大垣城
1500年(明応9年)に竹腰尚綱によって揖斐川(牛屋川)東河岸にあった牛屋に築かれたともいわれ、1535年(天文4年) に宮川安定が大尻に築いたともいわれる。この当時は、牛屋城と呼ばれていたとされている。
1544年(天文13年)に織田信秀により落城し、織田信長が5年間城主を務める。その後、1549年(天文18年)、斎藤氏配下の竹越尚光が城主となる。
織田氏、斎藤氏、織田氏と支配権が移った後、この地域の支配権を獲得した豊臣秀吉により、1583年(天正11年)に池田恒興が城主となった。所領は15万石とされる。翌1584年(天正12年)に小牧・長久手の戦いで恒興が戦死すると息子の輝政が継いだが、さらに翌年の1585年(天正13年)に輝政は岐阜城主になる。代わって1585年(天正13年)には田中吉政(秀次近侍)・中村一氏(近江水口岡山城)・堀尾吉晴(近江佐和山城)・山内一豊(近江長浜城)らとともに秀吉の甥・豊臣秀次(近江八幡山城)の宿老に任命された一柳直末が、大垣城に配され3万石を領したが、1586年(天正13年)11月29日(旧暦)(1月18日)の天正地震で城は全壊焼失した。
1588年(天正16年)に一柳直末によって、若しくは 1596年(慶長元年)頃、伊藤祐盛が城主の時に改築が行われ、天守が築かれたとされる。
天正18年(1590年)の小田原征伐で功を挙げたことから伊藤盛景が城主となり、1599年に盛景が死ぬと子の伊藤盛宗があとを継いだ。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの際には、城主・伊藤盛宗が西軍に属したため、石田三成らが入城して西軍の根拠地となる。その後、西軍本隊は関ヶ原に移動、城内には福原長堯らが守将となって残るが、関ヶ原の本戦で西軍が敗北すると東軍に攻囲され落城(大垣城の戦い)。そのときの逸話が『おあむ物語』として残っている。
江戸時代に入り、徳川家康は譜代大名として石川康通を城主にし、その後1635年(寛永12年)に戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩戸田氏の居城となった。