-
稲葉山城(岐阜城)
岐阜城(ぎふじょう)は、美濃国井之口の山(稲葉山(現・岐阜県岐阜市の金華山))にあった城(山城跡)。もとは稲葉山城と言い、鎌倉時代以来の歴史があり、本格的に整備されたのは戦国時代の斎藤道三の時期だと考えられ、織田信長が1567年の稲葉山城の戦いにより斎藤龍興から奪取し、本拠地を小牧山から当城へと移し、その縄張りを破却して新たに造営したものが岐阜城である。『信長公記』に「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記載されており、ここから天下布武、天下統一をおこなうという意味をこめて、信長が山頂にある城や麓にある町などを「井口」から「岐阜」へと改名したことにより「岐阜城」と呼ばれることになった。 1201年(建仁元年) - 二階堂行政が井口の山(金華山・稲葉山)に砦を築いたのが始まりとされる。続いて行政の娘婿・佐藤朝光、その子伊賀光宗、光宗の弟・稲葉光資(稲葉氏・美濃安藤氏)が砦主となり支配した為、金華山は稲葉山と呼ばれるようになるが、二階堂行藤の死後、廃城となる。 15世紀中頃 - 美濃守護代・斎藤利永が、この城を修復して居城とする。 1525年(大永5年) - 斎藤氏家臣の長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こして稲葉山城を攻撃。長井氏の支配下となる。 1533年(天文2年) - 新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(斎藤利政、後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となる。 1539年(天文8年) - 守護代になっていた斎藤利政が、稲葉山山頂に城作りを始める。 1541年(天文10年) - 利政が守護の土岐頼芸を追放。 1547年(天文16年) - 織田信秀、頼芸派の家臣と稲葉山城下まで攻め入るも大敗(加納口の戦い)。 1554年(天文23年) - 利政、城と家督を嫡子の斎藤義龍に譲り剃髪、道三と号する。 1556年(弘治2年)5月 - 義龍、長良川の戦いにより道三を討ち取る。 1561年(永禄4年)6月 - 義龍の急死により、斎藤龍興が13歳で家督を継ぎ、城主となる。 同年6月 - 十四条の戦いに勝利した織田信長が稲葉山城を攻めるも敗退。 1564年(永禄7年)3月 - 斎藤氏の家臣であった竹中重治と安藤守就が造反して挙兵。稲葉山城を攻める。龍興らは城を捨て鵜飼山城へ逃げ、竹中らが城を半年間占拠する。 1567年(永禄10年) - かねてから美濃攻略を狙っていた織田信長が西美濃三人衆の内応により稲葉山城下に進攻(稲葉山城の戦い)。龍興は城を捨てて長良川を舟で下り、伊勢長島へ逃亡した。 同年 - 信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、古代中国で周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで、城と町の名を「岐阜」と改めた。この頃から信長は「天下布武」の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになった。 1576年(天正4年) - 信長は嫡子織田信忠を岐阜城の城主とし、織田家の家督及び美濃、尾張の2ヶ国を譲る。岐阜城の整備改修は信忠によって更に追加された。 1582年(天正10年)6月21日 - 信忠が本能寺の変で倒れると、留守居であった斎藤利堯が岐阜城を掌握し、美濃瑞龍寺・崇福寺・千手堂・西入寺に禁制を掲げた。しかし、明智光秀が羽柴秀吉に敗れると7月9日頃、不破郡長松に出向き織田信孝らに服した。 同年7月16日 - 清洲会議により信孝が兄・信忠の遺領美濃国を拝領、岐阜城の城主及び、信忠の嫡子三法師の後見となる。 1583年1月13日 - 羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の嫡男・元助らの兵が岐阜城に迫ったため講和し、三法師を引き渡した。 同年(天正11年)6月6日 - 信孝は長島城主の滝川一益と呼応し再度挙兵。しかし美濃返し(賤ヶ岳の戦い)によって柴田勝家が敗れ、兄・信雄によって居城の岐阜城を包囲されると、これに降伏した。