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1983 (26TH) SPARK ATS D6 M.WINKELHOCK
F1の歴史で初めてメス型成型マシン グフタス・ブルナー作 ATS D6 カーボン素材の技術が進歩 メス型成型をすれば別のカウリングを廃して 型から抜いたモノコック外皮をそのまま ボディとして使えるという発想が生まれ この技術に初めて挑戦したのが デザイナー グフタス・ブルナー 1983年 ATS D6の黒の部分は カーボン地肌そのままにされており 新しい製造方法をアピールする狙いもあった この後メス型成型は瞬く間に広がり F1のスタンダードとなった この年ATSは1台体制でドライバーは マンフレッド・ヴィンケルホック エンジンがBMWに変更された 予選では7位3回を含む シングルグリット8回獲得も 決勝ではリタイアが多く最高8位 後のスタンダードとなる技術も 初年度は試行錯誤で決勝レースで 結果を残すことはできなかった モデルはスパーク R14ヨーロッパGP(ブランズ・ハッチ) 予選9位→決勝シーズンベスト8位 後半戦のサイドポンツーンが 短くなったバージョン ヴィンケルホックはMarlboro契約 ドライバーでヘルメットやスーツに 同社のロゴの別添えデカールを貼付
240126 M.WINKELHOCK 1983 9FW12C
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1968 (26TH) SPARK (TEAM GUNSTON) BRABHAM BT20 J.LOVE
F1歴史上唯一 南ローデシア ドライバ― ジョン・ラブ BRABHAM BT20 ジョン・ラブ 南ローデシア出身 南ローデシアはアフリカ南部に位置する 旧イギリスの植民地で現在のジンバブエ こちらの出身ドライバ―はF1史上唯一 ラブは南アフリカGPのみを 毎年スポット参戦するドライバ― 1962年~1972年までエントリー 1964・1966年は南アフリカGPが未開催だが 1964年のみ代役でイタリアGPに エントリーも予選落ちしている このモデルは1968年のマシンで 1966・1967年のチャンピオンマシンである ブラバムBT20を購入してプライベート TEAM GUNSTONより参戦 フロントサス横に自身の名前を 赤地に白文字で【JOHN LOVE】と大きく 描かれたオレンジ色のマシンで 予選17位→決勝9位完走している ラブはF1では前年の1967年に 自身唯一の入賞を2位表彰台で飾っており 1964年の初代含む1969年まで 6度の南アフリカF1選手権チャンピオン #F1-1968年
230312 J.LOVE 17 1/43FW12C
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1980 (26TH) SPARK ENSING N180 J.LAMMERS
ヤン・ラマース F1 2年目 ATS→エンサイン移籍 ENSING N180 ヤン・ラマース(オランダ)は生涯F1で 41戦の予選参加も通過は23回 予選不通過回数18回は歴代ワースト6位 同じ予選不通過18回には M・アルボレート(イタリア)もいるが こちらの不通過率が8.5%に対して ラマースの不通過率は43.9% 1980年も前半ATSで6戦中3回 後半エンサインで8戦中5回の予選落ち モデルはR8イギリスGP仕様であるが このGPも予選落ちをしている R13カナダGPの決勝12位が最高位 チームエンサインとしても 2年連続ノーポイントで終わる ラマースは1981年ATS 1982年セオドール そしてその10年後の1992年にマーチで スポット参戦をするがF1で入賞は無かった #F1-1980年
230220 J.LAMMERS 14 1/43FW12C
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1978 (26TH) SPARK MARTINI MK23 R.ARNOUX
ルネ・アルヌー デビューマシン 短命チーム MARTINI MK23 ルネ・アルヌー フランス出身 1975年 フォーミュラルノー チャンピオン 1977年 ヨーロッパF2 チャンピオン 1978年 新規チーム マルティニで参戦 マルティニ(フランス)はヨーロッパF2が主戦 1975年F1参戦を発表 1976年マシン作成開始 1978年に登場させたMARTINI MK23は 時代遅れで頑丈な作り故の重量過多 R3南アフリカGP 登場も予選落ち R5モナコGP 予備予選落ち R6ベルギーで初の予選通過 19位 決勝は9位で完走 ベストリザルトタイ R13オランダGPがチームMARTINI最後 奇しくもMK23マシンと同じ 予選は23位 決勝はリタイア モデルはオランダGP仕様 アルヌーは終盤2戦をサーティスで参戦 こちらもベストリザルトは決勝9位 翌1979年はフランス ルノーに移籍 #F1-1978年
