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2011 (25TH) SPARK VIRGIN MVR-02 T.GLOCK
ティモ・グロッグ ヴァージン2年目 マルシャ資本参加 VIRGIN MVR-02 2012年グロッグはヴァージン残留 チームメイトはジェローム・ダンブロシオ ロシアの自動車マルシャがチームに資本参加 マシン名称にMが加えられてMVR-02となった 前年度マシンVR-01同様 風洞を使用せず コンピュータ上の数値流体力学(CFD)で設計 しかし設計を担当した元シムテック代表の ニック・ワースは成績上がらずチーム途中離脱 後パット・シモンズが加入し立て直しを試みた グロッグは予選最高R10ドイツ19位 決勝はR7カナダ R12イタリアでの15位 前年同様に僅差でチームメイトの ダンブロシオ(決勝14位)にも敗れ チームもHRTに2年連続負けて最下位 グロッグは翌2013年チーム名がマルシャに 変更となるも残留し最後のシーズンを迎える モデルはスパーク R3中国GP仕様 予選22位→決勝21位 マルシャのロゴがエンジンカバーに入り 前年度より落ち着いたカラーとなった ヴァージン仕様のスリーブデザイン
240305 T.GLOCK 2011 1/43FW12C
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1975 (25TH) SPARK MARCH 751 H.J.STUCK
ハンス・スタック 2シーズン目 キャリア唯一のノーポイント MARCH 751 前年度F1で2番目親子ドライバ―で デビューしたハンス・ヨハム・スタック 1975年は後半5戦をよりマーチでエントリー この年のマーチ勢の予選トップとなる R11ドイツ7位 R12オーストラリア4位も 決勝では当該レース含む4戦連続リタイア R12ではマーチのブランビラが優勝 最終戦R15アメリカでの8位が この年唯一の完走で1974年~79年まで 参戦するスタックの唯一の無得点の年 モデルはSPARK スタックの地元R11ドイツGP仕様 予選11位→決勝はエンジン壊れリタイア スポンサーのLAVAZZAは 1895年創業のイタリアの エスプレッソマシンメーカー この年のマーチはドライバ―ごとに メインスポンサーが変わり LAVAZZA H・スタック L・ロンバルディ Beta V・ブランビラ Penske Cars M・ダナヒュー それぞれカラーリングも異なる
230919 H.J.STUCK 1975 10FW12C
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1980 (25TH) KIT ENSING N180 C.REGAZZONI
クレイ・レガッツォーニ 引退 下半身不随の大事故 ENSING N180 1980年レガッツォーニは1977年以来の エンサインで1名体制でのエントリー 完走はR3南アフリカの決勝9位のみ R4アメリカWEST GP ブレーキペダルが折れる アクシデントで下半身不随の重症 これはとっさにギアを3速に入れ エンジンスイッチを切って減速の上 リタイア車に当てて衝撃をやわらげる という一連の操作で一命を取りとめた レガツォーニはこれ以来車椅子生活も 両手のみで操作ができるように 改造された車両で運転を継続 その内の一台であるHONDA NSXでの ドライブがテレビCMに残されている F1通算5勝とPP5回はいずれもそれぞれ 異なる年に記録しており フェラーリ時代のイタリアGPで2勝 またFLは15回と決勝での速さも光った 🏁クレイ・レガッツォーニ (スイス) 【決勝出走数】131回 (入賞52回-表彰台28回) 【予選最高位】 PP(5回) 1970年 FERRARI R15 メキシコ 1971年 FERRARI R 6 イギリス 1973年 BRM R 1 アルゼンチン 1974年 FERRARI R 5 ベルギー 1976年 FERRARI R 3 アメリカW 【決勝最高位】 優勝(5回) 1970年 FERRARI R10 イタリア 1974年 FERRARI R11 ドイツ 1975年 FERRARI R13 イタリア 1976年 FERRARI R 3 アメリカW 1979年 WILLIAMS R 9 イギリス 【ファステストLAP】(15回) https://www.youtube.com/watch?v=Th5RlvokgYI&feature=related
