-
1977 19TH SPARK ATS PNSKE PC4 J.P.JARIER
ATS ペンスキー買収でF1参戦 ジャン・ピエール・ジャリエ PNSKE PC4 ドイツの自動車部品サプライヤーATS 1976年末F1でペンスキーを買収 1977年チームATSとして参戦 マシンはペンスキー製を使用 ドライバーは前年までシャドウに所属した ジャン・ピエール・ジャリエの1台体制 R4アメリカGPより参戦 予選9位→決勝6位 初戦でポイント獲得の活躍をみせたものの 以降の入賞は無くペンスキーは この年限りでF1から撤退 チームATSは翌1978年からは コンストラクター名もATSとして 1984年まで参戦する ジャリエは終盤シャドウとリジェからも 1戦ずつ参戦もポイント獲得はなかった モデルはスパーク R4アメリカWEST GP アメリカの名門PENSKEの車体の 最後のポイント獲得となった
240322 J.P.JARIER 1977 34FW12C
-
2000 (18TH) PMA RED BULL SAUBER PETRONAS C19 P.DINIZ
ペドロ・ディニス 有終の美とはならず 最後のマシン SAUBER PETRONAS C19 2000年ペドロ・ディニスはザウバー残留 チームメイトは1998年にアロウズでも 同僚であったミカ・サロが加入 ディニスの地元R2ブラジルGPでは リアウイングが脱落するアクシデントで チームは2台とも予選終了後に欠場した ディニスの予選最高はR15アメリカGP9位 決勝最高はR6ヨーロッパGP7位 参戦初年度1995年フォルティ以来の シーズンノーポイントに終わる その資金力から多数のオファーが あったもののディニスはドライバーを引退 翌2001年はチームプロストの株式40%を 取得し共同オーナーとなったが チームを取得を目指しプロストと対立 シーズン半ばでF1界から去って行った モデルはミニチャンプス 最終戦R17マレーシアGP仕様 予選20位→決勝リタイア ディニスのF1ラストレース 車体にマレーシアの国旗が描かれている 🏁ペドロ・ディニス (ブラジル) 【決勝出走数】98回 (入賞8回) 【予選最高位】7位 1997年 ARROWS R12 ベルギー 【決勝最高位】5位(2回) 1997年 ARROWS R15 ルクセンブルグ 1998年 SAUBER R13 ベルギー
240221 P.DINIZ 2000 1.999FW12C
-
1977 19TH SPARK LIGIER JS7 J.P.JARIER
1977年日本GP リジェ初の2台体制 ジャンピエール ジャリエ LIGIER JS7 1977年 最終戦日本GP 富士SW この年ジャック・ラフィーで初優勝を 果たしたリジェは初の2台目をエントリー ドライバーはジャンピエール・ジャリエ ジャリエは当年ATSで出場し R4アメリカWESTで6位入賞 その後途中チームを離脱 シャドウで1戦出場し最終戦のみリジェ 慣れないマシンに手こずり予選17位 決勝は3周目にマトラエンジンが壊れリタイア チームメイトのラフィーが5位入賞をしている ジャリエはこの後2度リジェに所属 1981年2戦のみ1983年レギュラーで参戦も リジェでのポイント獲得は出来なかった モデルはスパーク 日本GP仕様 予選17位→決勝リタイア スパークの初期頃生産 シルバースリーブ タバコブランド GITANES仕様 リジェでは唯一となるカーナンバー27 27番は翌1978年~アラン・ジョーンズがつけ 1980年ウイリアムズに初栄冠をもたらし 1981年はジル・ヴィルヌーブが付けて その後 所謂フェラーリのカリスマ ナンバーとなった
240220 J.P.JARIER 1977 27FW12C
-
1988 (18TH) SPARK LARROUSE LOLA LC88 Y.DALMAS
ラルース2台体制 ヤニック・ダルマス 日本GP欠場で… LARROUSE LOLA LC88 1988年 参戦2年目のラルースは 2台エントリーとなり 前年度終盤3戦で スポット参戦したヤニック・ダルマスを起用 チームメイトはフィリップ・アリオー ダルマスは当時フランスの若手ABCD (アレジ ベルナール コマス ダルマス) と呼ばれた中で1番最初のF1シート獲得 R2サンマリノGPから3戦連続完走 R5カナダGPは予選落ちしたものの R6アメリカGPから5戦連続完走 ポイント獲得はならなかったが 決勝でP・アリオーを上回る成績 R15日本GPを前に中耳炎を患い欠場 翌年ザグスピードからデビューの決まっていた 鈴木亜久里が急遽の出場となり レーシングスーツはダルマスの物を着用 予選20位→決勝16位完走 R16最終オーストラリアGPも欠場 同郷フランスのピエル・アンリ・ラファネルが 起用されたがこちらは予選落ちしている モデルはスパーク R3モナコGP仕様 予選21位→決勝7位 チームのシーズンベストリザルトタイ この後同じく公道サーキットの R6アメリカGP デトロイトでも決勝7位 ポイント獲得に一歩届かなかった コックピット回りにタバコスポンサー CAMELのデカールが別添えで貼り付済み
