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1975 17TH SPARK (CUSTOM MADE HARRY STILLER RACING) HESKETH 308 A.JONES
アラン・ジョーンズ デビューマシン プライベーター HESKETH 308 アラン・ジョーンズ オーストラリア出身 1973年イギリスF3 ランキング3位 1975年イギリスの元レーシングドライバー ハリー・スティラーが自身所持の ヘスケスのマシンでチーム設立 ジョーンズをF1デビューに導いた R4スペインGPから参戦 R6ベルギーGPシーズンベストの予選13位 R7スウェーデンGPで決勝11位 ヘスケスでは4戦中完走は1回のみ R8オランダGPよりワールドチャンピオン グラハム・ヒル創設のヒルに移籍 自身初ポイントを獲得する モデルはスパーク ジョーンズの2戦目R5モナコGP仕様 予選20位→決勝ホイール脱落でリタイア 独特のフロント形状のヘスケスのマシンに センターの濃赤のラインが映える1台 https://muuseo.com/FW12C/items/1037?theme_id=32702
240331 A.JONES 1975 26FW12C
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1977 17TH SPARK ENSING N177 C.REGAZZONI
チームエンサイン 初のフル参戦 C・レガッツォーニ ENSING N177 トータル6年間過ごしたフェラーリを 離れたクレイ・レガッツォーニは 1977年エンサインに移籍 エンサインは1台エントリー 中盤よりセオドールがエンサインの 車体を購入してP・タンベイがエントリー エンサインN177は前年のN176を マイナーチェンジしたのみながら 開幕戦で予選12位→決勝6位入賞 中盤自身初の予選落ちをするも 終盤R14イタリア R15アメリカで 連続で5位入賞で年間5P ランキング17位 タンベイも同じく5Pでエンサインの コンストラクター10Pはベストリザルト エンサインは前年不参加の 最終日本GP(富士SW)にもエントリー レガッツォーニの予選はスポット参加した 星野一義(KOJIMA)の一つ前の10位 決勝は43週エンジンが壊れリタイア モデルはスパーク 開幕戦アルゼンチンGP予選12→決勝6位 マシンにはレガッツォーニの パーソナルスポンサーである スイスの時計ブランドTISSOTがスポンサー N177のマシンは1979年途中まで使用
240201 C.REGAZZONI 1977 22FW12C
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1971 17TH QUARTZO (FRANK WILLIAMS) MARCH 711 H.PESCAROLO
アンリ・ペスカロロ Fウイリアム移籍 自身F1最後の入賞 MARCH 711 1971年フランク・ウイリアムズRCの3年目は マーチより701 後711を購入して アンリ・ペスカロロの1名体制で参戦 フランスの潤滑油メーカーMOTULがスポンサー ペスカロロはR6イギリスGPで4位 R8オーストリアGPで6位入賞 これが自身最後なる通算5度目の入賞 ティートレイと呼ばれた独得の フロントウイングの形状のマーチ711は 1971年にプライベーター含め 9名のドライバ―が使用したが ポイント獲得はマーチ本隊の ロニー・ピーターソンと2人のみ R9イタリアGPではペスカロロ キャリア唯一となるFL獲得 年間4ポイントで17位 翌1972年もFウイリアムズに残留 モデルはQUARTZO R6イギリスGP仕様 予選17位→決勝4位入賞 ティートレイとリアウイングの MOTULのロゴがとても目立ち 他のマーチ勢ファイヤストーンに対し 当該マシンはグッドイヤーのタイヤ
231117 H.PESCAROLO 1971 1回FW12C
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1999 17TH PMA MINARDI FORD M01 M.GENE
