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1963 13TH SPARK BRM LOTUS 24 J.HALL
シャパラル・カーズ創設者ジム・ホール F1唯一のフル参戦 BRM LOTUS 24 ジム・ホール アメリカ出身 石油探掘業を営む裕福な家庭に育ち 両親をで亡くしたのち遺産を引き継ぎ スポーツカーを購入してレース活動開始 1960年~1962年はプライベーターで 地元アメリカGPのみスポット参戦 1963年はBRMでロータスのマシンを使用 R5イギリスGP 予選13位→決勝6位 R6ドイツGP 予選16位→決勝5位 シーズン2度の入賞 後半は7戦連続完走 ホールのF1はこの年限り その後ホールはシャパラル・カーズを設立 1960年代に実験的で強力なレースカーを開発 アメリカのUSロードレーシング選手権(USRRC) カナダ-アメリカン・チャレンジカップ(Can-Am) ヨーロッパのスポーツカー世界選手権で活躍 1970年代末からCARTに挑戦しインディ500も制覇 モデルはSPARK 開幕戦モナコGP使用 ホールは予選13位→決勝リタイア クリームグリーンのカラーリングのマシン このGPはエントリー17台中 7台がLOTUSのマシンを使用している
231101 J.HALL 1963 12FW12C
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1999 13TH PMA BENETTON PLAYLIFE B199 A.WURZ
革新的技術FTT投入も不発 ブルツ入賞2回 BENETTON B199 1999年低迷を打破する為過激なる進化と 名を打ちフロント・ブレーキが ロックするのを防ぐFTTを採用 (トルク・トランスファー・システム) しかしこのシステムはフロントに装置が 組み込まれていた為重量的にハンデとなり マシンバランスも悪化 さらに高身長のブルツ(187㎝)には 更に負担増となりシーズン通して苦戦 ブルツは予選でシングルグリット3回 決勝でもR4モナコの6位と R9地元オーストリアの5位の2度の入賞のみ 年間で3ポイントの13位 コンストラクタ―も6位に転落 前年度のカラーリングから リアウイングの前にベネトンの 象徴とも言える4色の絵の具ランインを 復活させるも成績は上向きにならなかった
230821 A.WURZ 1999 10FW12C
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1980 13TH SPARK TYRRELL 010 J.P.JARIER
ティレル本格参戦10年目 初の表彰台無し TYRRELL 010 1980年ティレルは ジャン・ピエール・ジャリエが残留 チームメイトにディレク・デイリーを迎える R3よりニューマシンティレル010を投入 フロントウイングの無い保守的にまとめた グランド・エフェクトカーで 予選・決勝とも中段~下位に沈んだ 予選シングルグリットは9位が僅か2回 決勝も5位に3回入賞するのがやっとで D・デイリーと合わせても入賞5回で チーム本格参戦1971年から10年目で 初の表彰台無し ティレルの低迷期となった イタリアの家電メーカーCandyが メインスポンサーでティレルブルーに マシンの上側部分は赤く染められた ジャリエはこの年でティレルを離れ 翌1981年はレギュラーシートが無く リジェとオッゼラでスポット参戦した
230703 J.P.JARIER 3 1/43FW12C
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1987 13TH SPARK BRABHAM BT56 R.PATRESE
3年ぶりの表彰台 リカルド・パトレーゼ 最後のBMWターボエンジン BRABHAM BT56 1987年ブラバムは約17年間担当した ゴードン・マレーがマクラーレンに移籍 コンベンショナルなマシンBT56を投入 前年苦戦したものと同じBMWエンジンと ギアボックス使用により 予選では4~5列目をキープするも 決勝の信頼性が不足でリタイア続出 残留したリカルド・パトレーゼも 前半戦はノーポイントに終わる 後半R9ハンガリーでようやく5位 R14メキシコで予選8位から 自身3年ぶり(48戦)の3位表彰台を獲得も 入賞は2レースのみで年間順位は 新人中嶋悟(ロータス)の下の13位 パトレーゼは最終戦オーストラリアGPでは 翌年移籍の決まっていたウイリアムズの N・マンセルが負傷欠場の為 前倒しでウイリアムズに移籍 空いたブラバムのシートで ステファノ・モデナがデビューした https://muuseo.com/FW12C/items/189?theme_id=30175
