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1983 (23RD) SPARK ARROWS A6 C.SERRA
チコ・セラ F1ラスト アロウズ途中解雇 ARROWS A6 1983年フィッテパルディチーム撤退で シートを失ったブラジル出身チコ・セラは アロウズのシートを獲得 チームメイトはマルク・スレール 開幕戦地元ブラジルGP 予選23位→決勝9位 R2アメリカWESTは元チャンピオン アラン・ジョーンズの復帰でシート譲る その後R4サンマリノ予選20位→決勝8位 R5モナコ予選15位→決勝7位と上り調子も チームはR6イギリスGPからベルギー出身 ティエリー・ブーツェンの起用を決定 セラはシートを失い F1でのキャリアは終了 その後はブラジル国内で活躍 同国のストックカーシリーズでは 1999年より3連覇を果たした モデルはスパーク 開幕戦ブラジルGP仕様 予選23位→決勝9位 各戦ごとにカラーが変わるARROWS A6 開幕戦はほとんどスポンサーない中 〖CALOI〗はブラジルの自転車メーカー E.T.に登場した自転車を模倣した BMXモデルを同1983年に発売している 🏁チコ・セラ(ブラジル) 【決勝出走数】18回 (入賞1回) 【予選最高位】15位 1983年 ARROWS R5 モナコ 【決勝最高位】 6位 1982年 FITTIPALDI R5 ベルギー
240403 C.SERRA 1983 30FW12C
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1956 (28TH) SPARK GORDINI T32 A.PILETTE
F1親子鷹 アンドレ・ピレット 最後のゴルディーニ GORDINI T32 アンドレ・ピレット ベルギー出身 息子のテディ・ピレットも 1974年ブラバムでF1参戦している F1界では3番目のF1親子鷹の父の方 アンドレは1951年よりスポット参戦 1954年ゴルディーニで自身唯一の5位入賞 1年空けて1956年はゴルディーニと 地元ベルギーではフェラーリで参戦 モナコGPとベルギーGPはともに6位 1956年は5位まで入賞の為 惜しくも入賞はならなかった 1950年から参戦しているフランスの ゴルディーニはこの年限りでF1撤退 T32が最後のマシンとなった モデルはスパーク モナコGP仕様 決勝6位 ピレットはこのGPで予選に出場しておらず 決勝でエリー・バイヨル(フランス)と 車両を共有しそれぞれ44周走行 100周のレースでトップから12周遅れ 優勝はスターリング・モス(マセラッティ) https://muuseo.com/FW12C/items/1548?theme_id=34513
231210 A.PILETTE 4 1/43FW12C
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1999 17TH PMA MINARDI FORD M01 M.GENE
ミナルディ 4年ぶりのポイント 新人マルク・ジェネ MINARDI FORD M01 マルク・ジェネ スペイン出身 1998年当時スペインでのトップフォーミュラ ワールドシリーズ・バイ・ニッサン初代王者 1999年ミナルディからF1デビュー ハイライトはR14ヨーロッパGP チームメイトのルカ・バドエルが 終盤4位走行中にエンジンが壊れリタイア 人目もはばからず涙流す中 ジェネは5位に順位を上げる その後チャンピオン争いの ミカ・ハッキネン(マクラーレン)と エディ・アーバイン(フェラーリ)が猛追 ハッキネンには抜かれたものの アーバインは何とか抑えて6位入賞 ジェネのF1初入賞はミナルディの 1995年最終オーストラリアGP以来 4年ぶり(65戦)ぶりのポイント獲得 コンストラクタ―でBARとの争いに 勝った貴重な1Pを獲得したジェネは 評価も上がり翌2000年もチームに残留 モデルはミニチャンプス 前年度に続くシルバーとブルーを 基調とするカラーリング メインスポンサーのテレフォニカは スペインの大手通信会社 マルク・ジェネの持ち込みスポンサー
231107 M.GENE 1999 21FW12C
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1980 (24TH) PMA RAM WILLIAMS FW07 R.KEEGAN