ミナルディ 4年ぶりのポイント 新人マルク・ジェネ MINARDI FORD M01 マルク・ジェネ スペイン出身 1998年当時スペインでのトップフォーミュラ ワールドシリーズ・バイ・ニッサン初代王者 1999年ミナルディからF1デビュー ハイライトはR14ヨーロッパGP チームメイトのルカ・バドエルが 終盤4位走行中にエンジンが壊れリタイア 人目もはばからず涙流す中 ジェネは5位に順位を上げる その後チャンピオン争いの ミカ・ハッキネン(マクラーレン)と エディ・アーバイン(フェラーリ)が猛追 ハッキネンには抜かれたものの アーバインは何とか抑えて6位入賞 ジェネのF1初入賞はミナルディの 1995年最終オーストラリアGP以来 4年ぶり(65戦)ぶりのポイント獲得 コンストラクタ―でBARとの争いに 勝った貴重な1Pを獲得したジェネは 評価も上がり翌2000年もチームに残留 モデルはミニチャンプス 前年度に続くシルバーとブルーを 基調とするカラーリング メインスポンサーのテレフォニカは スペインの大手通信会社 マルク・ジェネの持ち込みスポンサー
231107 M.GENE 1999 21FW12C
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2015 17TH SPARK McLAREN HONDA MP4-30 F.ALONSO
★2026年 HONDA パワーユニット★ アストンマーチンで復活 2023年5月24日 HONDAが2026年より アストンマーチンF1チームに パワーユニットを供給することを発表 HONDAとF・アロンソのタッグ再現はあるのか? 2015年第4期HONDAはマクラーレンと組み 7年ぶりの復活を果たしフェラーリから フェルナンド・アロンソが移籍 チームメイトはジェイソン・バトンの ワールド チャンピオンコンビ この年のアロンソの年俸は約49億円 (バトンは約14億円と格差) しかし1年を通してパフォーマンス不足 アロンソの初ポイントはR9イギリスの10位 R10ハンガリーでは5位入賞を果たすも その後はノーポイントに終わる R14 HONDAの地元日本GP鈴鹿では アロンソのパワー不足への不満が爆発し 『GP2エンジンかよ!GP2エンジンだ!』 (傘下レースであるGP2のエンジンだ) との発言した無線が中継され大きな波紋を呼んだ 2023年 アロンソはアストンマーチンで 5戦中4戦表彰台5戦全て入賞中と衰え知らず 2026年アロンソが現役を継続していた場合 44/45歳のシーズン 前人未到の400戦超え アロンソ&アストンマーチンHONDA 個人的には見てみたい!!
230525 F.ALONSO 14 1/43FW12C
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2010 17TH PMA SAUBER C29 P.DE.LA.ROSA
the story will be at a later date.
230327 P.DE.LA.ROSA 22 1/43FW12C
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1998 17TH PMA STEWART FORD SF-2 J.MAGNUSSEN
ヤン・マグヌッセン STEWART SF-2 F1初ポイント後の無念の解雇 1998年 マグヌッセンはスチュワートに残留 チームメイトも変わらずR・バリチェロ FORDのロゴが大きくなったマシンSF-2 R7カナダGP 予選20位→決勝6位 F1参戦24戦目にして嬉しい初ポイントは デンマーク人ドライバ―の初入賞 しかしJ・スチュワートに目を掛けられ 前年異例の4年契約を結んでだ マグヌッセンであったが成績不振により スポンサーからの圧力もあり 初入賞後にチームを解雇され ヨス・フェルスタッペンにシートを奪われ これ以降はF1での参戦は無かった ここから16年後の2014年 ヤンの長男ケビン・マグヌッセンは ヤンがデビューしたマクラーレンより参戦 親子2代で同じチームからのデビュー ヤンがデビューした1994年パシフィックGP 時点で息子ケンビは3歳であった 🏁ヤン・マグヌッセン (デンマーク) 【決勝出走数】24回 (入賞1回) 【予選最高位】 6位 1997年 スチュワート R14 オーストリア 【決勝最高位】 6位 1996年 スチュワート R7 カナダ #F1-1998年
230212 J.MAGUSSEN 1/43 STEWARTFW12C
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1978 17TH QUARTZO RENAULT RS01/2 J.P.JABOUILLE
