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1976 (42ND) SPARK BRM P201B I.ASHLEY
BRM チーム 末期 1戦のみ イアン・アシュリー BRM P201B 1950年代より参戦している名門BRM ブリティッシュ・レーシング・モータース 1962年にはG・ヒルを擁しチャンピオン獲得 1972年の勝利を最後に成績は下降 1974年オーナーのオーウェン卿死去 妹婿のルイス・スタンレー卿に譲られた 1976年は1台体制でイギリス出身 イアン・アシュリーを起用 開幕戦ブラジルGP予選22台中21位 決勝は3周目にオイルポンプが壊れ 早々にレースを終えた BRMは開幕戦のみエントリーで 資金難により1976年のF1活動は終了 翌1977年に復帰するも シーズン後にF1から撤退した モデルはスパーク BRMこの年1戦限りとなった 開幕戦ブラジルGP仕様 イギリス系のチームでありながら 前年の1975年よりフランスを連想する トリコロールカラーを採用 2年落ちのマシンでスポンサーロゴは 部品供給社以外見当たらない
240327 I.ASHLEY 1976 14FW12C
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1976 (43RD) PMA (LEXINGTON RACING) TYRRELL 007 I.SCHECKTER
2年連続同一マシンによる兄弟同時出走 シェクター兄 イアン TYRRELL 007 1976年R3南アフリカGP 前年度同様イアン・シェクターは TYRRELL 007のマシンに乗り プライベーターで参戦 弟のジョディもティレル本隊で TYRRELL 007でエントリーしており 2年連続同一マシンの兄弟同時出走が実現 イアンはキャリアベストとなる予選16位も 決勝は1周もできずにリタイア 弟ジョディは予選12位→4位入賞 1976年イアンはこのレースのみ 翌1977年はマーチでキャリア最多 14戦エントリーのF1ラストイヤー モデルはスパーク イアン1戦限りのR2南アフリカ仕様 LEXINGTONはルクセンブルグのタバコブランド シェクター兄弟の祖国 南アフリカでは BAT(ブリティッシュ アメリカン タバコ)の 子会社が販売 日本では通常販売無し このモデルはLEXINGTONの文字のみ 最初からデカールが貼られており ロゴマークのみが別で添付されている 前年1975年のミニチャンプスのモデルは LEXINGTONの文字も無くデカール添付無し https://muuseo.com/FW12C/items/1502?theme_id=32702
240311 I.SCHECKTER 1976 15FW12C
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1976 (33TH) SPARK COPERSUCAR FD03 I.HOFFMANN
コパーシュカー セカンド・ドライバ― インゴ・ホフマン COPERSUCAR FD03 1976年参戦2年目のコパーシュカーは エマーソン・フィッテパルディがエース 数戦限りセカンド・ドライバ―として 同郷ブラジルのインゴ・ホフマンを起用 下位カテゴリーでは1975年に イギリスF3で1勝を上げランキング6位 開幕戦のブラジルGPは予選20位 決勝はトップから1周遅れの11位完走 その後ヨーロッパで3戦のみ エントリーもいずれも予選落ち F1では翌1977年も同チームで2戦のみ出場 ホフマンはシルエットカーで争われる ストックカー・ブラジル選手権において チャンピオン12回と圧倒的な記録を持ち 通算76勝ももちろん最多勝利数保持者 モデルはスパーク ホフマンがこの年唯一の決勝進出となった 開幕戦ブラジルGP仕様 予選20位→決勝11位 R3までの使用可能であった高い位置の インダクションポットの仕様モデル 台座はCOPERSUCAR FD02となっているが 恐らくCOPERSUCAR FD03の間違い
231030 I.HOFFMANN 1976 31FW12C
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1976 (45TH) SPARK SURTEES TS19 C.ANDERSSON