復活のチームRAM WILLIAMS FW07 ルパート・キーガン 決勝全戦完走 1980年 1976・1977年カスタマーで参戦の RAM RACINGが復活しウイリアムズの旧車 WILLIAMS FW07を購入し参戦 ルパート・キーガン イギリス出身 1976年21歳 イギリスF3チャンピオン 1977年プライベーター(ヘスケス308E) 1978年サ―ティス レギュラーで参戦 1980年 RAMでR8イギリスから7戦出走 予選通過・予選落ちを交互に繰り返し 4戦決勝進出 3戦予選落ち 決勝に進出の4戦はすべて完走 最高位はR14アメリカEAST GPでの 予選15位→決勝9位 参戦当初よりキーガンは 【ペントハウス】イギリス男性向け雑誌 【リズラ】 フランス手巻きタバコ のサポートを受けており 同社のロゴがRAMマシンにも貼られている キーガンは2年後の1982年 J・マスの離脱後のマーチ(RAM) 最後のF1参戦をする
230628 R.KEEGAN 2.784 50FW12C
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1961 (22ND) SPARK (UDT LAYSTALL RACING TEAM) LOTUS 18 C.ALLISON
クリフ・アリソン 最後のGP プライベーター LOTUS18 クリフ・アリソン イギリス出身 1958年ロータスでデビュー 1959・1960年はフェラーリでスポット参戦 1960年開幕アルゼンチン 2位表彰台 最高位2位のドライバ―の1人 1961年はプライベーターUDT LAYSTALLで LOTUS18のマシンを購入して参戦 開幕モナコGP予選15位→決勝8位 R3ベルギーはエントリーするも走行せず アリソンはこの年でF1から引退 この年LOTUSの車は本隊を含めて 22名ものドライバ―が使用 アリソンのマシンはF1では珍しい キレイなライトグリーンカラーリング 🏁クリフ・アリソン (イギリス) 【決勝出走数】11回(入賞3回-表彰台1回) 【予選最高位】 5位 1958年 LOTUS R7イギリス 【決勝最高位】 2位 1961年 FERRARI R1アルゼンチン
230610 C.ALLISON 1961 32FW12C
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2010 (21TH) SPARK LOTUS T127 J.TRULLI
チーム・ロータスの復活?? LOTUS T127 ヤルノ・トゥルーリ 2010年新規参戦チーム イギリスF3のライトスピードが母体となり デザイナー マイク・ガスコインと提携 更にジェームス・ハントの弟 デビット・ハントと契約して彼が所持する チーム・ロータスの名称使用権を得た 当初は新規3チームの選考から漏れたが 新規参戦予定のチームUSF1が消滅 また急遽トヨタのF1から撤退もあり 最終的にロータス・レーシングとして エントリーが認められた ドライバ―はトヨタ撤退でシート失った ヤルノ・トゥルーリとマクラーレンから 移籍のヘイキ・コバライネンの F1ウイナーコンビ(どちらも生涯1勝) 同年に新規参戦したHRTとヴァージンには 差をつけ既存チームのテールエンダー トロ・ロッソに迫ったもののポイント獲得はならず トゥルーリの決勝最高はR16日本GPの13位 予選ではチームメイトのコバライネンに 勝ったものの決勝では大きく負け越し 年間順位もトゥルーリ21位 コバライネン20位(決勝最高12位) 翌2011年もチームに残留 ロータス・レーシング→チーム・ロータスに 名称を変更するもロータス・ルノーとの間に ロータス名称問題が勃発する
230521 J.TRULLI 2010 18FW12C
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1964 13TH SPARK (SCUDERIA CENTRO SUD) BRM P57 T.MAGGS
最高位2位ドライバ― トニー・マッグス 自身最後の入賞 BRM P57 トニー・マッグス 南アフリカ出身 1960年ヨーロッパジュニアフォーミュラで ジョー・シフェールと同点でチャンピオン F1での南アフリカ人初入賞・初表彰台獲得者 過去に同国の表彰台獲得ドライバ―は ジョディ・シェクターと2人のみ 1962年・1963年にクーパーで 2位表彰台を各1回 記録している 最高位2位ドライバ―の1人 1964年はプライベートチームで BRMの型落ちマシンP57で5戦にエントリー この時のBRMのレギュラードライバーは グラハム・ヒル / リッチ・ギンザー マッグスはR6ドイツで予選16位→決勝6位 R7オーストリアで予選19位→決勝4位 いずれも予選下位から追い上げての入賞 オーストリアでの4位が 自身F1での最後の9回目の入賞であった 翌1965年 2年ぶりの開催の地元 南アフリカGPに参戦してF1からは引退した #F1-1964年
230417 T.MAGGS 17 1/43FW12C
