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2020 10TH SPARK ALPHA TAURI AT01 P.GASLY
スクーデリア・アルファタウリ初年度 ピエール・ガスリー初優勝 AT01 2006年ミナルディを買収して レッドブルのジュニアチームトロ・ロッソ として参戦してきたが 2020年チーム名を同社ファッションブランド アルファタウリとしてエントリー ピエール・ガスリーはトロ・ロッソ 残留の形でアルファタウリにて参戦 チームメイトはダニエル・クビアト R8チームホームグランプリ イタリアGP ガスリーは予選10位から途中赤旗の混乱から 抜け出し 最後はC・サインツ(マクラーレン) とのバトルを0.4差で制し見事初優勝 HONDAエンジンと組んで節目の50戦目 チームはトロ・ロッソ時代の 2008年同じイタリアGP ベッテル以来の 12年ぶりの優勝 またフランス人ドライバーとしては 1996年 O・パニス(リジェ)以来 24年ぶりの優勝 この時のエンジンは無限HONDA モデルはスパーク ガスリー初優勝のR8イタリアGP仕様 〖P1〗が書かれているピットボード付 スリーブもアルファタウリ仕様
240307 P.GASLY 2020 10FW12C
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2009 11TH PMA PANASONIC TOYOTA RACING TF109 T.GLOCK
the story will be at a later date.
240305 T.GLOCK 2009 1回FW12C
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1970 8TH QUARTZO MARCH 701 C.AMON (GP BELGIUM)
マーチに移籍 1秒差の2位 クリス・エイモン MARCH 701 1970年前年度フェラーリを離脱した クリス・エイモンは新規マーチに移籍 開幕から3戦連続リタイアで迎えた R4ベルギーGP 予選3番手 決勝は1周目にトップに立ち 1度は後退したものの3~4周目に再度浮上 その後はペドロ・ロドリゲス(BRM)に抜かれ トップに食らいつき最終28周目には ファステストラップで追い上げるも 1.1秒差の2位フィニッシュ 勝利には届かずキャリア2度目の2位であった モデルはQUARTZO R4ベルギーGP仕様 予選3位→決勝2位 自身初のファステストラップ記録 このモデルブランドのQUARTZOは ポルトガルのVITESSE(ビテス)社のブランド ビテスが2000年に破綻した為 型はIXOに移転 その後 Sun Star社(アメリカ?)がブランド継承 旧QUARTZOのエイモンのMARCH 701は フランスGP仕様での販売で カーナンバーやSTPのロゴなどが異なる https://muuseo.com/FW12C/items/1508?theme_id=43150
240218 C.AMON 1970 1回FW12C
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1969 14TH SPARK (ANTIQUE AUTOMOBILES RACING) McLAREN M7B V.ELFORD
クイックビック ビック・エルフォード 1台限りのマシン McLAREN M7B ビック・エルフォード イギリス出身 1968年ラリーモンテカルロで優勝 1週間後にデイトナ24時間を制し偉業達成 その時についた愛称が クイック・ビック 同年クーパーよりF1参戦 1969年はプライベーターの ANTIQUE AUTOMOBILESで マクラーレン M7Bのマシンで参戦 M7Bは葉巻型M7Aと異なり燃料タンク内蔵で 車体一体のサイドポッドを 取り付けしたマシンであった シーズン途中マクラーレンからマシンを購入 R5フランス決勝5位 R6イギリス決勝6位 連続入賞でポテンシャルを引き出した R7ドイツ シーズンベスト予選6位 1周目四輪駆動車のロータス63を ドライブするM.アンドレッティが クラッシュして2輪のホイールが脱落 片方のホイールに当たった エルフォードは激しくクラッシュ マシンは真っ逆さまになって木に落下 アンドレッティはエルフォードを 大破したマシンから救出したが エルフォードは腕を3箇所骨折 1台のみ製作のM7Bはそのまま廃車となった エルフォードは2年後の1971年 クラッシュで負傷した同じドイツGPに BRMで出場予選18位→決勝11位完走 これがF1での最後のキャリアとなった モデルはスパーク R5フランスGP仕様 予選10位→決勝5位 M7Bの燃料はコックピットの側面にある 一体型タンクに低く中央に貯蔵され 燃料重量配分を変えることで ハンドリングを改善するという理論で設計 4輪駆動のM9A風のリアカウルを装備 #1969年 #F1
240216 V.ELFORD 1969 10FW12C
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2000 8TH PMA WILLIAMS BMW FW22 J.BUTTON