230712 C.REGAZZONI 1980 14FW12C
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2010 (25TH) SPARK VIRGIN VR-01 T.GLOCK
新規参戦チーム 2010年 ヴァージン VR-01 ティモ・グロッグ 2010年 F1は新規3チームが参戦 ロータス(マレーシア) HRT(スペイン) ヴァージン(イギリス) 元々マノー・F1チームと名乗っていたが 2009年のチャンピオンチーム ブラウンGPのスポンサーであった 多国籍企業のヴァージンが タイトルスポンサーとなり名称が変更 風洞実験を行わず数値流体力学(CFD) によるシミュレーションのみでデザイン これには1994~1995年に参戦した シムテック代表ニック・ワースの会社 ワース・リサーチがサポートしていた グロッグは2009年まで所属のトヨタが 急遽撤退により新規ヴァージンでの参戦 チームメイトはルーカス・ディ・グラッシ グロッグは前半8戦中6戦でリタイア 決勝最高もR16日本GPの14位 ディ・グラッシも決勝最高位14位であったが 2番目の決勝成績差で敗れて年間25位 (ディ・グラッシ15位 グロッグ16位) 新規3チームを含むフル参戦ドライバ―で 最下位ではあったもののエースとして 翌2011年もヴァージンに残留 モデルはスパーク R2オーストラリアGP仕様 予選21位→決勝はリタイア 新規3チームともスパークで発売 モデルカーケースのスリーブも ヴァージン仕様となっている
230519 T.GLOCK 2010 24FW12C
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2006 (25TH) PMA SUPER AGURI SA05 Y.IDE
史上初 日本人ドライバ―同士 チームメイト 井出有治 SUPER AGURI 井出有治 埼玉県浦和市出身 2002年 フランスF3 7位(1勝) 2004年 フォーミュラニッポン3位(1勝) 2005年 フォーミュラニッポン2位(2勝) 2006年は日本人初の表彰台F1ドライバ― 鈴木亜久里が立ち上げたSUPER AGURIで F1デビュー チームメイトは佐藤琢磨 史上初の日本人2人のチームメイト 急遽立ち上げたチームでもあり テストもほとんどドライブしないまま 開幕戦デビューとなり2戦連続のリタイア R3オースラトリアGP 決勝13位完走するも R4サンマリノGPでは クリスチャン・アルバース(ミットランド)に 接触しアルバースのマシンは横転 自身もダメージを負いリタイア この接触事故も一因となり 残念ながらシーズン途中に発給済みの スーパーライセンスが取り消され 4戦限りのF1エントリーとなった その後フランク・モンタニー 山本左近が 井出のシートの後ドライブするも いずれも決勝最高は16位で 井出の13位を上回る事は出来なかった Y・IDEの名前三文字表記は C・PIC(シャルル・ピック)などと並び F1ドライバ―最小名前表記文字の1人
230428 Y.IDE 23 1/43FW12C
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2012 (25TH) SPARK HRT F112 P.DE.LA.ROSA
the story will be at a later date.