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1978 16TH SPARK SHADOW DN8 C.REGAZZONI
クレイ・レガッツォーニ シャドウ移籍 チーム主力離脱の混乱の中 5位入賞2回 1978年シャドウはチームの主力が離脱 新たにアロウズを立ち上げチーム内が混乱 ドライバーはC・レガッツォーニと H・J・シュトックのベテランコンビ 前半は前年A・ジョーンズが初優勝を もたらしたSHADOW DN8で戦い レガッツォーニはR2ブラジルGPで 予選15位→決勝5位入賞(モデル仕様) R4モナコGPより新車DN9を投入も デザイナーのトニー・サウスゲートが アロウズに移籍に伴い熟成進まず 予選落ちを4回(年間で5回)と不振 年間では5位2回 4ポイントで16位 DN9はアロウズA1とデザインが酷似 どちらもサウスゲートのデザイン SHADOW はデザインの盗用であると訴え 法廷闘争に持ちこみ勝訴したが チームの成績は上昇せず 2人のドライバ―ともシャドウを離脱し 翌1979年レガッツォーニはウイリアムズへ移籍 #F1-1978年
230116 C.REGAZZONI 1978 17FW12C
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1978 (29TH) PMA THEODORE WOLF FORD WR3 K.ROSBERG
初代フライング フィン ケケ・ロズベルグ F1デビュー 1978年K・ロズベルグのデビューイヤー セオドールとATSを渡り歩く1年 R3南アフリカGP セオドール(TR1)でデビュー R6スウェーデンGP ATS(HS1)に移籍 R11ドイツGP セオドールに戻り ウルフのマシンWR3 で参戦 (モデル台紙のWR1表記は間違い) このドイツの決勝10位がシーズンベスト R15アメリカEGP 再びATSに戻り ATS(D1)のマシンで終盤2戦を参戦した セオドール9戦 予選落1回 予備予選落4回 予選最高 19位 決勝最高 10位 ATS 5戦すべてで決勝進出 予選最高 15位 決勝最高 15位 デビューイヤーはマシンにも恵まれず 翌1979年はレギュラーシートを失い ウルフ(本体)から途中参戦 #1978年
230112 K.ROSBERG 32 1/43FW12C
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1987 (29TH) SPARK BRABHAM BT56 S.MODENA
寡黙なイタリアン ステファノ・モデナ F1デビュー BRABHAM BMW BT56 1987年国際F3000チャンピオン 同年F1最終戦R16オーストラリアGP ウイリアムズのN・マンセルの欠場に伴い 次年度ウイリアムズシートが確定の R・パトレーゼがブラバムから移籍 空いたブラバムのシートにモデナが起用された チームメイトはアンドレア・デ・チェザリス 予選は15位で通過も決勝は疲労でリタイア 急遽の参戦でマシンになれず 自らリタイアを申し出た このGPをもってブラバムは1年間チームを休業 モデナは翌1988年はユーロブルンで参戦 1989年は再びカムバックしたブラバムへ復帰 #F1-1987年
221111 S.MODENA 7 1/43FW12C
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1963 12TH SPARK (ECURIE MAARSBERGEN) PORSCHE 718 G.MITTER
ゲルハルト・ミッター ドイツ出身 唯一の入賞 PORSCHE 718 G・ミッターはF1の下位のカテゴリーの フォーミュラ ジュニアで通算40勝を記録 これはドイツ出身ドライバ―の最多記録 1963年にF1に参戦 オランダ出身の C・G・ド・ボーフォーのプライベーター エキュリー・マールスベルゲンで ポルシェのマシンPORSCHE 718で出場 ド・ボーフォーはポルシェ愛好家で カラーはオランダのナショナルカラーである オレンジ色をカスタマーポルシェに施した G・ミッターはスポット参戦2戦目の 地元R6ドイツGP 予選15位→決勝4位入賞 自身のF1での唯一の入賞を果たす 1964・1965年は1戦限りで地元ドイツGPに ロータスで参戦 F1での出場は通算4戦のみ
221018 G.MITTER 26 1/43FW12C
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1967 19TH SPARK (GUY LIGIER) BRABHAM BT20 G.LIGIER