240129 Y.DALMAS 1988 29FW12C
-
2022 18TH BBURAGO ALFA ROMEO C42 Z.GUANYU
中国人初のF1ドライバ― ジョウ・グアンユ ALFA ROMEO C42 周冠宇(ジョウ・グアンユ) 中国上海出身 2021年 ヨーロッパF2 3位(4勝) 同年のアジアF3 チャンピオン(4勝) F1ではアルピーヌ(ルノー)の開発ドライバ― 2022年アルファロメロよりF1デビュー チームメイトはヴァルテリ・ボッタス カーナンバー24番は自身がファンである NBA コービー・ブライアントが 付けていた事によるチョイス 開幕戦のバーレーンGP 予選15位から上位脱落もあり10位入賞 デビュー戦での入賞は現在までに 約75名ドライバーで日本人は角田裕毅のみ R9カナダGP シーズンベストの決勝8位 R10イギリスGP 予選唯一のQ3進出の9位 R18鈴鹿ではファステストラップも記録 初年度は3度の入賞6P 年間18位 ボッタスは49P 年間10位 翌2023年もアルファロメオに残留 モデルはBBURAGO 2022年モデルはアルファロメオも BBURAGOからリリースされ 現状ミニチャンプスの現行モデルは 定価約2万円弱と高騰しており 約1/5価格のBBURAGOは コストパフォーマンスが高い
231118 Z.GUANYU 2022 1回FW12C
-
1973 16TH SPARK BRABHAM BT42 W.FITTIPALD
追悼 ウィルソン・フィッティパルディ エマーソンの兄 ウイルソン・フィッテパルディ ポイント獲得 BRABHAM BT42 ウイルソン・フィッテパルディ ワールドチャンピオン エマーソンの兄 1990年台にミナルディなどに所属した クリスチャン・フィッテパルディの父 1972年にブラバムでデビュー 1973年はブラバムでフル参戦 チームメイトは南米コンビの カルロス・ロイテマン 開幕戦アルゼンチンGP 旧型のBT37で予選12位谷→決勝6位 南米の地で自身のF1初入賞 R4スペインGPよりニューマシンBT42投入 R11ドイツGP キャリアベスト5位入賞 ウイルソンのF1入賞はこの年のみ 翌1974年を準備期間として1975年に自身の チームフィッテパルディ(コパシュカー)を 立ち上げて自らドライバ―として参戦 モデルはスパーク R6モナコGP仕様 キャリアベストの予選9位 決勝は11位 BT42はゴートン・マレーのF1初設計 ショートホイールベース 三角形断面のモノコック フロントには2分割式ラジエターを登載した 特徴的なマシンにウイルソン持ち込みの ブラジルカラーのスポンサーが施されている
231113 W.FITTIPALD 1973 11FW12C
-
1978 18TH SPARK SHADOW DN8 H.J.STUCK
シャドウ移籍のハンス・シュトック チーム主力離脱で苦戦 SHADOW DN8 1978年H・シュトックはN・ラウダ加入に 伴いブラバムを離脱→シャドウに移籍 チームメイトはC・レガッツォーニ チームの主力が抜け新規チームアロウズと 盗作問題騒動の中はシャドウは苦戦 シュトックは予選は20位前後が多く R10イギリスの決勝5位が唯一の入賞 シュトックの生涯F1入賞回数は12回 3位-2 4位-3 5位-5 6位-2 で5位が一番多く 1976年にコジマ(マーチ762)でスポット参戦した 全日本F2000 R5鈴鹿も5位であった スポンサーのvilligerは1888年創業の スイスの有名葉巻メーカー 通常タバコブランドは規制の影響で デカールが別添付で自己で貼り付けするが 何故かvilligerは添付されて販売されている H・シュトックは1年でシャドウを離れ F1最後の翌1979年はATSに移籍する
230627 H.J.STUCK 1978 16FW12C
-
2001 16TH HOT WHEELS JAGUAR R2 P.DE.LA.ROSA
the story will be at a later date.
