1939

初版 2024/03/29 11:40

改訂 2024/09/05 01:13



時は1939年6月
パリ、モンパルナスのレストランにて・・・

「わたしたち(カメンスキー/諏訪根自子)は今、非常に困難な運命に追い込まれています…」
と前置きしてカメンスキーは数奇に満ちた自身の運命を語り出す。


・ロマノフ王朝の宮廷ヴァイオリニストとして華やかな生活を送っていた
・ロシア革命の前夜当日の大混乱の中、無記名の宮廷関係の密書を受け取る
・指定された地下室のあるカフェに赴く
・それは罠で、労農兵士に革命政府転覆者として参加者は一網打尽拘束、投獄される
・妻子がどうなったかわからない…
・そこではロマノフ王朝時代の軍人、重官、モスクワの富豪達が収監、処刑されている
・その時の所持金は300ルーブル

(当時100ルーブルで人の命が買えたと言われた時代)
・身体検査で金品宝石などが発覚した者達はどしどし銃殺されてゆく
・襟の中に隠したその金を靴底に仕舞い込み身体検査を潜り抜ける
・取調べを受ける
・革命ゲー・ぺー・ウー(ГПУ=国家政治本部)の幹部らしい取調べ官
・姓名/職を読み上げられ訊かれ頷くと、取調べ官の険しい瞳の奥から僅かに微笑みが覗く
・「1913年ぺテルグラード郊外の製紙工場で労働者にヴァイオリンを弾き聴かせた事があるか?」と問われる
・当時、宮廷の楽士が労働者にヴァイオリンを聴かせる事はやましかったが、密かに抜け出してその工場で弾いた事を告げる
・その男はすっと手を握る
・取調べ官はその中の労働者の一人で慣わしを破って弾いてくれた美しく、素晴らしい芸術を心から楽しんだ、と話す
・しかし書類には死刑の宣告と記されている旨を告げる
・問答は続くが、取調べ官は「革命裁判」は弁解を許さず手ぬるいものではない、これは運命だと
・…しかし、1913年に示した芸術家としての立派な良心的行為に愛情を覚え、秘密裏に逃したい旨を告げる
・今夜十二時に独房の扉が密かにノックして開けられる、こういう方法/ルートで国境へ逃亡しろ…と
・はたして、それは実行され彼の指示通り変装もしてポーランドの国境に逃れ、パリに亡命した
・妻も捕らえられシベリアに流されたが脱出、パリで二人亡命生活を送る

(*この"妻"に関せば?そして愛器はどのタイミングだったのか?疑問が残る)
・カメンスキー来たる!という事で、パリの音楽界はもとより、ロンドン、ニューヨークでも演奏會が計画されたりレコード会社からもオファー
・しかし、二度とステージに立って華やかな生活を送るには余りにも打撃が大きかった
・なぜならロマノフ王朝の人々の運命を目の当たりにしたから
・華やかな生活は断念した
・自分の芸術の後継を探していた。


…と過去を滔々と物語る。


*根自子さんを引き取ってからの契約は、一日二時間であった。

⬇︎

それに対し、八時間〜十時間教えた。


*ベルギーに留学した2年間、何も系統だった良い勉強をして来なかった。

⬇︎

自分の許に来てからめきめきと天分が顕れた。

「可憐な東洋の娘を精魂込めて指導、自分のテクニックも全て教えた。或る日、根自子の体の中に自分の持つ魂のリズムのレコードが廻っているのを聞く。そこに大きな希望と自分の芸術を最後に伝えるべき人間をこの根自子の中に発見した。
その後は、テクニックなりエスプリなりを根自子に植え付ける事に全身全霊を打ち込んでいる。」


…そんな中、今、芸術に生きる者にとって死ねという宣告にも等しい事態に直面している。

カメンスキーは涙を浮かべながら訴える・・・



根自子をして私の手を離れよといわれるならば、全く前途は真っ暗になってしまう
私の手から根自子を奪う事は
芸術に生きる私に死ねという宣告に等しいのである!


根自子さんを奪う(?)その宣告と言うのは、一体何だったのか?


それは…


諏訪根自子さんの後援者である大倉男爵からの通達で、


今後の援助は、(根自子さんが)パリのコンセルヴァトワールパリ国立音楽院に入ってプルミエプリ首席を取る事を条件として送金する

とのお達しがあった事を指す。(これは初耳の事実だ!)