230622 R.PATRESE 7 1/43FW12C
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1950 13TH QUARTZO FERRARI 375 D.SERAFINI
1戦限りの出場で2位 表彰台率100% ドリノ・セラフィーニ FERRARI 375 F1開催 初年度1950年 ドリノ・セラフィーニ(イタリア)は 最終戦R7イタリアGPにフェラーリで出場 予選は6位からスタート チームメイトのアルベルト・アスカリが 21周目にエンジントラブルでリタイア この年は1度リタイアしても 同一チームの他車に乗り継ぎが可能 セラフィニ車→アスカリが乗り継ぎ 全80周中セラフィニが47周走行 引き継いだアスカリが33周走行 最終2位でチェッカーを受けた 2位に付与される6ポイントは 3ポイントずつに2人に分けられた セラフィニはF1公式戦はこれが唯一で 出場1回→2位表彰台 アメリカのみの参加も多かった 1950年代のインディアナポリス含めても F1史上2人だけの事例 ちょっとマニアックなドライバ―を QUARTZOがモデル化 個人的に好きな最高位2位のドライバ―達 年代別で行けば最初になるのが ドリノ・セラフィーニ 当該の所持の少ないドライバ―数名集めた 〖HIGHEST 2ND DRIVER (etc)〗ルームを そのうち作成予定です
230614 D.SERAFINI 48 1/43FW12C
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1964 13TH SPARK (SCUDERIA CENTRO SUD) BRM P57 T.MAGGS
最高位2位ドライバ― トニー・マッグス 自身最後の入賞 BRM P57 トニー・マッグス 南アフリカ出身 1960年ヨーロッパジュニアフォーミュラで ジョー・シフェールと同点でチャンピオン F1での南アフリカ人初入賞・初表彰台獲得者 過去に同国の表彰台獲得ドライバ―は ジョディ・シェクターと2人のみ 1962年・1963年にクーパーで 2位表彰台を各1回 記録している 最高位2位ドライバ―の1人 1964年はプライベートチームで BRMの型落ちマシンP57で5戦にエントリー この時のBRMのレギュラードライバーは グラハム・ヒル / リッチ・ギンザー マッグスはR6ドイツで予選16位→決勝6位 R7オーストリアで予選19位→決勝4位 いずれも予選下位から追い上げての入賞 オーストリアでの4位が 自身F1での最後の9回目の入賞であった 翌1965年 2年ぶりの開催の地元 南アフリカGPに参戦してF1からは引退した #F1-1964年
230417 T.MAGGS 17 1/43FW12C
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1978 13TH PMA McLAREN FORD M26 J.HUNT
ハント最後のマクラーレン 北米シリーズ限定カラー McLAREN M26 1978年J・ハントはマクラーレン3年目 前年度後半3勝をあげたMcLAREN M26で シーズンを戦うもグランドエフェクトカーの ライバル車に遅れをとり一転不振に 開幕戦アルゼンチンGPでは4位入賞も その後は5戦連続のリタイア R9フランスGPの3位がこの年唯一の表彰台 結果これがハント生涯最後の 23回目の表彰台 35回目の入賞となった モデルは終盤2戦のアメリカ・カナダGP フィリップモリス傘下のミラー社が 販売するビールブランド レーベンブロイがスポットスポンサー マシンカラーがライトブルーとなりそれに合わせ ハントのレーシングスーツも水色になっている ハントはこの年でマクラーレンを離脱 翌1979年はウルフに移籍 最後のシーズンを迎える #F1-1978年
230126 J.HUNT 1978 2.448FW12C
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1978 (22ND) PMA LIGGETT GROUP WITH BS FABRICATIONS McLAREN FORD M26 B.LUNGER