230326 P.DE.LA.ROSA 19 1/43FW12C
-
1978 15TH SPARK TYRRELL 008 D.PIRONI
ディディエ・ピロー二 F1デビュー TYRRELL 008 ディディエ・ピロー二 フランス出身 1977年ヨ-ローッパF2 シリーズ3位 フランスの石油会社エルフの 強力なバックアップもあり 新人ながら名門ティレルよりデビュー チーム・メイトはパトリック・デュパイエ R2ブラジルGPで予選19位→6位 デビュー2戦目で初入賞を果たすと このGP含め5戦中4戦入賞と 新人らしからぬコンスタントな走りを披露 その後はやや低迷 年間では5位2回 6位3回で7ポイント15位 円熟期であったP・デュパイエは 1勝含む34ポイントと差が付いたが チームからは評価を得て翌1979年も残留 #F1-1978年
230120 D.PIRONI 1978 3FW12C
-
1975 (22ND) SPARK HILL GH1 R.STOMMELEN
チーム ヒル 念願の自製シャーシ導入 初戦R・シュトルメン 観客巻き込む事故 ワールドチャンピオン G・ヒルが立ち上げた チーム ヒルは1975年ローラ製のシャーシから 念願の自製シャーシをR4スペインGPより導入 ロルフ・シュトルメンは予選9位と奮闘 しかし決勝は走行中にリアウイングが ウイングステーの破損により突如脱落 コントロールを失い観客席に飛び込み 観客を巻き込む死亡事故が発生 シュトルメンも重傷で戦線離脱した エマーソン・フィッテパルディ(マクラーレン) このスペインGP コースの安全不備を理由に ドライバ―の中で唯一レースを ボイコットしておりそんな中での事故であった シュトルメンは終盤2戦に復帰も成績は低迷 モデルはR13イタリア予選23位→決勝リタイア シーズン終了後 G・ヒルの事故死により チーム ヒルは残念ながら消滅した #F1-1975年
220927 R.STOMMELEN 1975 22FW12C
-
1977 (36TH) IXO FERRARI 312 T2 G.VILLENEUVE
ジル・ビルヌーブ フェラーリでの デビューマシン FERRARI 312 T2 1977年マクラーレンでデビュー後 エンツォ・フェラーリの目に留まり 1978年のフェラーリでの契約を結ぶ ニキ・ラウダのフェラーリ離脱に伴い 1977年終盤急遽 カーナンバー21で R16カナダGPに出場 予選17位→決勝12位 最終戦R17日本GP 富士SWにも出場 予選20位スタートから5周目に R・ピータソン(ティレル)に追突 ビルヌーブのマシンは宙高く舞い上がり 観客を巻き込む事故を起こしてしまう 痛ましい事故でマシンは大破したが 奇跡的にビルヌーブは無傷であった #F1-1977年 #1977年 #F1 #FERRARI
220926 G.VILLENEUVE フェラーリF1コレクション 21FW12C
-
1979 (23RD) IXO McLAREN M28 P.TAMBAY
北米シリーズ限定カラーリング ブルー/ホワイトのMarlboro マクラーレン 1979年パトリック・タンベイは マクラーレン2年目 TMはJ・ワトソン 開幕戦よりマクラーレン初の グランドエフェクトカーM28を導入 R4アメリカWEST ロングビーチ お馴染みの赤/白Marlboroカラーでなく ドイツのビールメーカー レーベンブロイのイメージカラーを メインとしたカラーリングを採用 しかし結果は振るわず予選19位→決勝R モデルはMarlboroをデカール加工実施 M28は完全なる失敗作で旧型M26に戻したり 後半からはM29を投入するも2度の予選落ち 決勝もR9イギリスの7位が最高 J・ワトソンが7回入賞15ポイントに対して P・タンベイはノーポイントに終わる マクラーレンのレギュラーフル参戦の ドライバ―が入賞無しで終わるのは 現在まで1979年のタンベイのみ タンベイは翌1980年はシートを失い 1981年はセオドールとリジェで参戦 #F1-1979年 マクラーレンM28通常Marlboroカラー↓ https://muuseo.com/FW12C/items/738?theme_id=34203