城からは逃亡が相次ぎ降伏時の人数は27人であったという。その後、信孝は切腹させられた。 同年5月 - 池田恒興が美濃国にて13万石を拝し大垣城主となると、池田元助が岐阜城主となる。 1584年(天正12年) 小牧・長久手の戦いで池田恒興と元助が討死。 1585年(天正13年)恒興の次男・池田輝政の居城となる。 1591年(天正19年) - 転封により、輝政に代わって豊臣秀勝が岐阜城の城主となる。 1592年(文禄元年) - 10月14日に豊臣秀勝が没すると、織田秀信(幼名・三法師)が美濃国岐阜13万石を領有し岐阜城の城主となる。 1600年(慶長5年) - 織田秀信は、石田三成の挙兵に呼応し西軍につく。関ヶ原の戦いの前哨戦で、岐阜城に立てこもるが、福島正則や池田輝政らに攻められて落城(岐阜城の戦い)。秀信は弟秀則と共に自刃しようとしたが、輝政の説得で降伏する(のち1605年(慶長10年)に死亡した)。 1601年(慶長6年) - 徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に10万石を与えて、加納城を築城させる。その際、岐阜城山頂にあった天守、櫓、山中、山麓の石垣などは加納城に、焼け残った御殿建築は大垣市赤坂のお茶屋敷に移されたという。岐阜城が山城であることに加えて、かつて信長が天下取りの意思を込めて命名した「岐阜」という地名を家康が忌み嫌った(徳川氏に代わる天下人の出現を髣髴させる)からだともいわれている。
平山城 300円 岐阜県(美濃国)入江 徹也
-
清洲城
応永12年(1405年)、尾張・遠江・越前守護の管領斯波義重によって築城。当初は、尾張守護所である下津城の別郭として建てられたが、文明8年(1476年)に守護代織田家の内紛により下津城が焼失し、文明10年(1478年)に守護所が清洲城に移転することで尾張国の中心地となった。一時期、「織田弾正忠家」の当主織田信秀が清須奉行として居城した以外は常に清洲織田氏(織田大和守家)の居城としてあり、尾張下四郡を支配する守護代織田家の本城として機能した。 織田信秀が古渡城に拠点を移すと守護代織田信友が入城したが、弘治元年(1555年)織田信長と結んだ織田信光によって信友が殺害され、以降信長が那古野城から移って大改修を加えた後、本拠として居城した。信長は、この城から桶狭間の戦いに出陣するなど、約10年間清須を居城とした。1562年(永禄5年)には信長と徳川家康との間で同盟がこの城で結ばれた(清洲同盟)。永禄6年(1563年)には美濃国斎藤氏との戦に備えて小牧山城に移り、以後は番城となった。 天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が斃れると、清洲城にて清洲会議が行われ、城は次男・織田信雄が相続した。天正14年(1586年)に信雄によって2重の堀の普請、大天守・小天守・書院などの造営が行われている。小田原征伐後の豊臣秀吉の国替え命令に信雄が逆らって除封され、豊臣秀次の所領に組み込まれた後、文禄4年(1595年)には福島正則の居城となった。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの折りには、東軍の後方拠点として利用され、戦後は安芸に転封した福島正則に代わり徳川家康の四男・松平忠吉が入るが、忠吉が関ヶ原の戦傷がもとで病死すると慶長12年(1607年)には家康の九男徳川義直が入城し、清洲藩の本拠となった。
平城 300円 愛知県(尾張国)入江 徹也
-
犬山城
尾張国と美濃国の境にあり、木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれた平山城である。別名の白帝城は木曽川沿いの丘上にある城の佇まいを長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなんで荻生徂徠が命名したと伝えられる。 前身となる岩倉織田氏の砦を織田信長の叔父・織田信康が改修して築いた城であり、その後、池田恒興や織田勝長が入城、豊臣政権の時に石川貞清(光吉)が改修し現在のような形となった。また、小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いにおける西軍の重要拠点となった。
