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2016 18TH PMA RENAULT R.S.16 JOL.PALMER
F1 歴代15組目 親子ドライバー JOL・パーマー RENAULT R.S.16 ジョリオン・パーマー イギリス出身 父は医師免許を持ちフライング・ドクター とも呼ばれ1980年代にザグスピードや ティレルで活躍したジョナサン・パーマー F1歴代15組目の親子ドライバー 2014年GP2チャンピオン(4勝) 同年フォースインディアでテスト参加 2015年ロータス・ルノー テストドライバー 2016年チーム名がロータス→ルノーとなり レギュラードライバーに昇格 チームメイトはこちらも親子ドライバー 歴代13組目のケビン・マグヌッセン 開幕戦でシーズンベストの予選14位 後半戦ケビンに予選で勝ることも多かったが チーム買収の遅れにより マシン開発が進まなかった事もあり 決勝はR16マレーシアGPでの 予選19位→決勝10位入賞は1回のみ 翌2017年はケビンがHAASに移籍 ジョリオンはルノー残留となった モデルはミニチャンプス GP表記のないRACE CAR仕様 当時ルノーと提携があり 日産が1989年から日本国外で展開する ブランド インフィニティ (INFINITI)の ロゴが エンジンカバーに貼られている ⬇️父ジョナサン・パーマー https://muuseo.com/FW12C/items/84 https://muuseo.com/FW12C/items/424 https://muuseo.com/FW12C/items/301
240223 JOL.PALMER 2016 30FW12C
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1978 (28TH) TSM BRABHAM BT46 N.PIQUET
ネルソン・ピケ ブラバムでの初戦 BRABHAM ALFA‐ROMEO BT46 1978年 エンサインでF1デビューした ブラジル出身 ネルソン・ピケ その後プライベーターで3戦出場 マクラーレンM23のマシンを使用 最終戦R15カナダGP 次年度ニキ・ラウダのNo.2として レギュラー参戦の決まっていた ブラバムの3RDカーとして出場 後にブラバムで2度のチャンピオンとなる ピケの最初のブラバムのマシン 予選J・ワトソン4位 ラウダ7位 ピケ14位 決勝は2人がリタイアの中 ピケ11位完走 このカナダGP モントリオールサーキット 後のジル・ヴィルヌーヴ サーキットは ピケの相性が良く 1982/1984年はブラバム 1991年はベネトンで勝利を上げている モデルはTRUE SCALE MINIATURES MODEL 最終戦カナダGP仕様 予選14位→決勝11位 カーナンバー66のピケのブラバム初陣 白い台座にアルファロメオのロゴがあり 所持のモデルの中でこの台座は 個人TOP3に入る好きなデザイン ⬇️プライベーターで3戦出場 ⬇️マクラーレンM23のマシン https://muuseo.com/FW12C/items/1303?theme_id=41104
240222 N.PIQUET 1978 66FW12C
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1975 (23RD) SPARK LOTUS 72F J.WATSON
ロータス72シリーズ 最終盤72F ジョン・ワトソン LOTUS 72F 1975年ロータスは前年度投入の LOTUS76が失敗作に終わり信頼性の高い LOTUS72Eを再び主戦場に戻した シーズン終盤には最終盤の72Fを投入 Fタイヤのオーバーヒート改善の為 ホイールベースを5CM伸ばし フロントのトレッドを拡大 リアサスにはコイル・スプリングが採用 レギュラードライバ―であった ジャッキー・イクスの離脱後は 3名のドライバ―が起用され R11ドイツGPではサ―ティスが欠場した為 同チームのドライバ―J・ワトソンを起用 予選ではLOTUS72E型のR・ピータソン(18位)を 抑えてワトソンは14位を獲得 しかし決勝は両者とも1~2周目リタイアと 不振のシーズンを象徴するレースとなった ワトソンは翌戦はサ―ティスに戻り さらに最終戦はペンスキーで出場した モデルはスパーク ドイツGP仕様 予選14位→決勝リタイア このGPはタバコスポンサーの John Player Specialの文字は無く JPSロゴマークのみとなっている 1975年ワトソンの主戦 チームサーティス↓ https://muuseo.com/FW12C/items/1511?theme_id=32702
231102 J.WATSON 1975 6FW12C
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1967 21ST SPARK COOPER T81B J.ICKX