傍らで聞いていた根自子は・・・


私もカメンスキー先生の手を離れて音楽学校へ行く気はありません。
カメンスキー先生とコンセルヴァトワールのテクニックは全く違っているのです。
今から、
全く違ったテクニックでまたやり直す事は、私としては全く自信もなければ、また希望もありません。
どうか日本に帰られて、大倉男爵に私たちの愛情をお伝えください。



と、この対面の人物に託す。

この人物が「もし大倉男爵がコンセルヴァトワールに入らなければ一銭もお金を送らない…と言ったらどうするのだ?」と尋ねれば根自子さんは


その時は私は街頭に立ってヴァイオリンを弾き、1フラン、2フラン貰っても、カメンスキー先生に就いてその藝術の最後の目的を達します。


と、悲壮なる決意を述べた。。。

その対面に鎮座したる人物=後に政界で"怪物"と呼ばれる事となる、パリ滞在中の楢橋 渡氏であった。

1926年より、東京弁護士会・日本弁護士協会より陪審法調査のためフランスへ派遣され、リヨン大学・ソルボンヌ大学で学ぶ。その後、東京市が市電を買収する際にフランスで起債した公債の償還を巡るトラブルが発生すると(東京市仏貨公債事件)、楢橋は東京市顧問を委嘱され(1931年)、フランスにて足掛け8年間交渉に当たり、1939年、東京市に莫大な利益をもたらす形で解決に成功した。
(wikiより抜粋)


丁度、この時期に当たるのでしょう。更に終戦後1945年、幣原喜重郎内閣で内閣法制局長官〜国務大臣(兼任)内閣書記官長に就き、そして自由民主党結成に貢献、後年1959年の第二次岸改造内閣では運輸大臣を務めた人物であられます。

先の根自子さんの悲壮な決意と、滔々と自らそして芸術の継承の使命を語った師カメンスキーに対する確かな信頼と愛情の言葉⬆︎を聞き「それこそが藝術道の精神だ!」と嬉しく思った楢橋氏は、必ず大倉卿を説得して研究が続けられる様努力する旨を二人に約束したのです。

それを聞いたカメンスキーは、はらはらと涙を流して「あなたの魂はcomme dieu(神のよう)だ!」と手を握った。


そして帰国する前日、シャンゼリゼのカフェにて夜十二時近くまで根自子さんと大倉卿に宛てる手紙の内容を打ち合わせる。



翌日、楢橋氏は大西洋に面したル・アーブルの港⬆︎よりノルマンディ號に乗船、ニューヨークに赴いてから日本に帰国したのは七月のこと。直ちに大倉卿を訪ね二人の切なる願いを伝える。と、大倉卿は…

コンセルヴァトワールに入学しなければ、根自子を応援しないと言う様な事は、決して固執はしません。根自子が真に偉大な藝術家になるならば、またカメンスキー先生がそういう立派な方なら、私は喜んで、この人達がますます芸術道に進み得る様に経済的手配をしましょう

と言って快く引き受けてくれた。


"私は大倉男のその大きな気持ちに、痛く心を打たれたのである。それは1939年の事であり、その後、日本は太平洋戦争となり、根自子の運命もパリよりドイツへ、ドイツよりパリへ、ロシアへと転々とした。そしていま、芸術家肌のカメンスキーがどういう運命を辿っているのか私は知らない。しかし私は、あのロシアの革命によって死刑の宣告を逃れたロマノフ王朝の宮廷ヴァイオリニストがパリの屋根の下で、東洋の孤島日本から流れて行った一女性に、芸術の為のひたむきな情熱を燃やしていた日を思い出すごとに、藝術の都パリに対する限りなきノスタルジイを覚えるのである。"


…と楢橋氏は述懐した。



以上が、'48年刊の同氏著『ベルギーの女』中の「カマンスキーの告白」章からの抜粋、顛末であります。
おおまかな事="フランス/パリでのカメンスキー氏宅での勉強生活""大倉卿の芸術家支援"という大雑把な括りでは知り得る所ながら、実際にはこういう事もあったのか?…とはじめて知る逸話に興味津々で読み進めました。

なによりどんな局面に於いても様々な"人"の援助、差し伸べられた手によってその場の困難を打開、道を開いてゆかれた=そうさせたのは技と美貌の為せるわざだけではない様な気がするのです。。。



因みに、別の書籍の記述では根自子さんは何人か共同で郊外に果樹園付きの別荘(?)も借りておられた旨の記事も読む事が出来ました。

ご来館有難う御座います。

忘れじの'美貌なる昭和'、諏訪根自子さんの奏でられたヴァイオリンの音色が大好きです♪

近頃は蓄音機で聴くのが愉しみ^^

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