230110 R.ARNOUX 31 1/43FW12C
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1981 (26TH) SPARK FITTIPALDI F8C K.ROSBERG
チャンピオン前年 ケケ・ロズベルグ ノーポイント DNQ 5回 FITTIPALDI F8C 1981年ケケはFITTIPALDIの2年目 エマーソンの引退に伴いNo.1ドライバ― チームメイトはブラジル出身 チコ・セラ マシンは昨年の改良型FITTIPALDI F8C 予選はR3アルゼンチン 8位 決勝はR2ブラジル 9位が最高 モデルはR5ベルギーGP仕様 予選11位→決勝リタイア タイヤはアメリカのクーパー・タイヤ チームはメインスポンサーを失い資金難 後半は予選通過もままならず予選落ち5回 C・セラと合わせてチームは13回予選不通過 メインスポンサーは無いが 1990年代フェラーリもサポートした PIONEER(パイオニア)の青いロゴが目立つ ケケは翌1982年A・ジョーンズの抜けた ウイリアムズに移籍 ノーポイント・予選落ち5回から 翌年はワールドチャンピオン獲得する #F1-1981年 #1981年
220921 K.ROSBERG 20 1/43FW12C
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1984 (26TH) SPARK ATS D7 BMW TURBO F1 M.WINKELHOCK
チームATS最後のマシン ATS D7 チーム3年目 M・ヴィンケルホック ATSは前年度に続きBMWターボエンジン マンフレッド・ヴィンケルホックの1台体制 タイヤはグッドイヤー→ピレリに変更 予選では6~8位を各1回と上位に食い込むも 決勝では信頼性不足もあり8位が2回 以外はすべてリタイヤに終わる R12~は新人ゲルハルト・ベルガーが加わり 一時2台体制もヴィンケルホックは チームを離れ最終戦はブラバムから出走 ペンスキー・マーチを買収し 1978年より参戦したチーム ATSも 1984年をもって活動終了 チームオーナーのギュンター・シュミットは 1988年リアルで再びF1に参戦 ドイツのRACELAND別注モデル R13ドイツGP仕様 予選13位→決勝リタイア SPARKでは珍しいドライバーがコックピットを 降りる所を再現したモデル 試作画像見たときにイマイチかと思いましたが ドライバ―スーツの背中のMarlboroが目立ち スーツのしわも再現された面白い1台でした https://muuseo.com/FW12C/items/679?theme_id=34513 #F1-1984年 #F1親子鷹 #RACELAND
220910 M.WINKELHOCK 500 14FW12C
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1979 (26TH) SPARK ENSIGN N179 D.DALY
F1史上 唯一無二のデザイン 最も醜いとも言われる ENSIGN N179 1979年エンサインは序盤2戦を 前年型のマシンで戦い R3南アフリカGPよりエンサイン初の グランドエフェクトカーN179を導入 誰もが驚くデザインで 冷却機器をノーズに配置 上部にオイルクーラー 下部にラジエター 階段状の3枚刃を持つ独特な形状は 別名チーズグレーター(チーズおろし器) 結局 冷却機器が機能せず オーバーヒートで予選落ち コックピットに流れ込む熱気が ドライバ―のD・デイリーを苦しめた このデザインはR3南アフリカの予選のみで R4以降は通常のノーズに戻されたが N179でのデイリーは予選通過は1度のみ (前年度のN177での決勝11位が最高位) エンサインを離脱しその後ティレルに移籍 F1の雑誌等でユニークデザイン車では 必ずと言っても良いほど話題に上がる ENSIGN N179をSPARKがモデル化 予選のみのデザインながら F1史上最もインパクトを残した1台 #F1-1979年 #F1ユニークデザイン #F1 #1979年
D.DALY 22 1/43 ENSIGNFW12C