F1通算8勝 ジャッキー・イクス デビュー COOPER T81B ジャッキー・イクス ベルギー出身 父のジャック・イクスもレースドライバーで 後にモータージャーナリストとなった 1967年イクスは3勝でヨーロッパF2チャンピオン ペドロ・ロドリゲスのケガにより クーパーのワークスからF1参戦 エンジンはマセラティ 1967年~1979年まで13年間F1に参戦 初戦R9イタリアGP クーパーで旧マシンCOOPER T81B 予選15位から完走僅か7台の サバイバルを生き残り6位入賞 イクスの生涯入賞は40回(出走114回) R10アメリカGPではリタイアに終わったが 参戦初戦入賞が評価されてイクスは 翌1968年フェラーリのドライバ―に抜擢 モデルはSPARK イクスの初戦入賞したイタリアGP仕様 大きなカーナンバー32に クーパーの特徴でもある白い2本のライン この時はヘルメットは イクスの印象の強い黒ではなく青
230910 J.ICKX 1967 32FW12C
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1973 (24TH) SPARK SURTEES TS14 J.MASS
ヨッヘン・マス F1デビュー サ―ティスからスポット参戦 ヨッヘン・マス ドイツ出身 1972年ヨーロッパF2 2位(2勝) またツーリングカーレースを得意としており 1972年ヨーロッパツーリングカー選手権 においては5勝を挙げている ツーリングカーレースを継続しながら 1973年はサーティスよりスポット参戦 R9イギリス R11ドイツ R15アメリカに サードドライバ―として出場 決勝最高は R11ドイツで入賞目前の7位 予選ではレギユラードライバーの M・へイルウッド C・パーチェと 遜色ない結果を残し翌1974年の サ―ティスのレギュラーシート獲得 マシンはスポンサーのロゴが ほとんど無く真っ白なマシン この時のマスのヘルメットも白で こちらもロゴがほとんど付いていない
230717 J.MASS 1973 31FW12C
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1972 (30TH) CP MODEL EIFFELAND 21 R.STOMMELEN
流体力学的独創デザインマシン アイフェラント21 R・シュトルメン アイフェラント・ボーゲンバウは ドイツのキャンピングメーカー F2時代にロルフ・シュトルメをサポート 1972年にはF1にプライベートチームを設立 マーチ721の4号車を買取独自の施しを実施 スイス人デザイナーのルイジ・コラ―ニの 流体力学を重視した独走デザイン コクピット前方にエアインテークを設置 ドライバ―の目の前にバックミラーがあり 支柱も空気抵抗を配慮した断面形状 ドライバ―頭部の後方も流線形のような 気流を乱さぬようなデザインであった シュトルメンの予選最高は14位 決勝最高は10位が2回とポイント獲得は 無かったものの完走は8戦中6回 R4モナコGPでは元々の車体のマーチ721で 出場した他の5台よりも先着の決勝10位 モデルのCar No6はR5ベルギーGP仕様 予選20位→決勝11位完走 しかし資金が底をつきR9オーストリアで アイフェラントはF1から撤退した F1デザインの独創的な名車(迷車)特集では よく登場する唯一無二のアイフェラント21 CP MODEL (国際貿易)が量販モデル化
230503 R.STOMMELEN 6 1/43FW12C
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1965 14TH IXO (NORTH AMERICAN RACING TEAM) FERRARI 512 P.RODRIGUEZ
メキシコ兄弟ドライバ― ロドリゲス 兄 ペドロ FERRARI 512 ペドロ・ロドリゲス メキシコ出身 弟のリカルド・ロドリゲスもF1ドライバ― 当時史上最年少で1961年にデビューも 1962年の非選手権で残念ながら事故死 1963年ペドロはロータスでデビュー 北米 アメリカ・メキシコにスポット参戦 1965年はNORTH AMERICAN RACING TEAM 通称チームNART フェラーリ512のマシン R9アメリカ予選15位→決勝5位入賞 R10メキシコ予選14位→決勝7位 この後1967年にクーパーで本格参戦 クーパー初戦の開幕戦の南アフリカで優勝 メキシコ人ドライバ―初優勝であり 現在でもメキシコ人のウィナーは セルジオ・ペレス(レッドブル)と2人のみ 1968年ル・マン24時間の覇者でもある #F1-1965年
230403 P.RODRIGUEZ フェラーリF1コレクション 14FW12C
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1973 (35TH) SPARK (PIERRE ROBERT) MARCH 731 R.WISELL
