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応仁記
京を紅蓮の炎に包み、足軽が横行する大乱に終止符を打つのは東軍か、西軍か? 応仁の乱は、1467年から11年もの間、京の市内及びその周辺で発生した勢力争いの内乱です。もともとは、室町幕府管領家の畠山氏と斯波氏の家督争いから始まり、徐々に他者を巻き込んで大事になり遂には細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展、また8代将軍足利義政の後継者争いも加わって京都周辺地方にも紛争が拡大しました。この内戦は、多数の主導者がそれぞれの思惑で勝手に戦いを仕掛けるため、また足軽も勝手に小競り合いを繰り返したために、誰にも制御ができなくなってしまい、11年もの長い間京の市街を蹂躙し続けました。 「応仁記」は、この京の市街を舞台にした市街戦を再現したゲームです。 応仁の乱を題材にしたゲームはとても珍しく、私はこれしか知りません。そういった意味では貴重なゲームであり、こんな世界的にはマイナーなテーマを、でも日本史を語るうえでは戦国時代へのターニングポイントになったとても重要な戦いを取り上げてくれたデザイナーに感謝、です。しかしまさか一休さんや義政の正室日野富子までもが登場するとは…。 #応仁の乱 #応仁文明の大乱 #一休さん
3本 ウォーゲーム日本史#23 作戦級 1Turn=1年 エリア方式 1Unit=1武将ちょこ大佐
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三方原合戦
盟友織田信長に対する包囲網体制が強まる中、家康最大の敵武田信玄が三河領へ侵攻を開始した。大軍を率いて西進を続ける信玄に対して家康は無謀とも思える反撃に転じる…。果たして、家康最大の危機、戦国時代最強の敵を前に絶体絶命の家康の生き残る道はあるのか? 「三方原合戦」は、1573年1月25日に三方ヶ原で起こった武田信玄軍と徳川・織田連合軍の戦いをシミュレートしたゲームです。当時の状況は、遂に上洛を目指し、信長包囲網に参加しようと西進した武田の大軍が、三河を通過ついでに家康を滅亡させておこうといった感じの戦いで、徳川方1万に対して武田方3万と約3倍の圧倒的不利の状況だったようです。日本の合戦は布陣した時には大体勝敗は決していて、特にこの戦いのように初めから戦力差が大きい戦いはゲームにしづらく、そう言った意味ではこのゲームは貴重なゲームと言えるでしょう。戦力差のため籠城を決めて浜松城に閉じこもって構えていたところに、武田軍はそれを無視する形で三方ヶ原の方に進軍していき(シカトした)、それに怒った家康が軍を率いて追いかけていったら、三方ヶ原で準備万端武田軍が待ち構えていたというオチで、まんまと武田信玄の策略に踊らされた家康は、命からがら逃走し、なんとか浜松城に逃げ帰ったそうです。当時温暖な静岡にしては珍しく雪が降っていたらしいのですが、降雪は家康の逃走に力を貸したのでしょうか…? また、シカトされて怒ったというのは恐らく真実ではなく、何か別の理由があったのだとは思いますが、今となっては諸説ありすぎて真実が分かりません。 家康が逃亡時に恐怖のあまり馬上で脱糞して、それを城に逃げ帰ってから臣下に指摘されると、”これは味噌じゃ”といって言い訳した逸話が有名ですが、実はこの話は資料的根拠が無く、実際は一言坂の戦いの時と言われています。 #三方ヶ原の戦い #徳川家康 #武田信玄
1本 ウォーゲーム日本史#20 作戦級 1Turn=? エリア方式 1Unit=?ちょこ大佐
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三河物語〜参州一向争乱記〜
桶狭間の戦い後、三河国統一を目指した松平(徳川)家康が最初に直面する危機、三河一向一揆は、強い結束力を誇る家康の家臣たちが、一向宗門徒である立場から分裂、対立を余儀なくされた戦いです。 「三河物語」は、1563年から翌年にかけて三河国の戦国大名権力である”岡崎松平家”惣領”松平家康”と彼に立ち向かう仏教徒勢力である”浄土真宗本願寺派”の三河国一向門徒が戦った戦国時代の地方紛争”三河一向一揆”をシミュレートしたゲームです。 #徳川家康 #一向一揆
1本 ウォーゲーム日本史#17 作戦級 1Turn=1ヵ月 エリア方式 1Unit=約100人ちょこ大佐
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会津戊辰戦争
薩摩、長州を中心とする新政府は、最後まで頑強な抵抗を続ける東北諸藩を平定すべく出征。東北諸藩も情勢を読み奥羽越列藩同盟を結んで新政府軍に対抗します。東北地方、特に会津盆地を中心に新政府軍と旧幕府軍がお互いの思いを激突させる、それはまさに新時代を生むための生みの苦しみのようでした…。 「会津戊辰戦争」は、戊辰戦争後半の東北戦役、自国領を守ろうとする東軍(会津藩と旧幕府軍を含む奥羽越列藩同盟軍)と薩摩長州を中心とする新政府軍が会津盆地で激突するのをシミュレーションするゲームです。 #戊辰戦争 #会津白虎隊
1本 ウォーゲーム日本史16 作戦級 1Turn=? 1へクス=? 1Unit=?ちょこ大佐