230328 P.DE.LA.ROSA 22 1/43FW12C
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1998 (25TH) PMA STEWART FORD SF-2 J.VERSTAPPEN
1998シーズン唯一のドライバ―入替 ヨス・フェルスタッペン STEWART SF-2 1998年シーズンは途中の ドライバ―入替があったのは スチュワートグランプリのみ ヤン・マグヌッセンがR6カナダで 初ポイントを獲得直後に契約解除 ヨス・フェルスタッペンに交代した 直前のテストでフェルスタッペンが 好タイムを出した事とFORDを含めた スポンサーからの意向が強かった為 フェルスタッペンは元々ティレルでの 参戦が有力であったがオーナー変更で リカルド・ロセットにシートを奪われた しかしSTEWART SF-2は戦闘力が無く 予選・決勝とも最高位は12位 完走も9戦中僅か3回でチームメイトの R・バリチェロと共に低迷した ヨス・フェルスタッペンは翌1999年は ポスルズウェイト率いるHONDAの プロジェクトのテストドライバー この入替のあった2人のドライバ―子息 マックス・フェルスタッペンと ケビン・マグヌッセンが2023年シーズに RED BULLとHASS所属で活躍しているとは この当時は全く想像できなかった #F1-1998年
230313 J.VERSTAPPEN 19 1/43FW12C
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1978 (25TH) PMA LOTUS FORD 79 J.P.JARIER
ジャン・ピエール・ジャリエ LOTUS FORD 79 最後のPP 1978年ジャリエはATSで参戦 R3南アフリカの決勝8位が最高 ATSでは6戦のみの出場も2度の予選落ち R15アメリカEAST GP 事故死したR・ピータソンの代役で ロータスより出場 予選8位→決勝15位もFL獲得 最終R16カナダGPでは3年ぶり 自身最後となるポールポジション獲得 レースも49周目までトップを快走したが あと20週の所で残念ながらリタイア モデルはカナダGP仕様 生涯勝てそうで勝てなかったドライバ― (ベストは3位が3回)ジャリエの もっとも勝利に近かったのがこのGP ジャリエのロータスはこの2戦のみ 翌1979年はティレルに移籍 #F1-1978年 #F1
221225 J.P.JARIER 1回 1.752FW12C
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1997 (25TH) ONYX MINARDI HART M197 U.KATAYAMA
1997年日本GP 鈴鹿で引退発表 右京ラストシーズンMINARDI HART M197 片山右京は4年間所属したティレルを離れ MILD SEVENとともにミナルディに移籍 TMはルーキーのヤルノ・トゥルーリ トゥルーリ移籍後はタルソ・マルケス 開幕戦オーストラリア予選15位 決勝はモナコ・ハンガリーの10位が最高 TMのヤルノ・トゥルーリとは良好な関係で 右京の経験をつぎ込み若手育成に努めた 翌シーズンの残留の要請もあったが 後進にF1シートを譲りたいとの理由で 日本GP 鈴鹿のフリー走行後に引退を発表した こちらのモデルは大阪時代に 日本橋にあったNinomiyaで購入 Joshinのような電気屋で模型も扱いしてた記憶? 右京のF1通算出走回数は95戦 これは現在でも日本人歴代最多記録 🏁片山 右京 (日本) 決勝出走回数 95回 予選最高位 5位(2回) 1994年 ティレル R9ドイツ 1994年 ティレル R10ハンガリー 決勝最高位 5位(2回) 1994年 ティレル R1ブラジル 1994年 ティレル R3サンマリノ #F1-1997年
221008 U.KATAYAMA 20 1/43FW12C
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1984 (25TH) SPARK SPIRIT 101 M.BALDI
HONDAエンジン喪失のスピリット ハートエンジン M・バルディで参戦 1984年スピリットはHONDAエンジンを 失ったがそのHONDAが用意する形で ハートV4エンジンを4基購入し参戦 HONDAの資金提供はマシンにもあらわれ エンジン供給していないにも関わらず HONDAのロゴがコックピット横下に存在 ドライバ―は二転三転したが開幕戦からは イタリア人のマウロ・バルディがドライブ 前半戦は2度の8位を記録したが資金難で R7よりヒューブ・ロテンガッターに変更 終盤2戦はパスカル・ファブル(フランス)が 参戦予定もスーパーライセンスが下りず 再びバルディがドライブし3度目の8位を記録 レッドカラーはモデル仕様の開幕ブラジルと R2南アフリカの2戦のみで以降は白に変更 スポンサーはF1では珍しいNikonが リアウイングサイドにあり また モデルの発売はSPARKですがマシンには イタリアのBBURAGOのロゴが貼られている #F1-1984年 #スピリット