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1976 (26TH) SPARK MARCH 761 A.MERZARIO
アルトゥーロ・メルヅァリオ OVOROカラー MARCH 761 イタリア出身A・メルヅァリオ 1972年フェラーリよりデビュー 1976年はプライベーターとして MARCH 761を購入してR3より参戦 ヘルメットにはフェラーリの跳馬 MARCH 761では7戦出走し予選落ち2回 予選最高 R9イギリス9位 決勝最高 R8フランス9位 印象深いスポンサーのOVOROは イタリアのリキュールメーカー R10よりメルヅァリオは ウイリアムズに移籍の為 OVOROは数戦のみの限定カラー ウイリアムズでは7戦出走も全てリタイア ◆R16日本(富士SW)予選19位→決勝リタイア◆ ウイリアムズ所属時のR10ドイツGPでは 炎上するN・ラウダ(フェラーリ)の救出を助けた 4人のドライバ―のひとりでもある レースに対する情熱は凄まじいものがあり 翌1977年からは自分のチーム メルヅァリオを立ち上げ3年間F1参戦 #1976 #F-1976年 #F1
A.MERZARIO 1976 35 1/43FW12C
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1995 (26TH) ONYX PACIFIC FORD PR02 B.GACHOT
1991年ルマン24時間レース覇者 ベルトラン・ガショー 最後のマシン 1995年ガショーはパシフィックの 共同オーナー側で携わる予定も他者の 契約問題もありR1~8・R15~17の11戦出走 R17オーストラリアGPの8位がベスト モデルはR6カナダGP仕様で 予選20位→決勝リタイヤ 当初はベルギー国籍であったが 1992年よりフランスの国籍に 父親はEC(現EU)の高官 予備予選参加41回 通過25回は どちらも歴代1位の数字 1990年スバル・コローニで参戦 1991年マツダでのルマン24H優勝 1992年ベンチュリーで片山右京のTM など日本とも関わり多い F1引退後はエナジードリンク飲料会社 Hype Energyを買収しCEOを務めている 🏁ベルトラン・ガショー (フランス) 【決勝出走数】46回(入賞4回) 【予選最高位】10位(2回) 1991年 ジョーダン R2ブラジル 1992年 ベンチュリー R13イタリア 【決勝最高位】 5位 1991年 ジョーダン R5カナダ 【ファステストラップ】 1回 1991年 ジョーダン R10ハンガリー #F1-1995年 #F1-LAST
B.GACHOT 16 1/43 PACIFICFW12C
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1988 (26TH) SPARK TYRRELL 017 J.BALLEY
ジュリアン・ベイリー イギリス出身 1987年国際F3000ランキング8位ながら イギリスGPブランズハッチでの優勝もあり 1988年持参金と共にティレルよりデビュー TMはJ・パーマーのイギリス人コンビ ティレルでは珍しい黒がベースカラーの ティレル017は前年度のDG016を 引き継いだがダウンフォース不足が 露呈し苦しいシーズン 新人のベイリーは16戦中10回の予選落ち R6アメリカGPの決勝9位が最高位 モデルのR8イギリスGPは 予選24位→決勝16位 リアウイングにはスポットスポンサーで イギリス最大の原子力事業会社の CAVENDISHがサポートしている ベイリーは日産でスポーツカーレースに参戦後 1991年にロータスで4戦のみF1復帰します #TYRRELL #1988
J.BAILEY 4 1/43 CAMELFW12C
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2007 (26TH) PMA SPYKER F8-VⅡM.WINKELHOCK
生涯参戦1戦 タイヤ交換で リードラップ6周を経験ドライバ― マルクス・ヴィンケルホック ドイツ出身 2007年DTMに参戦していたが R10ヨーロッパGPでC.アルバースに代わり スパイカーF1チームで出場 予選は最下位の22位 悪天候を予想してフォーメーションラップ後 ピットインしてレインタイヤに交換 他車がスピンやタイヤ交換の中 PPスタートのK.ライコネン(フェラーリ)を抜き なんとトップを走行 その後セーフティーカー導入もあり 2週目~7週目の6周をラップリーダーで走行 予選最下位からのラップリーダーは F1史上2人目の出来事(最終はリタイヤ) このGP限りの参戦でこの後 スパイカーは山本左近が参戦している マルクスの父マンフレッドも 1980年代にATSやRAMにてF1参戦しています #F1-2007年 #F1親子鷹 https://muuseo.com/FW12C/items/678