F1通算 1戦限りの決勝進出 コニー・アンダーソン SURTEES TS19 コニー・アンダーソン(スウェーデン) 1974年スウェーデンF3チャンピオン 1975年ヨーロッパF3でモナコで1勝 1976年R12オランダGP スポット参戦 サ―ティスにB・ランガーの代役で出場 参戦当時の年齢は36歳の遅咲き 予選は26位でギリギリの通過も 決勝は9周でエンジントラブルでリタイア 車体はタバコブランド チェスター・フィールドがスポットポンサー アンダーソンはこの年1戦限りの出場で 翌1977年はBRMで参戦も4戦全て予選落ち 以後参戦は無くF1通算1戦限り この1976年 サ―ティスのカーNo18は 最終のF1選手権イン・ジャパン(富士SW)で 高原敬武が使用している https://muuseo.com/FW12C/items/1501?theme_id=35914
230615 C.ANDERSSON 1976 18FW12C
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1976 (28TH) SPARK SURTEES TS19 N.TAKAHARA
1976年F1世界選手権イン・ジャパン 日本人最上位 高原敬武 SURTEES TS19 1974年高原敬武はF1非選手権戦 インターナショナル・トロフィーに マーチ・741で参戦予選14位→決勝11位 非選手権戦ながら日本人として 初めてF1レースに出場したドライバ― 1975年マーチからF1参戦の打診があったが 上記参戦後にモナコを一般車で走行した際 精神的に持たないと感じオファーを固辞 1976年F1世界選手権イン・ジャパン サーティスがセカンドドライバ―を探しており このGPの冠スポンサーのスポーツニッポンの 紹介もあり高原の参戦が決定する 1976・1977年通じて外国籍チームで日本GPに 出場した唯一の日本人ドライバ― 予選はチームメイトのA・ジョーンズから 約1.4秒遅れの24位で決勝進出 決勝はグッドイヤーレインタイヤの摩耗での タイヤ交換もあったが9位完走 決勝出走3人の日本人ドライバ―の最上位 この時のタイヤの摩耗情報が役立ち チームメイトのA・ジョーンズはこの年の サーティスのシーズンベストの4位入賞 高原の持ち込みスポンサーでもある 伊太利屋・スタンレーなどが車体に貼られ 同じチームの日本GP仕様のモデルでありながら ジョーンズ車とはカラーリングもかなり異なる https://muuseo.com/FW12C/items/916?theme_id=35914 #F1世界選手権イン・ジャパン
230320 N.TAKAHARA 1976 18FW12C
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1976 10TH SPARK LOTUS 77 G.NILSSON
グンナー・ニルソン スウェーデン出身 F1デビュー チームロータス LOTUS 77 スウェーデン海軍で無線技士として 所属していたグンナー・ニルソン 1975年 イギリスF3チャンピオン 1976年 同郷のロニー・ピータソンの離脱を 受けR2南アフリカ ロータスからデビュー R5スペインGPからパーネリの活動が終了した マリオ・アンドレッティがチームメイト そのスペインGPで予選7位→決勝3位 この年のロータスと自身のF1初ポイント その後リタイアが多かったものの モデル仕様のR11オーストリアGPでも シーズンベスト予選4位→再び決勝3位 最終戦 F1グランプリINジャパン 富士 豪雨の中サバイバルで生き残り6位入賞 ◆R16日本(富士SW)予選16位→決勝6位◆ 表彰台2回 入賞4回 11Pで年間10位 翌1977年もロータスに残留 病魔とも闘う最後のシーズンを迎える #F1-1976年
230225 G.NILSSON 1976 6FW12C
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1976 3RD+α PMA TYRRELL FORD P34 J.SCHECKTER
1976年最終戦F1世界選手権イン・ジャパン たいれる しえくたあ レインタイヤ仕様 予選5位→決勝リタイア #1976年F1世界選手権イン・ジャパン
221123 J.SCHECKTER 1976 1回FW12C
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1976 6TH REVE COLLECTION LOTUS 77 M.ANDRETTI 〖🏆1〗
