1977-9-16 レオポルド・ストコフスキー追悼

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指揮者ストコフスキー追悼カバーです。死去の当日製作されたようですね。

8歳からオルガンとヴァイオリンの演奏を始め、13歳のときに当時最年少で王立音楽大学に入学。オックスフォード大学のザ・クイーンズ・カレッジを卒業後、さらにロンドン王立音楽学校で作曲とオルガン、指揮法を学び、さらにベルリン、ミュンヘン、パリに留学。1903年にロンドンの聖ジェームズ教会のオルガニストとしてキャリアをスタートし、1905年にはニューヨークの聖バーソロミュー協会のオルガニストに迎えられた。1909年5月12日にパリで指揮者としてデビュー、その6日後にはロンドンでもデビューした。1912年にフィラデルフィア管弦楽団の常任指揮者に就任、以来1940年にいたるまでその地位を守った。全米青年管弦楽団(1940年 - 1941年)、ニューヨークシティ管弦楽団(1944年 - )やアメリカ交響楽団(1962年 - )といったオーケストラを創設、また、NBC交響楽団(1941年 - 1944年)、ニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団(1949 - 1950)、ヒューストン交響楽団(1955年 - 1960年)の指揮者を歴任した。その一方で、戦後はヨーロッパ諸国など世界各地への客演も活発におこなった。1961年には生涯で唯一オペラハウスで指揮をし(メトロポリタン歌劇場にて、プッチーニの「トゥーランドット」)、1965年には日本フィルハーモニー交響楽団と読売日本交響楽団を指揮するために来日している。最晩年の1973年にアメリカ交響楽団を秋山和慶に譲って故郷イギリスに帰り、生涯現役を貫いて精力的に音楽活動を続けた。1976年、94歳の時にはCBSコロンビアと6年契約(契約満了時に100歳を迎える計算となる)を結んだが、1977年9月13日正午前にイングランドのハンプシャー州ネザーウォロップの自宅で心臓発作により95歳で没した。19日からラフマニノフの交響曲第2番をレコーディングする予定であり、数年後にはベートーヴェンの「田園」をデジタルレコーディングする予定もあり、ストコフスキー本人は100歳まで現役を続けるつもりで契約をしていた。

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