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Frank Lloyd Wright 帝国ホテル本館
Frank Lloyd Wright(1867〜1959) アメリカ・ウィスコンシン州出身の建築家。 ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエとともに近代建築の三大巨匠。 ライトのはじめての海外旅行先は日本であり、日本文化から影響を受けたことで知られる。浮世絵のコレクター・バイヤーでもあった。 帝国ホテル初の日本人支配人・林愛作の依頼で、2代目本館の設計を手掛けることになる。 林との出合いはニューヨークで、日本美術を通してであった。 親日家であり、東洋思想に深い理解があったF・L・ライトが、日本で初めて手掛けた建築が帝国ホテル。 ライトが帝国ホテルの設計モチーフとしたのが宇治平等院鳳凰堂と云われている。 地を這うような水平性、西洋建築では珍しい深い軒、左右対称の全体像がそれを物語っている。 1913年 ライト46歳、以後たびたび来日し設計を進めたが、大幅な予算オーバーと工期の遅れに起因する経営陣との衝突から、完成を見ることなく離日を余儀なくされる。 ホテルの建設は弟子の遠藤 新に引き継がれ、10年後の1923年に4年もの工事期間を経て竣工。 披露宴が開かれる大正12年9月1日、関東大震災が東京を襲ったのは、まさに宴の準備まっ最中だった。 周辺の多くの建物が、倒壊や火災など甚大な被害に見舞われる中、 鷲が両翼を広げたような佇まいの帝国ホテルはほとんど無傷のまま、変わらぬ雄姿を見せていたという。 ライトが帝国ホテルの設計にあたり、耐震性や防火性に配慮したのは言うまでもないが、帝国ホテルが関東大震災を耐え抜いたという事実はその後長らく耐震神話のごとく残り、ライトの名声を高める要因となった。 周囲の反対を押し切って設けたファサードの池が、防火水槽となり火災の延焼を最小限でとどめたとも言う。 しかし、旧帝国ホテルライト館は開業から40年余という短さで、 老朽化と地盤沈下、客室の少なさを理由に1968年、反対運動もむなしく取り壊されてしまった。 もし今も残っていたら、世界の名建築の一つとなり、タイのマンダリン・オリエンタルや、香港のペニンシュラを凌ぐ東洋一の名クラッシックホテルとして君臨していたのではないのでしょうか。 旧帝国ホテルライト館の一部は、明治村へ移築再建され、今日でも往時の面影を偲ぶことが出来る。 ライトは91年の生涯で400余の作品を手掛けているが、その殆どは母国アメリカに残されている。 米国以外で残るライト建築は、第2の故郷と言われた日本に僅か4作品が現存するばかりだ。
世界を結ぶ建築「帝国ホテル ライト館」 Frank Lloyd Wright0318
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THE CUBIST REVOLUTION キュビズム展 美の革命 パリ ポンピドゥーセンター
20世紀初頭、パブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックという2人の芸術家によって生み出されたキュビスムは、西洋美術の歴史にかってない変革をもたらした。 その名称は、1908年にブラックの風景画が「キューブ(立方体)」と評されたことに由来する。 ルネッサンス以降の西洋絵画の伝統的な遠近法や陰影法による空間表現から脱却し、 幾何学的に平面化された形を用いて画面を構成する試みは、 絵画を現実の再現とみなすルネッサンス以来の常識から画家たちを解放した。 キュビズムが開いた新しい表現の可能性は、パリの若い芸術家たちに衝撃を与え、瞬く間世界中に広がる、 以後の芸術の多様な展開に決定的な影響を及ぼした。 1900年代中葉 写真機が発明されたことで、それまで芸術家が追い求めていた「リアリズム」では敵わない。絵画にしかできない表現を追い求めることになる。 本展では、アフリカの彫刻などキュビズムの多様な源泉探る「キュビズムの源泉」章が興味深い。 ピカソとブラックがそれらを大胆に解釈しながら、緊密な連携作業によって、全く新しい絵画を発明していく過程が示されていく。 2024年パリオリンピックに合わせ、 ポンピドゥーセンターの大規模改修工事が行われ、 収蔵品が国立西洋美術館へ巡回されました 「THE CUBIST REVOLUTION キュビズム展 美の革命」です。
THE CUBIST REVOLUTION キュビズム展 美の革命 CUBIST 国立西洋美術館0318
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ジョン・エヴァーレット・ミレイ John Everett Millais(1829~1896)