日本におけるF1レース 初代優勝 マリオ・アンドレッティ LOTUS 77 1976年最終戦F1世界選手権イン・ジャパン 富士スピード ウェイ 予選ポールポジション獲得は マリオ・アンドレッティ自身の F1参戦初年度1968年以来8年ぶり 決勝はワールドチャンピオン争いの J・ハント(マクラーレン)に先行を許すも 豪雨のレースでレインタイヤを使いこなし 自身はフェラーリでの初戦の 1971年開幕戦以来5年ぶり2度目の優勝 チームロータスは2年ぶりの優勝を飾る 日本におけるF1グランプリの 初代優勝ドライバ―として名を刻まれた こちらはその日本GP優勝モデル REVE COLLECTION レインタイヤ仕様 REVE COLLECTIONはSPARK JAPAN設立前に MINIMAX社と輸入代理をしていた国際貿易が 日本に縁のあるモデルを別注でリリース ドライバ―フィギュアレスで 台座が通常版よりしっかりした作り #F1-1976年 #1976年 #1976年F1世界選手権イン・ジャパン #F1
220925 M.ANDRETTI 1976 1回FW12C
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1976 (DNS 47TH) SPARK (OASC Racing Team) TYRRELL 007 O.STUPPACHER
オット・ストゥッパッシャー 予選通過も決勝走行できず オーストリア出身のドライバ― オット・ストゥッパッシャーは プライベートチームOASCで TYRRELL 007を購入してスポット参戦 R12イタリアGP PPから7.2秒落ちで 予選最下位であったが 燃料規定違反で3名のドライバ―が タイム取り消しがあり予選を26位で通過 しかしこの結果が出た時ストゥッパッシャーは 既にオーストリアに帰国しており 決勝に間に合わずにスタートできなかった R13カナダG PPから12.6秒落ち (モデルはカナダGP仕様) R14アメリカ東 PPから27.4秒落ち どちらも予選最下位で決勝進出ならず 結局F1では決勝を走行することは無かった ◆R16日本(富士SW)は未出走◆ そんなストゥッパッシャーですが モデルがTYRRELL 007という事もあり SPARK MINICHAMPSの 両社からモデル化されています #F1-1976年 #F1 #ティレル007 #1976年
220908 O.STUPPACHER 1976 38FW12C
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1976【WORLD CHAMPION】PMA McLAERN FORD M23 J.HUNT 〖🏆6〗
1976 WORLD CHAMPION McLAERN FORD M23 J.HUNT #F1-1976年 #Worldcampion #F1
J.HUNT 1976 2回 11FW12C
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1976 2ND QUARTZO FERRARI 312T N.LAUDA 〖🏆6〗
不死鳥 ニキ・ラウダ 大事故から6週間での復活 1976年 前年度Wチャンピオンのラウダは FERRARI 312Tで好調を維持して R9イギリスまでに5勝 表彰台8回と 選手権を優位に進めていた R11ドイツGPで悲劇に見舞われる レイン→ドライタイヤにスイッチして 順位を挽回中に高速コーナーで コントロールを失いクラッシュして炎上 ラウダのヘルメットは衝撃で脱げてしまう 4人のドライバーとマーシャルの決死の救出で 一命を取り留めたものの数日間生死を彷徨う その後驚異的な回復を見せて わずか6週間後のR13イタリアGPで 顔に火傷治療の跡を残しながら 予選5位→決勝復活の4位入賞を果たす ポイントリーダーで迎えた 最終戦 F1世界選手権イン・ジャパン 豪雨の中で行われた決勝レースを リスクが大きいと判断して2周でリタイア 結果J・ハント(マクラーレン)に逆転され Wチャンピオン連覇を逃してしまう コンストラクターチャンピオンは 死守したもののラウダ不在時に C・ロイテマンを招き入れ 結果盟友のC・レガッツォーニを チームが放出したこともあり フェラーリとの関係が悪化しながら 翌1977年シーズンを迎える事となる #F1-1976年
N.LAUDA 1976 4回 1FW12C
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1976 6TH SPARK LOTUS77 M.ANDRETTI 〖🏆1〗