レイネ・ウィセル プライベーターで スポット参戦 MARCH 731 レイネ・ウィセル スウェーデン出身 1970年事故死したヨッヘン・リントの後 ロータスで参戦 初戦で3位表彰台獲得 1973年はプライベーターで2戦のみ 車体はマーチ731 エンジンはフォードV8 地元R7スウェーデンGP ピエール・ロベルトのチーム キレイなイエローのマシン 予選はSTPマーチワークスの ジャン・ピエール・ジャリエを破り14位 しかし決勝はサスペンショントラブルで 1周もできずにリタイア 台座のNQ(予選落)は間違いと思われる このスウェーデンGPは初開催 ポール・ポジションスタートの 地元ロニー・ピーターソン(ロータス)が トップ快走も残り3周でタイヤトラブル デニス・ハルム(マクラーレン)が逆転優勝 ピータソンは惜しくも4秒差の2位 冠GPスポンサーで日本の日立が付いていた 1973年マーチの車体は1GP最大で4人 延べ7人のドライバ―が使用したが ポイント獲得はヘスケスのJ・ハントのみ #F1-1973年
230222 R.WISELL 1973 27FW12C
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1978 (28TH) PMA B&S FABRICATIONS McLAREN FORD M23 N.PIQUET
ネルソン・ピケ デビューイヤー 1978年プライベーター McLAREN FORD M23 3度のワールドチャンピオン ネルソン・ピケ デビューイヤーの1978年は3チームに所属 R11ドイツGPはエンサインでデビュー R12オーストリアGPからはプライベーター B&S FABRICATIONSで型落ちの マクラーレン フォードM23で3戦出場 マールボロではなくチェスターフィールドの タバコスポンサー仕様 完走はR14イタリアGPのみで9位 1973年に導入されたマクラーレンM23 6年間使用された名車の最後は ネルソン・ピケのドライビングであった 最終戦はブラバムのサードカーで出場 翌1979年はブラバムのレギュラードライバ―
N.PIQUET 1.872 29 1/43FW12C
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1970 21ST QUARTZO MARCH 701 J.SERVOZ-GAVIN
ジョニー・セルボ=ギャバン フランス F1最後の入賞 MARCH 701 1966年フランスF3チャンピオン 1967年F1 マトラよりデビュー 1968年ティレル(マトラMS10) 2位表彰台 1969年ティレル(マトラMS84) 6位入賞 四輪駆動のF1カー唯一のポイント 1970年はティレル MARCH 701で参戦 チームメイトはジャッキー・シュチュワート R2 スペインGPで予選14位→決勝5位入賞 しかしこの後シーズンオフの オフロードカーのイベントで 負傷した目の症状が悪化 R3モナコで予選落ちしてそのままF1引退した #F1-1970年 🏁ジョニー・セルボ=ギャバン (フランス) 【決勝出走回数】11回 (入賞3回) 【予選最高位】 2位 1968年 ティレル R3 モナコ 【決勝最高位】 2位 1968年 ティレル R9 イタリア
221203 J.SERVOZ-GAVIN 16 1/43FW12C
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1997 (22ND) PMA TYRRELL FORD 025 J.VERSTAPPEN
Xウイング装備 TYRRELL FORD 025 ヨス・フェルスタッペン 1997年R3アルゼンチンGP ティレルは マイク ガスコインが発案した小型ウイングを サイドポンツーン上の垂直支持板に取付け SF映画〖スター・ウォーズ〗に登場する 戦闘機になぞらえてXウイングと呼ばれた 低速でダウンフォース必要なGPのみ装備 まさかの翌1998年のトレンドとなった ヨス・フェルスタッペンはアロウズより移籍 ティレルはワークスエンジンを失い フォードV8使用でTMミカ・サロと共に苦しみ 予選はカナダの14位 決勝もモナコの8位が 最高でシングルフィニッシュはこの1回限り フェルスタッペンは1年でティレルを離脱 翌年シートを失うも途中スチュワートに加入 画像①PMA SAN MARINO GP仕様(X WING) 画像②PMA 通常版 画像③ONYX SAN MARINO GP仕様(X WING) 画像④ONYX CANADA GP 仕様 #F1-1997年 #F1 #Xウイング
221115 J.VERSTAPPEN 18 1/43FW12C
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1981 (22ND) SPARK OSELLA FA1B J.P.JARIER