最年少入賞記録更新 大型新人 ジェンソン・バトン デビュー ジェンソン・バトン イギリス出身 1999年 イギリスF3で3勝をあげランキング3位 同年にプロストグランプリのテストに参加後 ウイリアムズの翌年セカンドドライバーの トライアウトに参加 弱冠20歳でシート獲得 2000年ウイリアムズは13年ぶりに F1復帰のBMWエンジンでの組み合わせ チームメイトはラルフ・シューマッハ R2ブラジルGP 予選9位でラルフ(11位)を上回ると 決勝では5位ラルフに続く6位初入賞 この入賞時のバトンは20歳67日で 1962年 R・ロドリゲス(フェラーリ)の 20歳123日を38年ぶりに塗り替える記録 バトンのキャリア入賞は162回 R13ベルギーGP予選では この年チーム最上位となる3位 年間では4位-1回 5位-4回 6位-1回 6度の入賞でランキング8位 当時は異例の下部フォーミュラ2年経験での センセーショナルなデビューであった モデルはミニチャンプス BMW別注バージョン 通常とは異なる台紙とハイボックス仕様
240203 J.BUTTON 2000 10FW12C
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1975 (25TH) SPARK MARCH 751 H.J.STUCK
ハンス・スタック 2シーズン目 キャリア唯一のノーポイント MARCH 751 前年度F1で2番目親子ドライバ―で デビューしたハンス・ヨハム・スタック 1975年は後半5戦をよりマーチでエントリー この年のマーチ勢の予選トップとなる R11ドイツ7位 R12オーストラリア4位も 決勝では当該レース含む4戦連続リタイア R12ではマーチのブランビラが優勝 最終戦R15アメリカでの8位が この年唯一の完走で1974年~79年まで 参戦するスタックの唯一の無得点の年 モデルはSPARK スタックの地元R11ドイツGP仕様 予選11位→決勝はエンジン壊れリタイア スポンサーのLAVAZZAは 1895年創業のイタリアの エスプレッソマシンメーカー この年のマーチはドライバ―ごとに メインスポンサーが変わり LAVAZZA H・スタック L・ロンバルディ Beta V・ブランビラ Penske Cars M・ダナヒュー それぞれカラーリングも異なる
230919 H.J.STUCK 1975 10FW12C
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1973 7TH SPARK BRABHAM BT42 C.REUTEMANN
カルロス・ロイテマン 初表彰台 奇才ゴードン・マレー作 BRABHAM BT42 1973年前年度初戦PPでデビューの カルロス・ロイテマンはブラバム残留 チームはグラハム・ヒルが抜けて ロイテマンが中心となり エマーソン兄 ウイルソン・フィッテパルディが加入 R4スペインGPよりニューマシンBT42投入 後に5度のチャンピオンマシンをデザインした ゴードン・マレーのデビュー作 R7スウェーデンGPで4位入賞すると R8フランスGPで自身初の3位表彰台 ロイテマンの生涯表彰台は45回(出走145回) R9イギリスGP6位で3戦連続入賞 終盤にも4位・6位と2度目の表彰台3位 年間6度の入賞16ポイントで7位 翌1974年もブラバム残留で初勝利をあげる モデルはSPARK 2度目の3位表彰台となった 最終R15アメリカGP ワトキンズ グレン 予選ではシーズンベストの フロントローを獲得している
230912 C.REUTEMANN 1973 10FW12C
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1972 8TH SPARK SURTEES TS9B M.HAILWOOD
マイク・ヘイルウッド キャリアベストの2位 SURTEES TS9B 1972年ヘイルウッドは ヨーロッパF2に参戦しながら 前年度スポット加入したサ―ティスから参戦 チームメイトはA・アダミッチ T・シェンケン 同じサ―ティスから参戦の ヨーロッパF2では2勝でチャンピオン獲得 R2南アフリカGPからエントリー キャリアベストタイのいきなり予選4位 決勝ではキャリア唯一のFLも記録 その後決勝で4位2回6位1回で迎えた R10イタリアGPでは予選9位から 上位陣の脱落にも助けられて 決勝は自身初の表彰台は生涯唯一となる2位 サードドライバーで加入したが 他の2人を圧倒してエース扱いとなった 年間では13ポイントで8位となり F1での順位 ポイントともベストシーズン モデルはSPARK ヘイルウッド唯一の2位のイタリアGP仕様 このイタリアGPではチームオーナーで 1964年のワールドチャンピオン ジョン・サーティスがスポット参戦 サ―ティスのF1ラストレースでもあった
230907 M.HAILWOOD 1972 10FW12C
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1999 13TH PMA BENETTON PLAYLIFE B199 A.WURZ
革新的技術FTT投入も不発 ブルツ入賞2回 BENETTON B199 1999年低迷を打破する為過激なる進化と 名を打ちフロント・ブレーキが ロックするのを防ぐFTTを採用 (トルク・トランスファー・システム) しかしこのシステムはフロントに装置が 組み込まれていた為重量的にハンデとなり マシンバランスも悪化 さらに高身長のブルツ(187㎝)には 更に負担増となりシーズン通して苦戦 ブルツは予選でシングルグリット3回 決勝でもR4モナコの6位と R9地元オーストリアの5位の2度の入賞のみ 年間で3ポイントの13位 コンストラクタ―も6位に転落 前年度のカラーリングから リアウイングの前にベネトンの 象徴とも言える4色の絵の具ランインを 復活させるも成績は上向きにならなかった
230821 A.WURZ 1999 10FW12C
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2005 19TH PMA McLAREN MERCEDES MP4-20 P.DE.LA.ROSA
the story will be at a later date.