1829年 イングランド南部のサザンプトン生まれ。 同時代の思想家・美術批評家;ジョン・ラスキンの「芸術は自然に忠実でなければならない」という思想を創作モットーとし、1848年、ハントやロセッティと共に「ラファエル前派」を結成する。 「ラファエル前派」とは保守的なアカデミーを基盤とするラファエロ (ルネサンス期の画家)以前の素朴なイタリア絵画の理想に戻ろうとする一派です。 1862年のロイヤル・アカデミーに出品された『オフィーリア』は非常に高い評価を得る。 ヴィクトリア朝の最高作と名高いこの作品は、シェイクスピアの『ハムレット』のヒロイン、オフィーリアを題材にしたもので、川の流れに仰向けに浮かぶ少女のモデルは、後にロセッティの妻となるエリザベス・シダルである。 肖像画を描くなど、ヴィクトリア女王の寵愛も受けている。 この『オフィーリア』は,2008年8月 Bunkamura ザ・ミュージアムの「ミレイ展」、 2014年1月 森アーツセンターで開催された「ラファエロ前派展」と、2度来日しています。 それぞれ、往時のパンフレットを掲載しました。 5枚目の画像は長女をモデルに描いた「初めての説教」と「2回目の説教」 生まれて初めて教会で受けた神父の説教に緊張している表情がよく描かれている、 一方、右の「2回目・・・」はその緊張がほどけた姿が、これも見事に描かれている。 高い評価を得た。 最後の2点の画像「狼の巣穴」と「あひるの子」は、当美術館所蔵品(松方コレクション)で、今回出品されています。 1枚、ジョン・シンガー・サージェント「カーネイション、リリー、リリー・ローズ」が紛れ込んでいましたので、「ワーテルローの戦いに出征する兵士・惜別」と入れ替えました。 ジョン・シンガー・サージェントも魅力的な画家です、追って取り上げます。
ラファエロ前派 ジョン・エヴァーレット・ミレイ 国立西洋美術館「もう一つの19世紀」展0318
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倉俣史朗のデザイン 記憶の中の小宇宙 続き #2
1965年にクラマタデザイン事務所設立。 1967年頃から前衛美術家、高松次郎やグラフィックデザイナー横尾忠則とのコラボレーションした内装などで、倉俣は時代の寵児として注目を浴びはじめる。 1981年、エットレ・ソットサスの誘いで80年代前半を席巻する革命的デザイン運動「メンフィス」に参加。 氏は生涯に400ほどのインテリアを設計し、内約350を実現させた。 が、日本の社会構造や商習慣で次々に失われ現存するのはごく僅かだ。 商店建築誌上で、倉俣は語る。 施主が求める物理的な要求は十分に聞いて絶対に守るが、契約後は一切任せてもらわないと引受けない。 但し、プレゼンティションは丁寧に行い、自身の意図をクライアントに理解してもらう努力をする。 白紙委任状を渡した三宅一生をはじめとするクライアントたちの存在は大きい。 彼は、1976年に ISSEY MIYAKEのフラッグショップ「フロムファースト」以降、倉俣に100店舗以上のインテリアデザインを依頼した。 一方、店舗というクライアントワークではなく、依頼のない家具の自主制作をはじめる。 流通経済の制約を受けない自費での家具製作で自身の意図を確かめる決意があった。 (家具類は前段で掲載しました) 「エドワーズ本社ショールーム1969年 天井と床に電極を設け、蛍光管を垂直に設置、アクリルパイプのカバーで陳列棚をサポート。 「イッセイ・ミヤケ メン」渋谷西武 1987年 「ルッキーノ」1987年 竹山聖が設計した、OXY乃木坂の地下にあったバー 2.7mに及ぶカウンターの天板は、透明ガラス、ひび割れガラス、腐食ガラスの3層。 ある時 三保谷に倉俣が「ガラスが一番きれいなときはいつだ?」と聞かれ「割れる瞬間ですね」と答える、と倉俣は「そこで止めろ!」と叫んだ。割れガラス誕生のエピソード。 「コンプレ」1988年 静岡 バー´23年再オープン全体が柔らかな光に包まれた静かで詩的な空間 「オブローモフ」1989年 福岡ホテル・イルパラッオ内のバー 高い天井空間、ミスブランチと同様の手法でバラを封入した照明の列柱、カラフルな空間 「きよ友」1988年 新橋・鮨店 → 香港 ミュージアム Ⅿ+ 天然素材の御影石と杉材を基調に、障子のような光天井をアクセント、氏による日本の伝統的空間の再解釈。 「AXIS」 階段
インテリア・デザイン 倉俣 史朗 倉俣史朗のデザイン0318
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精巧に造りこまれた アレキサンドル・ファルギエール