パーネリよりロータスに移籍 マリオ・アンドレッティ LOTUS 77 1976年アンドレッティはパーネリ所属も 開幕戦チームは欠場でロータスより参戦 予選16位→決勝はリタイア このGPでTMのR・ピータソンはチーム離脱 パーネリ撤退後再びR4スペインより ロータスより参戦 TMはG・ニールソン LOTUS77は低迷を続けていたが トニー・サウスゲート加入後徐々に改善 R7スウェーデン予選2位とFLを獲得 R12オランダ R14カナダで3位表彰台後 最終戦F1世界選手権イン・ジャパンを迎える #F1-1976年 #LOTUS77 #1976年 #F1
M.ANDRETTI 1976 1回 6FW12C
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1976 3RD PMA TYRRELL P34 J.SCHECKTER 〖🏆1〗
F1 4輪車以外での唯一の勝利 TYRRELL P34 ジョディー・シェクター 6輪車 TYRRELL P34の根底にあるものは コスワースDFV搭載の従来のマシンでは フェラーリに対抗できないという デザイナー D・ガードナーに考えによるもの シェクターのTYRRELL P34のデビューはR5から R5ベルギー 予選7位→決勝4位入賞 R6モナコ 予選5位→決勝2位表彰台 R7スウェーデン 予選ポールポジション獲得 決勝はM・アンドレティ(ロータス)に先行を許すも エンジントラブルでリタイヤ後 46周目からトップに立ち27周トップ走行し優勝 TMのP・デュパイエと1・2フィニッシュを飾る これはF1史上 4輪車以外での唯一の勝利 R10ドイツ 2位表彰台を6戦連続入賞でかざり このGPはファステストラップも記録している シェクターのTYRRELL P34の成績は 出走12回 PP1回 優勝1回 表彰台5回 6位以内入賞10回 FL1回 完走した10レースすべてで入賞を果たす ◆R16日本(富士SW)予選5位→決勝リタイア◆ シェクターの1976年の年間順位は3位であるが TYRRELL P34の12戦のなかでは2位 しかしサスペンション周辺の剛性不足と それに対応するチームの根本的な対策の欠如で シェクターはTYRRELL P34を好まずに 3年間過ごしたティレルを離脱 翌1976年は新規チームウルフに移籍する #F1-1976年 #F1 https://muuseo.com/FW12C/items/893?theme_id=35914
J.SCHECKTER 1976 1回 3FW12C
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1976 11TH+α PMA MARCH FORD 761 R.PETERSON
ロータス離脱のR・ピーターソン 古巣マーチに復帰 MARCH FORD 761 1976年ロータスのニューマシン77に 失望したピーターソンは開幕戦後に ロータスを離脱して古巣マーチに復帰 復帰初戦のR2南アフリカGP 予選10位→決勝15周目リタイア インダクションポッドが高い位置に あるこの形状はR3アメリカWESTまでで R4スペインGPからは レギュレーションで禁止となった このGPはまだスポンサーがついておらず ピータソンの母国のスウェーデンの 国旗をモチーフとしたカラーとなっている #F1-1976年 #1976 #F1 上段 1976年ピータソン開幕戦仕様 https://muuseo.com/FW12C/items/681?theme_id=35914 下段 1976年ピーターソンR13イタリアGP仕様 https://muuseo.com/FW12C/items/914?theme_id=35914
R.PETERSON 1976 1回 2.544FW12C
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1976 (31ST) SPARK LOTUS 77 B.EVANS
ボブ・エバンス イギリス出身 ロータスで2戦限りの出走 パープルのヘルメットが特徴の ボブ・エバンスは 1975年BRMでデビュー R6ベルギーの決勝9位が最高位 1976年は開幕戦限りでR・ピータソンが ロータスを離脱したことに伴い 急遽ロータスから2戦限りの出走 チームメイトはG・ニルソン R2南アフリカ予選23位→決勝10位 R3アメリカWESTは予選落ち R4以降はパーネリ撤退後の マリオ・アンドレティがロータスに再加入 エバンスはその後地元R9イギリスGPで チームRAMよりブラバムBT44Bで スポット参戦 予選22位→決勝リタイア ◆R16日本(富士SW)は未出走◆ エバンスのF1参戦はこの年限りで終了 #F1-1976年 #F1
B.EVANS 1976 5 1/43FW12C