300円 愛知県(尾張国) 2021年5月入江 徹也
-
小牧山城
小牧山城は織田信長が美濃攻めの拠点として築いた城で、永禄3年5月19日(1560年6月12日)の桶狭間の戦いに勝利した後、念願の美濃国併呑を実現すべく、早くもその3ヶ月後から美濃攻めを開始した。永禄5年1月15日(1562年2月18日)には徳川家康と清須城においていわゆる清洲同盟を結び、尾張国東側の脅威が消滅した。これによって、信長は全力で美濃国を攻める体制を整えるために、美濃国に近い尾張国北方へ本拠地を前進する策が実施可能となった。この新しい本拠地に選ばれたのが、広大な濃尾平野の中に孤峰を保つ小牧山であった。丹羽長秀を奉行として小牧山山頂に城を築き、永禄6年(1563年)7月には主要兵力を小牧山の城に移した。『定光寺年代記』に拠れば城は信長により「火車輪城」と名付けられた。 移転後、織田軍は小牧山城を本拠地として美濃への侵攻と調略を繰り返し、永禄10年8月15日(1567年9月17日)、美濃斎藤氏の本拠地であった稲葉山城は落城。信長は稲葉山城に拠点を移し城下町の機能を全て移転させたため、小牧山城は約4年間で廃城となった。 天正12年(1584年)、羽柴秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いでは、家康がいち早く小牧山に目を付けて本陣を置き、遅れてきた秀吉を悔しがらせたといわれる。この時、信長の築いた城跡の土塁、空堀などに大規模な改修が施され、「城」とみなせるほど強固な陣地が築かれた。秀吉の大軍も容易に手が出せず、焦った池田恒興や森長可が三河への無謀な長駆攻撃を敢行し、長久手方面へ突出して壊滅する事態となった。急造「小牧山城」は、徳川勝利の一翼を担ったことになる。この一戦は、頼山陽により「家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ケ原にあり。関ケ原にあらずして小牧にあり」と称揚された(『日本外史』)。 その後、家康「御勝利御開運の御陣跡」となり、一般の入山は禁止された。山と城跡は、江戸時代を通じて尾張徳川家の領地として保護を受け、管理された。
平山城 300円 愛知県(尾張国)入江 徹也
-
大草城
天正2年(1574年)、この地を有していた佐治信方が長島一向一揆で戦死し、跡継ぎの佐治一成が幼少だったためか、織田信長の弟織田長益(有楽斎)が知多郡を与えられ、大野城を与えた。大野城は水利が悪いため大草の地に築城を開始したが、本能寺の変の影響で再び荒廃してしまったとも言われる[要出典]。 小牧・長久手の戦い後、長益が摂津国に移封されたため完成を待たずして廃城となった。
平城 300円 愛知県(尾張国)入江 徹也
-
大野城
1584年、蟹江城の支城の一つとして、織田信雄の家臣、佐久間信栄(正勝)によって築城される。 天正12年(1584年)4月、小牧・長久手の戦いでは、徳川家康側の城となる。同年6月、羽柴秀吉は長期化する戦いを決するため、滝川一益、九鬼嘉隆率いる安宅船を動員した水軍で威圧しつつ調略で前田長定(種定)[1]が守る蟹江城を攻略し、長定の弟・前田長俊(利定)の守る下市場城、長男・前田長種の守る前田城をも調略した。しかし、佐久間信栄の家臣で大野城を守っていた山口重政は母親を人質に取られたが調略に応じなかったため、滝川らは大野城を攻めた。山口重政は城を守ったが落城寸前まで追い詰められた。急を知った徳川家康・信雄らが軍を率いて大野城付近に急行したため、攻め手は包囲を解いて引き上げ、大野城は落城を免れた。滝川らは蟹江城に、九鬼勢は下市場城に籠ったが、家康と信雄の軍はこれらの城および蟹江城を次々と攻略していった。この間、大野城に家康の本陣が置かた。 この戦い(蟹江城合戦)が小牧・長久手の戦いの趨勢に決着をつけ、和議への流れが形成されたといわれている。 廃城時期は不明だが、天正13年11月(1586年1月)の天正大地震で大きな損害を被っている事から、そのまま廃城にされた可能性が高い。
平城 300円 愛知県(尾張国)入江 徹也
-
岩崎城