230327 P.DE.LA.ROSA 1回 10FW12C
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1998 10TH PMA JORDAN MUGEN HONDA 198 R.SCHUMACHER
ラルフ・シューマッハ ジョーダン2年目 ジョーダンチーム史上唯一1・2フィニッシュ 1998年ラルフはジョーダン2年目 チームメイトはデーモン・ヒル 前年度はジャンカルロ・フィジケラと 同士討ちするなど不仲とされたが ヒルとは本人がチームメイトに 切望するほど良好な関係だった模様 前半はまさかのノーポイント デザイナーのゲイリー・アンダーソン離脱 後任のマイク・ガスコインに代わり フロントウイング周辺中心に修正 R9イギリスGPから3戦連続入賞 R13ベルギーでは特有のスパ ウエザーで 荒れたレースを2位表彰台獲得 ヒルと共に1・2フィニッシュを決めた ジョーダンの1・2フィニッシュは このGPがチーム史上唯一の出来事 続くR14イタリアも3位で連続表彰台 この後翌1999年シーズンの ウイリアムズへの移籍が発表された ラルフ・シューマッハ コレクションの 黄色いオリジナル台紙のモデルで タバコブランドBENSON&HEDGES仕様
230309 R.SCHUMACHER 10 1/43FW12C
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1998 10TH PMA JORDAN MUGEN HONDA 198 "TOWER WING″ R.SCHUMACHER
ジョーダンが投入した"TOWER WING″ 両サイドを幅広なパーツで支える ジョーダンのみの採用バージョン 前半戦はラルフ・シューマッハ チームメイトのデイモン・ヒルとも ノーポイントで"TOWER WING″の 効果以前の問題でのチームが低迷した 前マシンのJORDAN197で注目を集めた ノーズアートは絵柄がスネークから スズメバチ(イエロー ホーネット)に変更 それに合わせタバコ広告禁止GPでは メインスポンサーのBENSON&HEDGES ➡BUZZIN HORNETSに変更された ミニチャンプスの ラルフ・シューマッハ コレクションは 本モデルのNr7で終了し以降の ラルフのモデルは通常台紙となった #F1-1998年
230309 R.SCHUMACHER "TOWER WING″ 3.333FW12C
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1997 3RD PMA McLAREN MERCEDES MP4-12 D.COULTHARD〖🏆2〗
マクラーレン50戦ぶりの勝利 D・クルーザード MP4-12 1997年マクラーレンは23年間続いた MarlboroからWestにスポンサーを変更 カラーも赤/白→黒/銀に変更された 開幕戦のオーストリアGP クルーザードは予選4位から優勝 マクラーレンは1993年最終戦オーストリア A・セナ以来 50戦ぶりの勝利 その後は苦戦が続いたがR7カナダでFL R13イタリアGPではトップ走行の J・アレジ(ベネトン)と同時ピットインで 逆転して勝利 シーズン2勝目を上げた 2勝 2位2回 年間順位は3位 36ポイント コンストラクターは4年連続4位だったものの E・ニューウェイが8月頃より開発に 携わった事もありマクラーレンは MP4-12が名門復活の足掛りとなった #F1-1997年 https://muuseo.com/FW12C/items/1216
230119 D.COULTHARD 1回 10FW12C
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1997 TEST PMA McLAREN MERCEDES MP4-12 D.COULTHARD
マクラーレン イメージ 刷新前 オレンジ色のTEST CAR MP4-12 1997年マクラーレンは長年のスポンサー マールボロとの契約が終わり 新たにイギリスの多国籍タバコ会社である インペリアル・タバコのレームツマ社と契約 それまでの赤/白のカラーリングから変更 シーズンオフのテストでは本戦カラーは伏せられ マクラーレンの創設者B・マクラーレンの母国 ニュージーランドのナショナルカラーである パパイヤオレンジに塗装される演出がなされた また車体名もMP4/00→MP4-00に変更され オレンジの車体に銀色でMP4-12と書かれている ただし雑誌等でもこの表記変更は曖昧で モデルの台紙もMP4/12の表記になつている デビット・クルーザードはマクラーレン2年目 開幕直後にチームに久々の勝利をもたらす #F1-1997年 #TESTCAR
221112 D.COULTHARD TEST CAR 10FW12C
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2002 15TH PMA JORDAN HONDA EJ12 T.SATO
佐藤琢磨 日本GP 鈴鹿 5位入賞 チーム・ピット・観客 大歓喜 2001年イギリスF3王座・マカオF3ウイナー 2002年のF1デビューはジョーダンHONDA チームメイトはジャンカルロ・フィジケラ フィジケラが4度の入賞も 琢磨はノーポイントで迎えた最終戦日本GP鈴鹿 直前まで5戦連続完走と流れは良くなっていた 予選はB・A・Rを含めたHONDA勢の中でトップの7位 決勝はファンの期待を背に受けて 最終J・バトン(ルノー)とのバトルを制し それまでの鬱憤を晴らす5位入賞 日本人の鈴鹿入賞は1990年以来12年ぶり 2年間の日本人ドライバ―空白もあり 鈴鹿は歓喜に包まれた
221009 T.SATO SUZUKA LEGEND 1.000FW12C