M.WINKELHOCK 2.232 21 1/43FW12C
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1994 (26TH)+α2 ONYX BENETTON FORD B194 J.HERBERT
J.ハーバートは1994年3チーム目のベネトン ベネトンにはデビューの1989年以来の復帰 2戦を残しコンストラクターポイントで ベネトン97P VS ウイリアムズ94P 直近3戦でベネトン2NDドライバ― J.フェルスタッペンが2Pと 不安定な為 ハーバートを起用 しかしハーバートは2戦ともリタイヤ 2戦でベネトン6P VS ウイリアムズ23P 逆転でコンストラクタータイトルを逃した ハーバート自身は長年のロータスから解放され 次年度のベネトンでの勝利へのきっかけとなる モデルは最終戦のオーストラリアGP仕様 (予選7位→決勝R 13週ギアボックス) ドイツのビールBitburgerのスポンサーと 1994年の特徴のエアボックスの穴が再現 MILD SEVEN 加工をしております #1994 #MILDSEVEN #F1
J.HERBERT 6 1/43 MILD SEVENFW12C
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1994 (26TH)+α SPARK LIGIER RENAULT JS39B J.HERBERT
J・ハーバートのリジェは1戦限り E・ベルナールとトレードの形で R14ヨーロッパGPに急遽実施 初めてのマシンで予選7位→決勝8位 TMのO・パニス 予選11位→決勝9位 次戦はベネトン移籍 ハーバートは1年で3チーム 無限V10→ルノーV10→フォードV8と エンジンも3ブランドと 目がぐるしい1994年だった SPARKはこの1戦限りもモデル化 発売される前はハーバートが リジェ在籍したのも忘れかけていました #F1 #1994
J.HERBERT 25 1/43 GITANESFW12C
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1994 (26TH) SPARK LOTUS 109 J.HERBERT
LOTUSで5シーズン目を迎えた ジョニー・ハーバート エンジンは無限HONDAで挑むシーズン 開幕~4戦目までは 昨年までの改良型107C(ONYX 画像7) R1ブラジル R2パシフィック(TI英田) 共に粘りの走りで決勝7位 R5から待望のニューマシンLOTUS 109も 大きく改善見られず予選は20位前後 R12イタリアでは突如予選4番手 これは一般的に無限エンジンのUP DATE と言われているがジョニーの後日談では 少し扱いやすくなった程度で実際は エンジニアと取り組んだ ダンパーの改善が当たったと語っている 決勝はアーバイン(ジョーダン)に 追突されて早々にリタイア 109でのベストもR7 フランスの7位 ハーバートは資金難の為権利を売りに出され リジェ→最後はベネトンに移籍 1シーズに3チーム所属となった #1994 #F1 #F1-1994年
J.HERBERT 12 1/43 LOTUSFW12C
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1993 (26TH) PMA JORDAN 193 HART T.BOUTSEN
1993年T.ブーツェンはリジェ残留できず ザウバーのファクトリーに訪れたが 契約に至らず シートを失います I.カペリ離脱のジョーダンから BARCLAYの後押しもあり参戦 予選ではR.バリチェロに全敗 決勝もR11ハンガリーの9位が最高位 1983年R6の地元ベルギーでデビュー 1993年R12参戦10周年のそのベルギーで 突如引退を発表しました JORDAN 193のブーツェンも量産化モデルは 発売されていない為 ジョーダンSETを カーナーンバー・BARCLAY加工と ドライバ―のフィギュアを乗せています 引退後 BOUTSEN JETを設立 モナコに移住し飛行機の販売事業に従事 2019年鈴鹿サーキットのイベントで ポルシェ962Cに搭乗 1分59秒010の 当時(1988年1分57秒709)さながらの タイムを出し会場を沸かせました #振り向けばブーツェン
T.BOUTSEN 15 1/43 BARCLAYFW12C