岩崎城(いわさきじょう)は、尾張国山田郡(のち愛知郡)岩崎(現在の愛知県日進市岩崎町)に存在した戦国時代の日本の城(平山城)である。室町時代末期(15世紀末から16世紀前葉ころ)に築城され慶長5年(1600年)に廃城となった。もっとも古い記録によると尾張国勝幡城(現・愛知県愛西市)主・織田信秀(織田信長の父)の支城だった。 享禄2年(1529年)、三河国岡崎城主・松平清康(徳川家康の祖父)が、織田信秀の属将・荒川頼宗の守備する岩崎城を尾張国攻略の足がかりとして兵7000を率い攻め落とした。しかし天文4年(1535年)「森山崩れ」により清康が死去すると松平氏の勢力は岩崎城から後退し、松平氏の案内人として行動していた本郷城(現在の日進市本郷町)主・丹羽氏清が移り住み、4代続けて岩崎城主として戦国時代を生き抜くこととなる。 天正12年(1584年)に起きた岩崎城の戦いとは、小牧・長久手の戦いのうち長久手の戦いの緒戦となった戦いである。両軍の膠着状態を打ち破るため、秀吉方によって実行された「三河中入(なかいり)」作戦を阻止し、池田軍の進軍を止めたという点で大きな功績を残した戦いであった。この時の当主・丹羽氏次はこの戦いで弟の氏重を失ったが、家康からの信頼を得てその後の戦いにも多くの功績を挙げることとなる。 長久手の戦いの後、落城した岩崎城が再建されたかは確かではないが、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで丹羽氏次は徳川方として参戦、その功績を認められ三河国伊保(現在の愛知県豊田市)1万石の大名として栄転し、岩崎城はここで廃城となる。
平山城 300円 愛知県入江 徹也
-
大高城
築城年代ははっきりしないが、土岐頼康が尾張守であった南北朝期には池田頼忠が城主を務め、永正年代には花井備中守や、水野為善とその息子の忠守が居城したことが伝えられている(為善については異説もある。また忠守は水野忠政の息子の水野忠守とは別人)。 天文年間も引き続き水野氏が治めたが、織田信秀の支配下にあった。天文17年(1548年)、今川義元の命で野々山政兼がこの城を攻めたが、落とすことができず政兼は戦死する。 しかし信秀の死後、息子の織田信長から離反した鳴海城主山口教継の調略で、大高城は沓掛城とともに今川方の手に落ちる。この脅威に対して信長は「丸根砦」「鷲津砦」を築き、大高城に圧力を加える。永禄2年(1559年)、朝比奈輝勝が義元の命をうけ大高城の守りに入る。 翌永禄3年(1560年)には、大高城の包囲を破りそのまま鵜殿長照が守備についた。5月18日夜には、大高城に松平元康が兵糧を届け、長照に代わり元康が城の守備についた。やがて信長の攻撃による義元の死(桶狭間の戦い)を確認した元康は岡崎城に引き下がったため、大高城は再び織田家の領土となった。 まもなく廃城となったが、尾張藩家老の志水家が、元和2年(1616年)にここに館を設けてから代々住むようになった。この館も明治3年(1870年)に売却された。
平山城 300円 愛知県(尾張国)入江 徹也
-
安土城
1576年(天正4年) 1月、織田信長は総普請奉行に丹羽長秀を据え、近江守護六角氏の居城観音寺城の支城のあった安土山に築城を開始。 1579年(天正7年)5月、完成した天主に信長が移り住む。同年頃に、落雷により本丸が焼失したと、ルイス・フロイスが著書『日本史』に記している。 1582年(天正10年) 5月15日には明智光秀が饗応役となった徳川家康の接待が行われている。同29日の京都本能寺に信長が光秀の謀反により自害した本能寺の変の際は蒲生賢秀が留守居役として在城していたが、信長の自害後に蒲生賢秀・氏郷父子は本拠地日野城に信長の妻子などを安土城から移動させ退去。その後、明智軍が安土城を占拠した。山崎の戦いで光秀が敗れた後、天主とその周辺の建物(主に本丸)が焼失した。焼失の経緯や理由については諸説あるが不明である。 本能寺の変以降もしばらく織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信が清洲会議の後入城するなどと、主に二の丸を中心に機能していた。しかし、秀吉の養子豊臣秀次の八幡山城築城のため、1585年(天正13年)をもって廃城されたと伝わっている。
平山城 滋賀県(近江国) 2021年7月入江 徹也
-
長浜城(今浜城)