フランス チーム ルノー ターボエンジン 初入賞 J・P・ジャブイ-ユ RS01/2 1978年 前年度より参戦ルノーは 本格参戦を果たすがル・マン24時間を 優先の為 開幕2戦は欠場 ドライバーはJ・P・ジャブイ-ユの1台体制 R3南アフリカGPで予選6位と速さをみせる ターボエンジンが改善され直線スピードが伸び R12オーストリア R14イタリアでは予選3位 しかし決勝の信頼性は上がらずに 途中7戦連続のリタイアと苦しんだ それでもR15アメリカWEST GPでは 予選9位→決勝4位入賞 記念すべきルノーとターボエンジンの初入賞 モデルはそのアメリカWEST GP仕様 J・P・ジャブイ-ユにとっても初入賞 生涯入賞回数は3回で他の2回は優勝 下位での入賞はこの1回限り ジャブイーユはフランスの同胞で F1通算6勝のジャック・ラフィーとは 義理の兄弟(互いの妻が姉妹)でもある #F1-1978年
230125 J.P.JABOUILLE 1978 15FW12C
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1984 17TH SPARK TOLEMAN TG184 S.JOHANSSON
ステファン・ヨハンソン F1初ポイント TOLEMAN TG184 1984年ティレルより途中参戦した S・ヨハンソンであったが 所謂 水タンク事件でティレルが活動休止 R14イタリアGPからはトールマンから出場 このGPは移籍問題に絡みチームがA・セナを 出走させなかった為にヨハンソンは カーナンバー19 急遽参戦のP・マルティニが20 予選17位→決勝4位入賞 F1初ポイント獲得 ヨハンソンの通算入賞回数は26回 終盤2戦はセナが復帰したため カーナンバー20で出場も予選ではセナに 大差で敗れ入賞はならなかった 翌1985年は再びティレルに1戦のみ戻り R2~はフェラーリで参戦する
221118 S.JOHANSSON 19 1/43FW12C
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1981 17TH SPARK ALFA ROMEO 179C M.ANDRETTI
M・アンドレッティ アルファロメオ移籍 最後のF1フル参戦 ALFA ROMEO 179C 1981年マリオ・アンドレッティは 5年間過ごしたロータスを離れて アルファロメオに移籍 アルファロメオは前年度のマシンに 調整可能なダンパーを取りつけた ALFA ROMEO 179Cでシーズンに挑んだ 開幕戦はマリオ・アンドレッティ地元 アメリカ ロングビーチ(モデル仕様) 予選6位→決勝4位の幸先の良いスタート しかし結果 これがシーズンベストリザルト 最終的にTMのB・ジャコメリにもポイントで抜かれ 年間順位は17位 入賞1回 3ポイントに終わる マリオ・アンドレッティは 1981年をもってF1から引退の予定であったが 翌1982年はウイリアムズとフェラーリから 引退と事故の影響で急遽スポット参戦をします カラーリングはMarlboroスポンサーで マクラーレンとほぼ一緒で レース中は見分けがつきにくかった 画像7 前 マクラーレン チェザリス 後 アルファロメオ アンドレッティ https://muuseo.com/FW12C/items/1053?theme_id=38179 #F1-1981年 #ALFAROMEO #F1
220827 M.ANDRETTI 22 1/43FW12C
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1975 17TH SPARK HILL GH1 A.JONES
アラン・ジョーンズ F1初ポイントは チーム ヒル最後のポイントHILL GH1 A・ジョーンズのデビューは1975年 ヘスケスで4戦出場も完走は1回のみ R8オランダGPよりワールドチャンピオン G・ヒルが立ち上げたチーム・ヒルより参戦 TMはトム・ブライズ 予選ではトム・ブライズに全敗も R11ドイツGPでは予選21位→決勝5位入賞 A・ジョーンズのF1初入賞であるが チーム ヒル最後のポイントでもあった ジョーンズの生涯入賞回数は39 ヒルでは4戦出走全て完走も R・シュトルメの復帰に伴いチームを離脱 翌1976年はサーティスより参戦 #F1-1975年 #F1ファーストポイント #F1
A.JONES 1975 22 1/43FW12C
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1991 17TH+α SPARK BRABHAM YAMAHA BT60Y M.BRUNDLE
