場 ゴールドカラーが何とも目を引く1台 #F1-1975年 #ヴァルシュタイナー #F1デビュー #1975年
H.ERTL 1975 25 1/43FW12C
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1976 20TH SPARK HESKETH 308D R.STOMMELEN
ロルフ・シュトルメン ドイツ出身 オランダGP ヘスケスより参戦 1976年チームヘスケスは オーナーのヘスケス卿の資金が尽き ドライバ―のJ・ハントとデザイナーの ポスルスウェイトが移籍 マシンは前年度後半戦の308Cから 308Dとマイナーチェンジしたのみ スポンサー無しのマシンが一転して 男性向けの月刊誌ペントハウスと フランスのタバコ巻紙のリズラが付き マシンにアダルトモデルが大きく描かれた シュトルメンはヘスケスのマシンで R12オランダGPのみスポット参戦 予選25位→決勝12位完走 ブラバムでも2戦のみ参戦 R10ドイツGPでは決勝6位入賞 1ポイント獲得して年間順位20位 ◆R16日本(富士SW)は未出走◆ マイナーマシン得意のRACELAND GOLD EDITION別注シリーズの1台 #1976 #F1-1976年
R.STOMMELEN 1976 300 25FW12C
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1995 17TH PMA LIGIER MUGEN HONDA JS41 A.SUZUKI
日本人2人目のフルタイムF1ドライバ― 鈴木亜久里の最後のマシン 1994年ジョーダンのスポット参戦のみ 1年間浪人生活の亜久里であったが 1995年は無限エンジンと共に フランスチームのリジェで参戦 しかしながら開幕前突如 M・ブランドルとのシェアという形になり 開幕3戦は出場したもののその後は 予定のR7フランスがブランドルになるなど 亜久里本人もいつ出場するのか 分からない不安定な状況 しかし5戦ぶりに出場した R9ドイツで予選18位→6位入賞を果たす これは1991年の開幕戦以来 52戦ぶりの入賞(予選落ち含む) その後R15・16の日本連戦に出場も R16鈴鹿の予選でクラッシュ 肋骨の骨折で決勝は走ることなく 結果的にF1キャリアを終える事となった 日本人初の表彰台ドライバーは 2005年スーパーアグリとして チーム監督としてF1に復帰する 鈴木亜久里(日本) 決勝出走回数 64回 予選最高位 6位 1993年 フットワーク R12ベルギー 決勝最高位 3位 1990年 ラルース R15鈴鹿 #F1最後のマシン #1995
A.SUZUKI 25 1/43 LIGIERFW12C
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1979 6TH PMA LIGIER FORD JS11 P.DEPAILLER〖🏆1〗
人生は楽しむためにあるのスタイルを貫いた パトリック・ドュパイエ フランス出身 長年在籍したティレルを離れ 1979年は母国フランスのリジェに所属 TMはジャック・ラフィーのフランス人コンビ フランスチーム初のグランドエフェクトカー リジェJS11は開幕戦から2戦連続の 予選フロントロー独占して周囲を驚かせる ドュパイエも7戦目までで 予選平均2.85位(ラフィーも同率) 決勝もR5スペインで優勝(モデル仕様) 5度の入賞でランキング3位につける しかし趣味のハンググライダーで 両足骨折の事故を起こし8戦以降は欠場 開発能力の高いドュパイエの離脱で チームも勢いを失い後半失速 R4アメリカ東 ロングビーチでは ノーズの先端に穴をあけて急造ダクトを作成 現代では考えられない荒業を実施してます ドュパイエ予選4位→決勝5位 画像7 #F1-1979年
P.DEPAILLER 1回 25 1/43FW12C
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1979 17TH PMA LIGIER FORD JS11 J.ICKX
1979年J・イクスF1最後はリジェ 負傷のP・デパイユに代わり R8フランスGPより参戦TMはJ・ラフィー リジェは前半6戦で3勝2位2回と 好調のスタートを切ったが 後半は一転苦戦の中イクスも 予選はJ・ラフィーに全敗 R13イタリアの11位が最高位 決勝はR12オランダ5位がベスト 結果的にこれが通算40回目の 自身最後の入賞となった ル・マン24時間では6度の優勝 ジャッキー・イクス (ベルギー) 114戦 優勝8回 PP13回 FL14回 表彰台25回 入賞40回 #1979年 #F1-1979年 #F1
J.ICKX 1.872 25 1/43FW12C
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1994 (33RD) SPARK LIGER RENAULT JS39B F.LAGORCE
1994年は46名のドライバ―がエントリー (A.モンテルミニのみ決勝未出走) 46名のドライバ―の出身国ランキング 3位 イギリス 7名 2位 イタリア 9名 1位 フランス 11名 11名のフランス人ドライバーで 最後にエントリーしたのが フランク・ラゴルス 1992年フランスF3チャンピオン 1994年国際F3000で2位 リジェのテストドライバーから J・ハーバートの移籍問題により R15日本GP 予選20位→決勝R R16オーストラリアGP(モデル仕様) 予選20位→決勝11位 の2戦のみの出場 1995年リジェ 1996年フォルティの テストドライバーもF1参戦はできず F1生涯出走回数は2回のみですが SPARKによりモデル化されました #1994
F.LAGORCE 25 1/43 GITANESFW12C
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1994 (26TH)+α SPARK LIGIER RENAULT JS39B J.HERBERT
J・ハーバートのリジェは1戦限り E・ベルナールとトレードの形で R14ヨーロッパGPに急遽実施 初めてのマシンで予選7位→決勝8位 TMのO・パニス 予選11位→決勝9位 次戦はベネトン移籍 ハーバートは1年で3チーム 無限V10→ルノーV10→フォードV8と エンジンも3ブランドと 目がぐるしい1994年だった SPARKはこの1戦限りもモデル化 発売される前はハーバートが リジェ在籍したのも忘れかけていました #F1 #1994
J.HERBERT 25 1/43 GITANESFW12C
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1994 18TH ONYX LIGIER RENAULT JS39B E.BERNARD
1994年エリック・ベルナールは 1991年ラルース時代の日本GPで 金曜日に足を骨折して以来のF1復帰 予選・決勝ともTMで新人の オリビエ・パニスに敗れる事が多く R9ドイツGPではベルナール生涯唯一の 3位表彰台獲得もパニスは2位 入賞はこの1回のみで 年間順位は18位4ポイント R14ヨーロッパGPには ジョニー・ハーバートと入替で ロータスに移籍する #1994
E.BERNARD 25 1/43 LIGIERFW12C
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1973 (26TH) SHADOW DN1 (EMBASSY HILL) G.HILL
2度のWC G.ヒルが自らのチーム エンバシー ヒルを立ち上げ参戦 1973年は初参戦SHADOWのマシン購入 R4 スペインGPから出走 1台体制 (モデル仕様 予選22位→決勝 R) 本家SHADOWが2度の表彰台獲得も ヒルは決勝最高位は9位と苦戦 見せ場はR8フランスGPで SHADOWの二人に予選で勝ったくらい (予選16位→決勝10位) EMBASSYはタバコブランド ヒルのチームは1974年はローラ製 1975年はオリジナルのシャーシで参戦 SPARK F1の初期に発売したモデル グラハム・ヒルの名前につられて購入した 記憶があります #F1-1973年
G.HILL 1973 25 1/43FW12C
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1988 (28TH) SPARK LIGIER JS31 R.ARNOUX
#1988
R.ARNOUX 25 1/43 GITANESFW12C