1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、1558年に火災に遭った竹生島宝厳寺の復旧資材として浅井長政が寄進した材木などを流用し築城を開始した。その後宝厳寺に対しては1598年に死去した豊臣秀吉の遺命として、大坂城の唐門などが移築されている。 同3・4年頃完成し羽柴秀吉が入城した。いわゆる水城であり湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。現在でも城下町には羽柴氏当時の面影や名残が残る。のちに天下人となる秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の領国・城下町経営の基礎を醸成した所とされている。 1581(天正9年)、織田氏の中国遠征で不在であった羽柴氏[3]のあと、信長は荒木村重討伐や越前一向宗制圧の功から堀秀政を長浜城主に任じた。しかし羽柴秀吉の親(大政所)と妻(北政所)はそのまま長浜に居住していたらしい。 1582年(天正10年)に本能寺の変が起こり、明智光秀の手により織田信長が殺害されると、明智に加担した山本山城主の阿閉貞征が長浜城を占領した。羽柴氏の妻ら係累は近隣の寺に逃れた。阿閉は山崎の戦いにも明智方として参加するが、明智は信長の仇討を掲げる羽柴方に敗戦し、阿閉は秀吉方に捕縛され阿閉一族全て処刑された。長浜城は羽柴氏の支配下に戻った。 山崎の合戦後に開催された織田家の重臣会議「清洲会議」で羽柴秀吉と意見対立し、結果として長浜の支配権を獲得したのは柴田勝家であった。雪国である越前国を領していた柴田はゆえに畿内方面への橋頭保として北近江を欲していたが、羽柴が縁深い同地を手放すわけがない、と衆目に見られていた中での、まさかの支配権譲渡であった。勝家は一族(甥)の柴田勝豊を長浜城の守将として入城させたが、羽柴と柴田の対立は収まらず、同年末には秀吉が勝手知ったる長浜城を攻めた。柴田は雪に閉ざされた越前近江国境の山を突破し援軍を送ろうとしたが、その前に勝豊は降伏した。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いの後は山内一豊が入り、6年間在城した。1586年1月18日(天正13年11月29日)、天正地震により城が全壊し、一豊の一人娘である与祢らが死亡した。 1606年(慶長11年)に内藤信成・信正が城主になるが(長浜藩)、大坂の陣後の1615年(元和元年)に内藤氏は摂津高槻に移封され、長浜城は廃城になった。
平城 300円 滋賀県(近江国)入江 徹也
-
坂本城
元亀2年(1571年)9月比叡山焼き討ちの後、宇佐山城の城主であった光秀に対して信長は滋賀郡の支配を命じ坂本城を築城させた。比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権の獲得が目的であったと思われる。坂本城はイエズス会宣教師のルイス・フロイスの『日本史』にも、「明智は、都から4レーグァほど離れ、比叡山に近く、近江国の25レーグァもあるかの大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に、邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。」と記されている。この記述はルイス・フロイスの感想ではあるが、名城安土城と並び称される建物として記録さるされている。 その後、光秀は坂本城を拠点に近江国の平定を目指した。1572年(元亀3年)-1573年(天正元年)にかけて木戸城、田中城を落城させ、また湖面より囲船にて湖北の浅井勢に襲撃し打撃を与えた。その後、石山砦、今堅田砦も攻城し湖南はほぼ手中に収めた。その後坂本城は近江国における反信長に対する重要な軍事施設として使用された。黒井城の戦いでほぼ丹波国を手中に収めると、1580年(天正8年)亀山城の城主となったが、坂本城もそのまま城主となっていたようである。 天正10年(1582年)6月2日、光秀は中国攻めには向かわず本能寺の信長軍を急襲し信長を自害させ、次いで二条城を攻城し信長の嫡男・信忠を自害させた(本能寺の変)。だが、同年6月13日山崎の戦いで敗れた光秀は一旦勝竜寺城に退き、その後坂本城を目指している途中、山城国の小栗栖周辺で百姓らに襲われ死去したと言われている。一方、安土城の城主となっていた明智秀満は山崎の戦いでの敗戦を13日の夜に知り、14日未明、安土城から坂本城に移ってきたが、羽柴秀吉方の堀秀政が城を囲む中、6月14日の夜、秀満は光秀の妻子を刺し殺し、自分の妻も刺殺し、自分は腹を切り、煙硝に火を放って自害したとされる]。 その後、秀吉に命じられた丹羽長秀が城を再建し城主となった。その後賤ヶ岳の戦いの軍事上の基地として使用され、後に杉原家次、そして浅野長政が城主となった。この時に城下町が形成されたと思われている。 1586年(天正14年)、秀吉の命を受けた長政が大津城を築城して居城を移したことにより廃城になり、資材は大津城築城に使用された。