Alexandre Falguière(アレキサンドル・ファルギエール 1831-1900)はフランスの彫刻家、画家。 フランス南西部の美しい都市、トゥールーズ生まれ。 パリに出て彫刻を学ぶ、 1859年に彫刻部門のローマ賞を受賞 1864年からサロン・ド・パリに出展を始め、 1868年に『タルキシウス、キリスト教殉教者』を出展、名誉メダルを受賞。 この作品は現在はオルセー美術館に収蔵されている。 1878年にレジオンドヌール勲章(オフィシエ)を受勲。 78年のパリ万国博覧会では、 有力な6人の彫刻家が選ばれ、 それぞれ六大陸を象徴する像を制作。 ファルギエールはアジアの像を制作。 六大陸の像は現在、オルセー美術館に収蔵されている。 画像の ディアナ(Diana)は、ブロンズ 79.cmh 矢を放ったばかりの弓 三日月の髪飾り 東京富士美術館に収蔵されています。 先日入手したブロンズ胸像のオリジナルです。 肩先に A Falguière のサインが刻み込まれている 精緻な造り込みと、100年余を経て鈍く輝く地肌 小振りながらも迫力と美しさを兼ね備えている。 アレキサンドル・ファルギエールの技量と表現力 時代の逸品です。
ブロンズ胸像 Alexandre Falguière Web auction0318
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松戸 古美術商 タカラヤ 中村 浩一さん 続き
郡山の タカラヤ/熊田さんの続きを記載しようと、 記録をチェックしていましたら、 画像のミニチュァのキャレッジクロックが出てきました。 同じタカラヤ・・・・ですが。 しかし、熊田さんのアイテムとは考えられません。 調べなおして、中村さんの名刺に辿りつきました。 アートディラー タカラヤ 中村浩一さん 2004年11月 東京フォーラム・アートフェァーで購めたものでした。 画像は、同種(6cmh)のミニチュァを並べてみました。 ムーブメントも同じで、一方には 2110 のシリアルナンバーが刻印されています。 コレクターにとって、収集品の整理・分類・記録が大切な勤めである事とは自認しています。
Miniature Carriage timepeace FRANCE 160000円0318
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「ギャラリー 3・3・8」 足立 豊比古 さん #4 pallweber watch
1998年の年末恒例の平和島骨董市で、 Junghans の小型のキャレッジクロックを、甲府の水島さんから(74Fに記載) 表記の、pallweber watch を足立さんから購入しました。 このポケットウォッチは「稼働しませんよ」と言われましたが、 デジタル表記のポケットウオッチは、国内ではなかなか入手することができません。 承知で購入しました。 「そのうち、どこかの誰かに修理を頼もう」と考えて・・・・ 10数年放置していましたが、そろそろ息を吹き返してやろうという気持ちで、 '19年3月、平和島骨董市に出ているA修理屋さんに頼みました。 「4~5万掛かるよ」を了承して、6ヶ月ぐらい経過・・・・ やはり平和島骨董市で、「どうでしたか?」と声を掛けました。 「何回も、何日も手をかけたのだが、とても手に負えない」と見るに堪えない姿(バラバラ)で返されたのでした。 「時計を壊すのは、時計屋だ」とはこの世界でよく言われる言葉で、改めて実感しました。 「やれやれ・・・」暫らく気持ちを落ち着けて、 名古屋の安藤さんを通して他のものと一緒に、修理を依頼。 数ヵ月後の2021年 4月に生還してきました。 金額はそのぐらいかかりましたが、丁番なども復元して、快調です。 入手したのが1998年、実に23年の長旅だったのでした。 (50Fと重複していますが、足立さんへのオマージュの意味で・・・)
pallweber watch I.W.C FRANCE 30.000円 + 修理代0318
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ウイーン工房 1903-1932
2011年10月 Panasonic 汐留ミュージアムで、「ウイーン工房 1903ー1932」 展が開催された ウィーン工房は、20世紀始め、建築家ヨーゼフ・ホフマンとデザイナー コロマン・モーザーによって設立された工房です。 ウィーン分離派に参加していたホフマンとモーザーが、 実業家フリッツ・ヴェルンドルファーの支援を受け、1903年に設立。 住宅、インテリア、家具をはじめ、宝飾品からドレス、日用品、本の装幀など、生活全般に関わる様々な分野のデザインを行った。 基本的な思想はウイリアム・モーリスの「アーツ&クラフト運動」に遡るが、 全て手作りによる良質でシンプルな家具を創造する、と〈ウイーン工房綱領〉に謳われています。 そして、クリムトはウイーン工房に深~く関わっている。 このウイーン工房には極めて多彩な才能が結集することになった。 多い時には30数名の芸術家と150人の職人を擁していた。 彼らは製品に両者そろって銘記していた。 仕事場の空間ばかりでなく、人間関係にも調和が求められていた。 30年近い活動の間、ヨーロッパ各地やニューヨークにも支店を置いたが、 第一次世界大戦や世界恐慌の影響もあり、苦しい経営が続いた。 1932年に出資者のオットー・プリマヴェージが破産し、ウィーン工房も解散した。