デュポン創業者一族の御曹司 ブレット・ランガー ラストイヤー ブレット・ランガー アメリカ出身 メロン財閥・ロックフェラー財閥と並び アメリカ3大財閥とも言われるデュポン財閥 創業一族の御曹司 デュポンは化学メーカー 1976年 R10ドイツGP ニュルブルクリンク 燃え盛るマシンからラウダを救出した 勇気ある英雄ドライバ―4人の1人 (G・エドワーズ H・アートル A・メルツァリオ) 1978年はプライベータ リゲットグループ BS ファブリケーションズで マクラーレンM26のマシンを購入して参戦 R5ベルギーGP 予選25位→決勝7位 これはランガーのF1生涯ベストリザルト この年は決勝8位も2回あり 入賞まであと一歩も生涯入賞無し R15地元アメリカGPはエンサインから参戦 生涯F1ラストGPであった 決勝13位完走
221230 B.LUNGER 1.368 30FW12C
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1997 13TH PMA STEWART FORD SF 1 R.BARRICHELLO
新生スチュワートへ移籍のバリチェロ BSユーザー初の2位 STEWART FORD SF 1 1997年4年間過ごしたジョーダンを離れ ワールドチャンピオン率いるスチュワートに 移籍したルーベンス・バリチェロ R5モナコGPで予選10位→決勝2位 この年初参戦となったブリヂストンタイヤも 初の2位表彰台獲得となった 予選ではR7カナダの3位をはじめ シングルグリット4回など 常に上位に食い込んだが 決勝では新チームの信頼性の問題もあり 完走がわずかに3回 入賞も1回のみ ジャッキーのネームバリューを活かし 【HSBC】 香港上海銀行【SANYO】 三洋電機 【TEXACO】 アメリカ石油会社 【MALAYSIA】 マレーシア観光局 など 参戦1年目ながら多くのスポンサーを獲得 #F1-1997年
221127 R.BARRICHELLO 22 1/43FW12C
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1981 13TH BRUMM FERRARI 126CK TURBO D.PIRONI
リジェよりフェラーリ移籍 ディディエ・ピロー二 FERRARI 126CK 1981年フェラーリは引退した J・シェクターの後任として フランス出身のD・ピロー二を起用して G・ヴィルヌーブとコンビを組んだ フェラーリ初のターボエンジン搭載で あったが熟成に苦しみ入賞は4回 4位1回 5位3回で表彰台は無しに終わる 年間順位は13位 9P FL1回 TMのG・ヴィルヌーブは2勝を含む 表彰台3回の年間順位 7位と 差をつけられたものの 予選に関しては後半7戦で ピロー二が4度上回るなど徐々に 互角の戦いをするようになり 運命の翌1982年を迎える モデルはR13イタリアGP仕様 予選8位→決勝5位入賞 ピロー二がフェラーリで走行した 唯一のイタリアGP モンツァ #F1-1981年 #FERRARI #BRUMM #F1
D.PIRONI 1回 28 1/43FW12C
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2019 13TH SPARK SCUDERIA TORO ROSSO STR14 D.KVYAT
トロ・ロッソ 最後のマシン STR14 チーム11年ぶりの表彰台獲得 そして… 2019年トロロッソはHONDAエンジン2年目 この年よりHONDAはレッドブルと2チーム体制 翌2020年よりアルファタウリとなる為 トロロッソとしては最後のマシン ダニール・クビアトは1年ぶりの復帰 TMはA・アルボン 後半P・ガスリー R11ドイツGP ミックスコンディションの中 予選14位→天候を味方に3位表彰台を獲得 トロロッソとしては2008年のS・ベッテルの 優勝以来の11年ぶりの表彰台獲得 トロロッソHONDAとしても初の表彰台 ドイツGPはTMのアルボンも6位入賞 モデルは3位・6位ピットボード付 そして…の話 クビアトはドイツGP直前に第一子が誕生 この子供の母親は3度のワールドチャンピオン ネルソン・ピケの娘 ケリー・ピケ しかし未入籍のまま2019年に破局 そしてケリー・ピケの次の交際相手は 何とレッドブル所属のM・フェルスタッペン このドイツGPではフェルスタッペン優勝 クビアト3位で表彰台で記念撮影 その後も2人の仲のよさそうな写真が 雑誌等に掲載されていました… 古くはケリーの父ネルソン・ピケも 相当なプレイボーイだったそうで #F1-2019年
D.KVYAT 26 1/43 TORO ROSSOFW12C
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2018 13TH IXO SAUBER C37 C.LECLERC