マーティン・ブランドル 日本GP鈴鹿 5位入賞はチームブラバム最後の入賞 1991年日本GP 鈴鹿サーキット ブラバム ヤマハのブランドルは 予備予選を1位で通過したが TMのマーク・ブランデルは予備予選落ち 予選はPPのG・ベルガー(マクラーレン)から 約5秒落ちの19位で決勝スタート 途中多重クラッシュをうまく避けて S・モデナ(ティレル HONDA)との 日本製エンジン対決を制し5位入賞 1962年から参戦 翌1992年途中で撤退する チーム ブラバムの239回目最後の入賞 BT60Yはハイノーズを採用したが フロントウィングを中央1点で支える独特形状 強度不足を補うためワイヤーで支えられている インダクションポッドは潜望鏡のような形状で ドライバ―上部に楕円形の口が付きだしている この日本GPではAUTO BACSが リアウイングに大きく貼られ オーストラリアのQANTAS航空も スポットスポンサーで参加 その他の日本企業も多数サポートしている ・住友海上・madras・kyosho・DAIKIN ・YAMAZEN・MITSUI・MITSUKOSHI・AOBA 当時はmadrasのブラバムチームロゴ入り シューズも発売されていました モデルガレージROMUの別注 限定800台 日本のバブル景気 F1ブームを象徴する1台 #F1-1991年 #1991年日本GP #ブラバム
M.BRUNDLE 800 7 1/43FW12C
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1976 17TH SPARK COPERSUCAR FD04 E.FITTIPALDI
F1史上唯一のブラジル国籍のコンストラクター エマーソン・フィッテパルディ加入 1972年・1974年ワールドチャンピオン 1973年・1975年もランキング2位 エマーソン・フィッテパルディは 兄が立ち上げ自身もコンサルタントしていた コンストラクター コパーシュカーに移籍 1976年チームは2年目で早くも4代目となる COPERSUCAR FD04を開幕戦で投入 初戦の予選は5位と周囲を驚かせた(決勝R) 当初チームはブラジルを拠点に活動していたが ヨーロッパ中心のF1サーカスでは 輸送する金銭・時間的コストの弊害が多く シーズン途中でイギリスに移転 F1でのキャリアのピークであった エマーソンの力を持っても優勝争いに 絡むまでには至らず 1976年は 決勝6位が3回 3ポイント 年間順位は17位 ◆R16日本(富士SW)予選23位→決勝リタイア◆ この後エマーソンは1980年までの5年間 同チームに所属 チームは1982年まで活動 #F1-1976年 #1976年
E.FITTIPALDI 1976 30 1/43FW12C
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1995 17TH PMA LIGIER MUGEN HONDA JS41 A.SUZUKI
日本人2人目のフルタイムF1ドライバ― 鈴木亜久里の最後のマシン 1994年ジョーダンのスポット参戦のみ 1年間浪人生活の亜久里であったが 1995年は無限エンジンと共に フランスチームのリジェで参戦 しかしながら開幕前突如 M・ブランドルとのシェアという形になり 開幕3戦は出場したもののその後は 予定のR7フランスがブランドルになるなど 亜久里本人もいつ出場するのか 分からない不安定な状況 しかし5戦ぶりに出場した R9ドイツで予選18位→6位入賞を果たす これは1991年の開幕戦以来 52戦ぶりの入賞(予選落ち含む) その後R15・16の日本連戦に出場も R16鈴鹿の予選でクラッシュ 肋骨の骨折で決勝は走ることなく 結果的にF1キャリアを終える事となった 日本人初の表彰台ドライバーは 2005年スーパーアグリとして チーム監督としてF1に復帰する 鈴木亜久里(日本) 決勝出走回数 64回 予選最高位 6位 1993年 フットワーク R12ベルギー 決勝最高位 3位 1990年 ラルース R15鈴鹿 #F1最後のマシン #1995
A.SUZUKI 25 1/43 LIGIERFW12C
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1979 17TH PMA LIGIER FORD JS11 J.ICKX
1979年J・イクスF1最後はリジェ 負傷のP・デパイユに代わり R8フランスGPより参戦TMはJ・ラフィー リジェは前半6戦で3勝2位2回と 好調のスタートを切ったが 後半は一転苦戦の中イクスも 予選はJ・ラフィーに全敗 R13イタリアの11位が最高位 決勝はR12オランダ5位がベスト 結果的にこれが通算40回目の 自身最後の入賞となった ル・マン24時間では6度の優勝 ジャッキー・イクス (ベルギー) 114戦 優勝8回 PP13回 FL14回 表彰台25回 入賞40回 #1979年 #F1-1979年 #F1
J.ICKX 1.872 25 1/43FW12C