『新聞社とプロ野球』

初版 2019/02/15 09:22


『新聞社と日本プロ野球』


野球人気が高まりつつある1915年(大正4年)8月、朝日新聞社により全国中等学校野球大会が開催される。遅れること1924(大正13年)年4月に毎日新聞社も選抜中等学校野球大会を開催。


新聞が唯一の情報源であり東京六大学野球人気と卒業後進学する生徒の野球大会とあって当時の2大新聞社は販売部数を拡大させる。そのような状況下で地方新聞に過ぎなかった讀賣新聞社が日米野球を計画。


1931年ゲーリックなどの大リーグ選抜チームと東京六大学選抜チームなどとの興行試合が成功。その後、招聘できなかったベーブ・ルースを含む全米チームの興行を再計画。


ところが1932年(昭和7年)『野球統制令』により現役学生とプロとの商業試合は禁止となり大卒・中卒や社会人野球から選抜した全日本チームを編成することとなる。沢村栄治(京都商業) やスタルヒン(旭川中学)を中退させ選抜チームメンバーに入れた。そして1934年(昭和9年)11月ベーブ・ルースなど豪華メンバーの全米チームが来日、日米野球を大成功させた。


日米野球終了後の1934年12月、全日本チームメンバーを中心とした日本初のプロ野球チーム『大日本東京野球倶楽部』(現読売ジャイアンツ)を創立。


国内にはプロの対戦相手がいなかったので翌1935年2月米国に遠征。また現地担当だったF・オドールと鈴木惣太郎のもとで遠征での呼び名を『トーキョージャイアンツ』とした。


1936(昭和11)年2月5日に東京巨人軍を含む7球団で『日本職業野球連盟』を設立。2月9日の東京巨人軍対名古屋金鯱軍(鳴海球場)が日本プロ野球の初試合となった。


野球統制令により小学~大学野球への営利目的企業の排除、興行の禁止は日本の職業野球の創立を早めた結果となる。また、各社の目的は新聞販売の拡大であったものの、日本の野球の発展に多大に寄与したことは言うまでもない。

#参考

主にネットを中心に10年前から野球関係、自分に影響を受けたものを中心に集めてきました。
 いずれこれらの資料も前人の方々の預かり品、できる限り散在しないよう次の方に引き継いで貰い遺さなければならない『小さな歴史的遺産』と考えています。
 サインボールの一つにしても何時の時代で、どういう場面で、どういう立場で書かれたのか?調べ伝えて行きたいです。
そう言った意味でまさに備忘録として大変価値あるサイトです。また仕事の疲れを癒やすにはいい時間のひと時です。

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