チーム リジェ設立 ギ・リジェ ドライバ―として唯一のポイント 1976年~1996年まで参戦するリジェの創設者 ギ・リジェはドライバーとして2年間参戦 1966年と1967年前半はクーパー 1967年後半はブラバムの車体を購入して プライベーターとして参戦 ブラバムBT20車体での2戦目となる R7ドイツGP 予選17位→決勝6位入賞 これはギ・リジェの生涯唯一の入賞 この1967年R7ドイツGPのリザルト 優勝 ブラバム D・ハルム (ニュージーランド) 2位 ブラバム J・ブラバム (オーストラリア) 3位 フェラーリ C・エイモン (ニュージーランド) オセアニア出身者が表彰台を 独占した史上唯一のGP またイギリス出身ドライバーが 表彰台なしも5年ぶりの出来事 そしてF1史上初めてカラーTVで 放映されたGPでもあります #LIGIER #F1-1967年
221011 G.LIGIER 1967 15FW12C
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1997 (25TH) ONYX MINARDI HART M197 U.KATAYAMA
1997年日本GP 鈴鹿で引退発表 右京ラストシーズンMINARDI HART M197 片山右京は4年間所属したティレルを離れ MILD SEVENとともにミナルディに移籍 TMはルーキーのヤルノ・トゥルーリ トゥルーリ移籍後はタルソ・マルケス 開幕戦オーストラリア予選15位 決勝はモナコ・ハンガリーの10位が最高 TMのヤルノ・トゥルーリとは良好な関係で 右京の経験をつぎ込み若手育成に努めた 翌シーズンの残留の要請もあったが 後進にF1シートを譲りたいとの理由で 日本GP 鈴鹿のフリー走行後に引退を発表した こちらのモデルは大阪時代に 日本橋にあったNinomiyaで購入 Joshinのような電気屋で模型も扱いしてた記憶? 右京のF1通算出走回数は95戦 これは現在でも日本人歴代最多記録 🏁片山 右京 (日本) 決勝出走回数 95回 予選最高位 5位(2回) 1994年 ティレル R9ドイツ 1994年 ティレル R10ハンガリー 決勝最高位 5位(2回) 1994年 ティレル R1ブラジル 1994年 ティレル R3サンマリノ #F1-1997年
221008 U.KATAYAMA 20 1/43FW12C
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1981 16TH SPARK ENSIGN 180B M.SURER
マルク・スレール キャリアベスト チーム唯一のFL記録 ENSIGN 180B スイス出身のマルク・スレール 1981年はデビュー時と同じエンサインに復帰 R2ブラジルGPで予選18位から 決勝4位入賞とファステストラップを記録 これはスレールキャリア唯一のFLであり チームエンサインにとっても最初で最後の記録 モデル仕様のR6モナコGPでも 予選19位→決勝6位入賞 昨年の改良型N180Bは予選の速さはないものの 決勝では信頼性を生かし2度の入賞 スレールはモナコGPでエンサインを離れ セオドールに移籍 エンサインは チリのドライバ― E・サラザールを起用 スレールのスペルはSURER 日本語表記は スレール/シュラー/シュアー/ズレール/ズラー など様々ありショップでも統一されておらず ややこしいドライバ―名称 マニアックモデルをリリースする RACELAND別注モデル #F1-1981年
M.SURER 1回 300 14FW12C
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1995 (28TH) PMA SAUBER FORD C14 K.WENDLINGER
1990年代メルセデス三羽烏の一人 カール・ベンドリンガー最後のマシン 1994年のモナコでの意識不明の事故から 復帰したベンドリンガーであったが 1995年は速さが見られなくなり チームメイトの H・H・フレンツェンに遅れを取り 開幕4戦までで完走1回の13位 ついには前年度事故のR5モナコで J・C・ブイヨンにシートを奪われた その後テストドライバーとして復調し 終盤2戦で復帰するもR16鈴鹿 決勝10位 最終戦のオーストラリアでは 体調不良によりリタイヤ このレースでF1のキャリアを終えた 生涯成績で最高は4位が3回 期待されながらも表彰台無し 事故が悔やまれるドライバ―であった 🏁カール・ベンドリンガー(オーストリア) 【決勝出走数】41回 (入賞7回) 【予選最高位】5位(2回) 1993年 SAUBER R3ヨーロッパ 1993年 SAUBER R4サンマリノ 【決勝最高位】4位(3回) 1993年 MARCH R7カナダ 1993年 SAUBER R12イタリア 1994年 SAUBER R3サンマリノ
K.WENDLINGER 1995 29 1/43FW12C