アーツ&クラフト運動 ウイーン工房 Panasonic 汐留ミュージアム0318
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Balthus (バルテュス)展 2014 東京都美術館
バルテュス(1908~2001) 美術史家であったポーランド人の父と画家の母のもと、1908年にパリで生まれた。 ルーブル美術館での模写を通して、絵画はほぼ独学だ。 ピカソをして「20世紀最後の巨匠」と言わしめたバルテュス。 (ピカソも1点所蔵していた) 表現主義やシュルレアリスムの全盛期であった当時だったが、 独特な具象絵画の世界を築き上げていった。 しっかりした構成と、綿密な描法で、 「この上なく完ぺきな美の象徴」である少女を、生涯にわたり書き続けた。 日本人の妻(節子-画家)そして、篠山紀信が写真集等で、国内でも著名だ。 2014年 4月 東京都美術館で、「バルテュス展」が開催された さて、作家の平野啓一郎は、 バルテュスのエロティックな少女絵画は、結局のところ退廃的である。「夢見るテレーズ」にせよ「美しい日々」にせよ、 本人がまだ知悉するに至っていない魅力を、 画家であり、大人であり、男である自分は知っているという眼差しの淫靡さは否定しようがない、 と評している バルテュスの少女をモデルにした衝撃的なその作品群には、賛否両論がある。 前段の金子國義がバルテュスをとても好きだったという事は有名な話で、 実際、金子の初期の作品には、彼の影響が色濃く出た作品が多く見られます。 画家の養子の金子 修さんの思い出話・・・ 「金子國義はものすごくバルテュスが好きでした。 来日した時にお会いしたそうなんですが、 その時に『僕も絵を描いています!』って言ったら、『 あ、 そ。』って言われて、その時から嫌いになっていました(笑)」・・・エピソードが紹介されていました。
「20世紀最後の巨匠」 バルテュス 東京都美術館0318
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読書灯
今日という1日の日記を綴る。 大変暑い1日でしたが、 この時間になると、涼やかな風が部屋を吹き抜けてゆきます。 こうして、1日1日が過ぎてゆく。 階段室の一番高い・手の届かない処に、置きっぱなしにしていたランプです。 よく見ると Seikosha のマークが入っている。 精工舎の製品として販売されたの否か・・・・もう少し調べます。 取り敢えず、きれいな画像が仕上がりましたのでUPしました。
読書灯 テーブルランタン 精工舎 50000円0318
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French Art Deco Mantel clock signed BENNET & POTTIER PARIS
1986年 6月 平和島A/Fで、からくり屋 松原 一雄さんから購めました。 BENNET & POTTIER(ボネ&ポティエ)工房の Mantel clock ムーブメインに刻印がある ボネとポティエによるオリジナルの家具や時計の多くは、 20世紀にフランスのアールデコ様式で作成されました。 サイズ 36㎝h×25㎝w×14㎝d 重さ:8kgと大変重い French Art Deco Mantel clock signed BENNET & POTTIER(ボネ&ポティエ)FINI PARIS からくり屋は、京都一乗寺にある。 頂いた名刺に、 四条河原町の「中山舶純堂」(86Fに記載)や「トヨタヤ」などの会話の記録がメモされています。
Art Deco Mantel clock BENNET & POTTIER PARIS 175,000円0318
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A/D/A/M/S 相原 努 追憶 #12