平城 300円 滋賀県(近江国)入江 徹也
-
小谷城
日本五大山城の一つに数えられる。標高約495m小谷山(伊部山)から南の尾根筋に築かれ、浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として語られる城である。 1525年(大永5年)、六角定頼が江北に侵攻した際、浅井亮政が小谷城にて篭城戦をしたことから、その1,2年前の1523年(大永3年) - 1524年(大永4年)築城説が有力である。この2説以外にも諸説あるが、いずれにせよ大永5年迄に築城されていたと思われる。その後1538年(天文7年)にも六角定頼が攻め込んだが、この時も浅井亮政は小谷城を退城し美濃国に逃亡した。 亮政の孫長政は元亀・天正年間に朝倉義景とともに織田信長と戦ったことで知られる。元亀元年(1570年)6月の小谷城から南に5キロほどの地点で繰り広げられた姉川の戦いでは浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が激突し、織田軍が勝利したものの、信長は小谷城の堅固さを考慮して城攻めを断念、姉川南岸の横山城を築城、有力部将の木下秀吉(のちの豊臣秀吉)を配置し、浅井氏に対する付城(前線基地)とした。 その後もしばらく小谷城から出る浅井軍と織田軍とで争いがあったが、各拠点を守る磯野員昌(佐和山城)・宮部継潤(宮部城)ら浅井軍の諸将が徐々に寝返っていき、付城も横山城から、小谷城の南側の正面にある虎御前山へと前進した。しかし、一方で小谷城・丁野城・山本山城と小谷城から琵琶湖まで東西に並んだ支城は落城せず、小谷城の包囲へは持ち込めずにいた。 1573年(天正元年)8月8日、山本山城の守将である阿閉貞征が羽柴秀吉(7月ころに名字を木下から羽柴に改める)の調略に乗って織田方に寝返った。この城が手に入ったことで織田方は小谷城の包囲が可能になり、信長はその日の夜半に岐阜城を進発し、10日には越前から小谷城への北国街道のルートを封鎖することに成功した。このため援軍に赴いた朝倉義景の軍勢(2万といわれる)は小谷城に入ることができず、余呉や木ノ本などに布陣した。この混乱の中で焼尾の砦を守る浅見対馬守が降伏した。焼尾は小谷城と峰続きである大嶽の砦の北麓にあるため、信長は小谷城攻略の意思をさらに固めた。 8月12日、畿内一帯に嵐が襲来した(京都などでも被害の記録がある)。この嵐を好機と見て信長はこの日自ら浅見対馬守の手引きで大嶽を攻撃、落城させることに成功した。さらに翌日には形勢不利と見た朝倉軍が撤退するところを一気に強襲し、朝倉軍に壊滅的な打撃を与えた(刀根坂の戦い)。信長は嫡男・織田信忠の手勢などを押さえに残して越前に攻め込んで朝倉氏を滅亡させたのち、8月26日には虎御前山に帰陣した。翌8月27日、羽柴秀吉の軍勢が清水谷の急傾斜から小谷城京極丸を急襲して陥落させ、本丸を守る長政と小丸を守る長政の父・久政を分断させることに成功した。その日のうちに小丸を落城させ、久政は自害した。さらに本丸も落ち、9月1日、長政は本丸の袖曲輪にある赤尾屋敷で自刃し]、ここに浅井氏は滅亡した。
山城 300円 滋賀県(近江国)入江 徹也
-
一条谷城
軍記物である『朝倉始末記』には1471年(文明3年)に戦国初代朝倉敏景(孝景・教景)が黒丸館(福井市黒丸町)から本拠を移したと記されている。しかし、「朝倉家伝記」や「朝倉家記」などの新資料によると、朝倉氏は南北朝時代には、一乗谷を本拠にしていたようである。文明年間には重臣が一乗谷に集住するようになり、また、足利将軍家の分家である鞍谷公方などもいたことから応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花した。このため北ノ京とも呼ばれた。戦国4代朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期には人口1万人を超え、越前の中心地として栄えていた。 1499年(明応8年)には足利義稙が朝倉貞景を頼り来訪する。1567年(永禄10年)11月21日には戦国5代朝倉義景が足利義昭(1568年(永禄11年)4月一乗谷で義昭に改名)を安養寺に迎える。義景は義昭を歓待するが、同年7月24日、義昭は上洛を果たすため織田信長を頼って美濃国に出国する。 1573年(天正元年)8月16日、刀禰坂の戦いに大敗した義景は一乗谷を放棄し大野へ逃れる。翌日、信長の軍勢によって火を放たれ一乗谷は灰燼に帰した。