シャルル・ルクレール 24年ぶりのモナコ出身ドライバ― 2018年ルクレールはザウバーからデビュー エンジンはフェラーリ アルファロメオがスポンサー TMはマーカス・エリクソン モナコ出身のF1ドライバ―は ルクレールで通算4人目 1994年のオリビエ・ベレッタ(ラルース) 以来24年ぶりの出来事 R4アゼルバイジャンGPで予選13位から 決勝6位初入賞は2018年のベストリザルト 21戦中10戦の入賞 39ポイント 年間13位 エリクソン 9ポイント 17位を大きく上回った この年ドライバーの頭部の保護目的の 装置のHaloが取り付けられ R13ベルギーGPでは多重クラッシュ時 Haloのおかげでルクレールは無傷で済んだ 2019年K・ライコネンと入れ替わる形で フェラーリに移籍 以降現在まで所属 ルクレールの24年前のモナコ出身 ドライバ― オリビエ・ベレッタ↓ https://muuseo.com/FW12C/items/611 #2018年
C.LECLERC F1マシンコレクション 16 124FW12C
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1976 13TH MARCH FORD 761 H.J.STUCK
ハンス=ヨアヒム・シュトゥック ドイツ出身のF1界2番目の親子ドライバ― ヨアヒムの父のH・シュトゥックは 1950年代にF1に数戦スポット参戦 F1開始前の1930年代はアウディの前身 アウトウニオンチームのメンバーで ヒルクライムのレースではほぼ無敵を誇った 息子のシュトゥックは1974年よりF1参戦 1976年は3年目のマーチでフル参戦 開幕戦ブラジルで予選14位→決勝4位入賞 その後は完走が16戦中5回とマシンの 信頼性に苦しんだが3回の入賞を記録 1976年のマーチ参戦者5人中で最多入賞回数 ◆R16日本(富士SW)予選18位→決勝リタイア◆ モデル仕様の地元のR10ドイツGPでは シーズンベストの予選4位を獲得(→決勝R) ドイツリキュールのイエガーマイスターが スポンサーで印象的なオレンジのカラーリング 翌1977年マーチで1戦のみ出場後 カルロス・パーチェ亡き後のブラバムにて参戦
H.J.STUCK 1976 3.744 34FW12C
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1979 13TH SPARK RENAULT RS10 J.P.JABOUILLE〖🏆1〗
記念すべきルノーとターボエンジン初勝利 ジャン=ピエール・ジャブイユ フランス出身 ルノー初参戦の1977年より所属で3年目 この年よりルノーは2台体制 TMはR・アルヌー R3南アフリカは前年より仕様のRS01で ルノー初のPPを獲得も決勝はリタイヤ ニューマシンのRS10をR5スペインで導入 迎えたルノー地元R8フランス ディジョン モデル仕様 (台座のRS11表記は間違い) ルノーは予選フロントローを独占 決勝は47週目にジャブイユがトップを奪い 後半は独走して自身初の優勝 これはルノーにとっても 1.5ℓターボチャージャーエンジンにとっても F1初の優勝 ターボエンジンの幕開けとなった これ以降はターボエンジンの信頼性問題で ジャブイユはポイント獲得ならず 予選ではポールポジションは4回獲得も フランスの優勝のみがこの年唯一のポイント #F1-1979年
J.P.JABOUILLE 15 1/43 RENAULTFW12C
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1994 13TH PMA SAUBER MERCEDES C13 H.H.FRENTZEN
メルセデス三羽烏の最後の一人 ドイツ出身 ハインツ・ハラルド・フレンチェンのデビュー 前年の1993年は全日本F3000に参戦 チームノバ いわゆる森脇塾で指導受ける 開幕戦は予選5位と速さを見せ R2パシフィックGPで5位初入賞 R7フランスGPがシーズンベストの4位 R15鈴鹿は予選3位→決勝6位 当初はBROKERという名のスポンサーが ついていたが(画像2 ONYX)資金が支払われず 中盤よりスイスのスウォッチグループの TISSOTがスポンサーとなり(画像1) マシンにも時計が描かれている チームオーナーのペーター・ザウバーと 表彰台獲得でマシンをプレゼントするとの 約束が交わされ残念ながら表彰台はかなわずも 最終戦終了後 R2の5位入賞マシンを フレンチェンはプレゼントされている #F1-1994年
H.H.FRENTZEN 30 1/43 SAUBERFW12C