原宿・今のキャットストリートに、 1970年代、羽田 良美氏が主宰するデザインスタジオMACありました。 羽田さんは芸大を出て、店舗デザインの世界で活躍。 周辺には、氏を慕う若手デザイナーが多く集まっていました。 私は会社は違いましたが、羽田さんを師と仰ぎ周辺をうろうろしていました。 羽田さんはVMDを重視し、デコールMAC(ディスプレィデザイン部門)も運営していました。 このMACとの縁で、楠山、堀山 国夫(NOW)相原 努(ADAMS)中村より 疋田 和子 、諸デザイナーとのネットワークになり、今の私はこの延長線上にいる。 さて、1975年の札幌PARCO プロジェクトの関連で、 この若手のデザイナー達が、拠点を札幌に移すことになった。 表記の、相原 努(A/D/A/M/S) や 堀山 国夫(NOW)たちである。 この2人とは特に懇意で、ススキノの真っ赤なカウンターのバーなどでよく話し・よく飲み明かした。 相原は、札幌PARCO母体の富貴堂や BIGI 他に、パーソンズ など 最先端のD/CショップのJobで 国内を飛び回る暮らしをしていた。 子息はスーパーポテト杉本さんのもとで修行 ビンティジの Rolex・prince を愛用していた。 堀山 国夫(NOW)は アルファキュービックやrenoma のショップの他、 ファションビルの経営などの事業へ手を広げ活躍。 しかし その堀山は、40代で夭逝してしまった。 札幌PARCOが、45周年をきっかけに、現在大改修工事中とのこと・・・・ SEIBUから大丸(?)に代わってしまったことでもあるし
Store designer MAC0318
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「古時計」 塚田 泰三郎 本田 親蔵 共著
昭和45(1970)年 東峰書房 発行 定価 3,800円 「古時計」 長野県諏訪市在住の 本田 親蔵 さんのコレクションを、 塚田 泰三郎 さんが学術的に解説した画像入りの専門書。 当時、画像の入ったコレクションの専門図書は、 先述しました「がらくた美術」の他は、 雑誌「太陽」に時々取上げられるぐらいでした。 塚田 泰三郎氏は 明治30年 栃木県真岡氏生まれ. 師範を卒業 県下各小学校校長・教育委員を歴任 柳宗悦の民芸運動に参加 特に和時計に詳しい 本田 親蔵氏は 明治29年 鹿児島県生まれ 本田導入線製作所社長 1919(大正8)年頃から蒐集を始める 1974(昭和49)年 氏の生涯をかけたコレクションを松本市へ寄贈。 松本市時計博物館 の母体となる。 とにかく、ビジュアルの専門書に乏しい時代で、 駆け出しのコレクター見習には、 敷居は高かったのですが、 この「古時計」が、 緑川さんの「古時計百種百話」が出るまでは、唯一のバイブルでした。 昭和40年代後半でしょう どこかの百貨店での「古時計展」のおりに頂いた名刺が出てきました。
古時計コレクション 本田 親蔵 + 塚田 泰三郎 3,800円0318
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ガウディを測る 建築倉庫ミュージアム
誰しもが知る世界的建築家、アントニ・ガウディ(1852~1926) ガウディの作品は、模型とスケッチを中心に検討しながら現場の職人とともに作り上げられており、図面はほとんど残されていない。 40年に亘りバルセロナでガウディ作品を測り続けている、 「登れるところは登り、測れるところは測って、全て手書き」 実測家・田中裕也氏による実測図と考察をもとに、 ガウディの作品を解き明かします。 2019年 3月~6月 建築倉庫ミュージアムで開催された展示の一部を再現してみました。 グエル公園や邸宅カサ・パトリヨなど等、70点が展示されましたが、 何といっても、5mに及ぶ「サグラダ・ファミリ 誕生の門 断面・アイソメ図画」が圧巻でした。
「未完の聖堂」サグラダファミリア アントニ・ガウディ 建築倉庫ミュージアム0318
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ブルターニュの光と風 自然、風土、暮らし、祈り・・・・フランスの内なる「異世界」を発見する SOMPO 美術館
豊かな自然と独自の文化を持つことで知られるフランス北西部の地、ブルターニュ。 ブルターニュに魅せられた画家たちが描いた作品を通じ、 同地の歴史や風景、風俗を幅広く紹介する。 深緑の海や険しい断崖が連なる海岸線、 平原と深い森とが織りなす固有の景観、 またそこで暮らす人々のつつましい生活と敬虔な信仰心は、 19世紀初め以来、数多くの画家たちの関心を掻き立ててきた。 ブルターニュに関する作品を多数所蔵するカンベール美術館作品を中心に約70点の作品を通じ、 フランス「辺境の地」ブルターニュの魅力をご覧いただきます(パンフレットより) 「さらば!」 アルフレッド・ギュ 1892年 ここに描かれたような悲劇は、 ブルターニュの海を舞台にこれまで幾度も起きてきた出来事だという。 嵐に遭遇し、沖で転覆した船にしがみつく漁師の男は、 激しく襲いかかる波と格闘しながら、若き息子を抱きかかえている。 父の、逞しく日焼けした腕の中で、 今まさに息絶えた息子の体は、青白く脱力している。 父は、息子に最後の口づけをしようとしている。 この若き漁師の華奢な体つきはその痛ましさを強調している。 この絵の前に、暫らく佇み 動きだすことが出来ませんでした。
ブルターニュの光と風 Bretagne SOMPO 美術館0318