P.TAMBAY F1マシンコレクション 8 143FW12C
-
1964 16TH SPARK (REG PARNELL) LOTUS 25 BRM C.AMON
クリス・エイモン F1初ポイント REG PARNELL LOTUS 25 BRM V8 1963年当時2番目の若さ19歳309日で エントリーしたC・エイモンは 1964年プライベートチーム レッグ・パーネルで LOTUS 25のマシンで参戦 エンジンはBRM チームメイトはマイク・ヘイルウッド ピーター・レブソン 3名での参戦 R2オランダGPで予選13位→ 決勝5位での自身F1初入賞 エイモンの生涯入賞は29回 モデル仕様のR4フランスGPは 予選14位→決勝10位だったが 参戦9戦中完走3 リタイア5 DNQ1 リタイアが多かったものの チームの3人の中では年間順位は最上位16位 1965年・1966年はスポット参戦で 入賞は無かったがその走りが エンツォ・フェラーリの目に留まり 1967年にフェラーリへ加入する #F1-1964年 #F1
C.AMON 34 1/43 REG PARNELLFW12C
-
2011 16TH SPARK SAUBER C30 FERRARI S.PEREZ
2022年 FORMULA 1 第2戦サウジアラビアGP セルジオ・ペレス メキシコ 最遅215戦目のポールポジション獲得 メキシコ人初のポールポジション これまでのPPまでの最遅記録 M・ウエバー(2009年 レッドブル)の 132戦目を大きく上回る215戦目の獲得 2011年ザウバーよりデビュー チームメイトは小林可夢偉 メキシコ通信大手のテルメックス メキシコNEC claro などのスポンサーを 持ち込みシートを獲得 初戦で7位フィニッシュも後に失格 2011年は5回入賞 年間16位 予選最高9位 決勝最高7位 ペレスのF1キャリアは12年目 ザウバー2年 マクラーレン1年 フォースインディア・ レーシングポイントを合わせて7年過ごし 2021年よりレッドブル 優勝2回 FL6回 今回初のPP #F1-2011年 #最遅PP #2011
S.PEREZ 17 1/43 SAUBERFW12C
-
1976 (26TH) SPARK MARCH 761 A.MERZARIO
アルトゥーロ・メルヅァリオ OVOROカラー MARCH 761 イタリア出身A・メルヅァリオ 1972年フェラーリよりデビュー 1976年はプライベーターとして MARCH 761を購入してR3より参戦 ヘルメットにはフェラーリの跳馬 MARCH 761では7戦出走し予選落ち2回 予選最高 R9イギリス9位 決勝最高 R8フランス9位 印象深いスポンサーのOVOROは イタリアのリキュールメーカー R10よりメルヅァリオは ウイリアムズに移籍の為 OVOROは数戦のみの限定カラー ウイリアムズでは7戦出走も全てリタイア ◆R16日本(富士SW)予選19位→決勝リタイア◆ ウイリアムズ所属時のR10ドイツGPでは 炎上するN・ラウダ(フェラーリ)の救出を助けた 4人のドライバ―のひとりでもある レースに対する情熱は凄まじいものがあり 翌1977年からは自分のチーム メルヅァリオを立ち上げ3年間F1参戦 #1976 #F-1976年 #F1
A.MERZARIO 1976 35 1/43FW12C