山城 300円 福井県(越前国)入江 徹也
-
長篠城
永正5年(1508年)今川氏親に誼を通じた菅沼元成が築城。元成と、その子孫・長篠菅沼氏が居城とする。 その後、徳川家康に服属するようになった。元亀2年(1571年)、武田信玄による三河侵攻の一端として、天野景貫によって攻められる。攻守双方の払った犠牲は大きかったが、陥落だけは免れた。その後、菅沼総領家・田峯菅沼氏から遣わされた使者の説得を受け、城主であった元成の直系玄孫・菅沼正貞は、心ならずも武田軍の圧力に屈した。 元亀4年(1573年)、武田家の当主であった武田信玄の病が悪化したことにより、前年末から続いていた武田軍の西上作戦が春には切り上げられ、武田軍は本国へ撤退。その途中で信玄は死去。その間隙に徳川家康によって攻められる。城主・正貞は天正元年8月(1573年)には開城退去、城に返り咲くことはなかった。以後、武田軍の再侵攻に備えて、家康により城が拡張される。 天正3年5月21日(1575年6月29日)、父・信玄の跡を継ぐことになった四男・武田勝頼が持てる兵力の大半1万5千の兵を率いて、奥平信昌が約五百の手勢で守る長篠城を攻め囲み、長篠の戦いが始まる。 天正4年(1576年)前年の長篠城の攻防戦で城が大きく損壊したこともあり、奥平信昌は新城城を築城し、長篠城は廃城となった。
平城 300円 愛知県(三河国)入江 徹也
-
勝幡城、末森城
勝幡城は、永正年間頃、清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」当主の織田信定(その父・良信ともいう)が、尾張国の海西郡を手中に治めた際、大中臣安長の屋敷跡に築城したといわれる。 この地は元々「塩畑(しおばた)」と呼ばれていたが、縁起が悪いという理由で信定または織田信秀が「勝ち旗」の意で「勝幡」と改名したといわれる。 天文元年(1532年)信定の跡を継いだ信秀は今川氏豊から那古野城を攻め取ると、那古野城に移り、勝幡城に家臣の武藤雄政(武藤掃部)を城代として置いた。 天文2年(1533年)、公卿の山科言継は信秀から勝幡城に招かれ、その際に城の規模と出来栄えに驚いたと日記に記している(『言継卿記』)。このことから商業地の津島を支配下に置いた「織田弾正忠家」の経済力が窺える。 『尾州古城志』によると、天文3年(1534年)に信秀の嫡子・信長は、この勝幡城で産まれたと記されている。那古野城という説もあるが、近年研究家の間では勝幡城説が有力になってきている[2]。 弘治元年(1555年)、信長は主家の大和守家を滅ぼして清洲城を奪取すると、拠点を那古野城から清洲城へと移し、城代の武藤掃部を尾張野府城へと移した。それにより次第に衰退して、やがて勝幡城は廃城となった。 末森城は、天文17年(1548年)、東山丘陵の末端に織田信秀が築城した。三河国松平氏や駿河国今川氏などの侵攻に備えてのもので、実弟織田信光が守る守山城と合わせて東方防御線を構成したものである。信秀は、これまでの居城であった古渡城を放棄し、末森城を居城とした。 天文21年(1552年)に信秀は死去した。信秀の居城である末森城を譲られたのは、織田信勝(達成、信成、あるいは信行とも。織田信長の実弟)であった。 弘治2年(1556年)、信勝は林秀貞、柴田勝家などとともに信長に叛旗を翻すが、稲生の戦いで敗れる。この際、信勝は末森城に籠城しており、信長は末森城下の町に火を放った。このとき、末森城内にいた母・土田御前の介入で、信勝は赦免され、末森城は陥落を免れている。 しかし永禄元年(1558年)、再び謀反を企てたのを柴田勝家が信長に内報し、信勝は清須城で謀殺された。これにより末森城は廃城となったとされるが、後に、小牧・長久手の戦いに際して、織田信雄が再び末森城を使用したという。
平城 300円 愛知県(尾張国)入江 徹也