M.BALDI 21 1/43 MarlboroFW12C
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1995 (25TH) ONYX PACIFIC FORD PR02 A.MONTERMINI
アンドレア・モンテルミニ イタリア出身 GPデビューマシン 1994年R・ラッツェンバーガー亡き後 シムテックから参戦するも R5スペインGPのフリー走行で 大クラッシュして骨折 予選を走行することなく欠場 1995年はパシフィックより レギュラーシートを獲得 開幕戦を予選22位→9位完走 R9ドイツは予選23位→8位完走 決勝8位はモンテルミニと チーム・パシフィックにとっても 生涯のベストリザルト パシフィックは1994年で撤退した ロータスの名称権を買収 ロータスのグリーンのラインと ロゴがマシンに小さく貼られていて 日本の企業の仲介もあり おーいお茶のITOENが スポンサーについていたが この年限りでF1から撤退した #1995
A.MONTERMINI 17 1/43 PACIFICFW12C
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1983 (25TH) IXO SPIRIT HONDA 201 S.JOHANSSON
1983年スピリットホンダは6戦のみの出走 ドライバーはステファン・ヨハンソン 6戦中の前半3戦は白ベース 後半の3戦は R12のオランダGPより2輪のHRCのマシンを 彷彿させるトリコロールカラーに変更 そのR12オランダGPは予選17位 決勝はこの年のベルトリザルトの7位 スピリットホンダのほとんどのミニカー モデルはSPRIT HONDA 201Cとなっているが こちらのIXOのモデルは車体が SPRIT HONDA 201との表記があり リアに大型の補助ウイングがあるので R14ヨーロッパGP仕様と思われます トリコロールカラーでの 決勝出走の車体はR12オランダは201C R13イタリアとR14ヨーロッパは201 前半の白ベースも良いですが 後半のトリコロールカラーの方が より印象に残ります #F1-1983年 #HONDA #2021ありがとうHONDA 映像 1983年ヨーロッパGPフリー走行&予選 13分48秒 24分18秒頃に一瞬だけ映ります↓↓ https://youtu.be/f6zEnZuNO5Q https://muuseo.com/FW12C/items/107
S.JOHANSSON F1マシンコレクション 40 115FW12C
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1973 (25TH) SPARK MARCH 731 H.PESCAROLO
アンリ・ペスカローロ フランス出身 ル・マンでは3連覇を含む4度の優勝 33回出場という最多記録所持者 F1では1973年 R4スペインGPに マーチのワークスSTPマーチで参戦 MARCH 731のデビューマシン 予選18位→決勝8位でこれが この年のチーム最高位 この後R10オランダGPでは R・ウイリアムソンが このマシンで残念ながら事故死している マーチをサポートしてきた スポンサーSTPもこの年で終了 ペスカローロは1973年 ル・マン マトラシムカMS670Bで 後にラルースチームを設立する ジェラール・ラルースと組んで優勝している #F1-1973年 #F1
H.PESCAROLO 1973 11 1/43FW12C
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1993 (25TH) IXO SCUDERIA ITALIA LOLA T93/30 L.BADOER
ルカ・バドエルは1992年 当時最年少の20歳で国際F3000を制し 1993年F1にステップアップ スクーデリアイタリアは この年シャーシを ダラーラ→ローラに変更したが これが大きな失敗となる T93/30はF3000を思わせる大きな作り ハイテク関連も搭載しておらず 常にテールエンダーでの戦い それでもバドエルは R4サンマリノで7位に入り コンストラクタ―最下位は逃れた この7位がバドエルの生涯最高位ともなる スポンサーはフィリップモリス社が Marlboro→Chesterfieldに変更 このカラーリングのインパクトは絶大 スクーデリアイタリアは終盤2戦を欠場 次年度はミナルディと合併します #1993 #F1
L.BADOER F1マシンコレクション 22 133FW12C
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1992 (25TH) SPARK VENTURI LARROUSSE LC92 LAMBORGHINI U.KATAYAMA
大阪ROMU別注モデル #1992年 #F1-1992年
U.KATAYAMA 500 30 1/43FW12C