オッゼラチーム参戦2年目2台体制 ベテラン ジャン・ピエール・ジャリエ起用 1981年オッゼラは2シーズン目2台体制に変更 1台はB・ガビアーニがフル参戦 もう1台はM・A・グエラ➡P・ギンザーニ➡ G・フランチャ➡J・P・ジャリエの4人の起用 ジャリエは1971年より参戦でこの年で 10シーズン目(1972年は未参戦) ジャリエは2戦目までリジェで参戦 R9イギリスGPよりオッゼラで起用され (モデルはR9イギリスGP仕様) R9・続くR10ドイツを8位で完走 これがオッゼラでのベストリザルト TMのガビアーニが全戦予選落ちの中 7戦中4戦完走で翌1982年もオッゼラ残留 年間ではリジェ時代の7位が決勝最高位 オッゼラFA1Bは前年度の後半から使用され 先代FA1よりダウンフォース改善と軽量化実施 エンジンはコスワースDFV タイヤはミシュラン ギヤはヒューランド スイスの香水関連DENIMのロゴが目を引く1台 #F1-1981年
J.P.JARIER 1981 32 1/43FW12C
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1996 (24TH) ONYX MINARDI FORD M195B T.MARQUES
タルソ・マルケス ブラジル出身 ミナルディよりF1デビュー 1996年資金難のミナルディは南米ラウンドに ブラジル出身のT・マルケスを起用 マルケスのデビューは20歳40日で 当時としては歴代5番目の若さ R2ブラジルGP ピットレーンの信号無視で予選結果は抹消 決勝は1周目にスピンしてリタイア R3アルゼンチンGP 予選はこの年のミナルディのベストの14位 決勝はM・ブランドル(ジョーダン)に 2度も追突して34周目にリタイア 若さが出た結果となりこの2戦のみの出場 マルケスは翌1997年後半と2001年前半戦に 再びミナルディで参戦します 1996年はドライバ―が3人以上のチームは ミナルディのみで T・マルケスの他は P・ラミー G・フィジケラ G・ラバッジの4人 G・ラバッジのみが量販モデルの発売が無いが この年のミナルディの成績(ノーポイント)を 考えると残念ながら今後も発売の期待は薄い #F1-1996年
T.MARQUES 21 1/43 MINARDIFW12C
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1994 (30TH) SPARK LOTUS 109 A.ZANARDI
名門チームロータス最後のマシン LOTUS 109 アレッサンドロ・ザナルディ 1994年A・ザナルディはロータスの テストドライバーでスタート 前年の1993年はケガの為P・ラミーに シートを奪われたが1994年は逆に ラミーのケガによりR5スペインGPより参戦 旧型の107Cで2戦を走り R7フランスGPよりLOTUS 109で走行も 旧マシン107CのR5スペインの決勝9位が最高 シーズン途中2戦はP・アダムスにシートを譲り J・ハーバートが移籍した為が同一チームながら R14ヨーロッパGPからはカーナンバーが 11→12に変更になる珍しいパターン R15日本GPではスポンサーの塩野義製薬の 商品名『新ポポンS』が貼られたマシンで走行 TMのM・サロは『セデス・ハイ』 そのサロとともにR16オーストラリアGPが 結果的に名門ロータスの最後のGP 通算決勝1223回目出走となった ザナルディはF1を離れCART(インディ)に挑戦 1997年・1998年にチャンピオンとなり 1999年ウイリアムズでF1に復帰します #F1-1994年 #1994 LOTUS 109 M・サロ『セデス・ハイ』仕様↓ https://muuseo.com/FW12C/items/260?theme_id=33228
A.ZANARDI 11 1/43 LOTUSFW12C
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1976 15TH SPARK SURTEES TS19 A.JONES
アラン・ジョーンズF1 2年目 サーティス F1世界選手権イン・ジャパン4位入賞 1976年A・ジョーンズはサーティスの レギュラーシートを獲得 ニューマシンのSURTEES TS19の投入が遅れ ジョーンズの参戦はR3南アフリカGPより 予選は中段下位の15位~20位前後も 決勝はジョーンズの粘りの走りで完走率71% R5ベルギーGP 予選16位→決勝5位 R9イギリスGP 予選19位→決勝5位 最終戦のR16富士SWでも予選20位ながら 雨の中順位を上げてこの時TMの高原敬武が 摩耗したタイヤ交換の為順位を下げると チームがタイヤをいたわるよう指示を出し 結果シーズンベストの4位入賞を果たす ◆R16日本(富士SW)予選20位→決勝4位◆ ジョーンズのマシンのスポンサーは コンドームの世界シェアの約25%を占める イギリスのdurex(デュレックス)社 R16富士SWでは後にF1にも参戦する THEODORE(セオドール) RACINGが スポットスポンサーで付き フロントウイングには香港名の 〖徳利賽車隊〗と大きく貼られている モデルもR16富士SW仕様で 背面台紙がTHEODORE RACINGの 特別ロゴ仕様バージョンとなっている #F1-1976年 #徳利賽車隊 #F1
A.JONES 1976 19 1/43FW12C