-
あぶない(!?)ヴィデオカメラ@昭和初期の一般向け科学雑誌
昭和初めの娯楽科学雑誌巻頭グラヴィアに出てくる、ドイツ人放射線医と技術者とがタッグを組んで考案なさったという小型連続撮影用カメラ。 といっても普通の映画を撮るためのものではない。なんと、エックス線撮像を連続して写すことができる、という「レントゲン活動写真機」なのだ。 写される側の患者や付き添っておられるドクトルは、当時のエックス線撮影のときにフツーにつかわれていた装備(表面はゴム製で内部に鉛の板が仕込んであるもの)のようだが、肝腎のカメラを構えておいでの技術者氏はどうも何も放射線を防護するようなものを身につけておられないように見える。放射線はレンズが向いている方にしか飛ばないからだいじょーぶ☆ ということなのだろうか……。 この時代のライヒスマルクはハイパーインフレのあおりをもろに受けていたのではないかとおもうのだが、果たしてこの「一マルク」はどれくらいの価値だったのか……ともかく、それまで局部を1枚撮るだけで十数マルクかかったものが、この新案装置を使えばたったの1マルク! しかも操作も簡便! とくれば医療界がこぞって飛びつきそうな画期的発明だ。 しかし、実際そういうブレイクスルーがあった、というお話は聞いたことがないから、ウィーンで開催された放射線医療学会で紹介されたこの器械は、恐らく何らかの致命的な問題があって、歓呼をもって迎えられることなく消えてしまったのだろうとおもわれる。 いや〜、どう考えても危ないでしょ、これ。撮影者の命がいくつあっても足りなさそう。 オマケの7枚目はご参考までに、同じ号に載っている小型撮影機の広告。こういう器械が、当時の庶民はともかく富裕層には「手の届く実用品」になっていた。
科學知識 第九卷第七號 昭和04年(1929年) グラビア刷り 洋紙(塗工紙)図版研レトロ図版博物館
-
チョコレート工場見学@昭和初期の化学プラント図解本
以前、明治の初めに西洋薬の輸入製造販売のさきがけとして始まった当時の資生堂について一次資料をあたっていたときに実感したことだが、今やその名をしらない人がいないような大企業でも、その創業のころの記録は意外とわからなくなってしまっていることが少なくないようだ。もちろん、震災や戦災、大火というような不可抗力に巻き込まれてうしなわれた資料もすくなくないだろうけれども、試行錯誤を繰り返しながら製品を造ったり売り買いしたり、という日々の仕事におわれて、おそらくは記録をきちんととっておこうというゆとりがなかったからではないか、などと想像してしまう。 日本で最初にチョコレートをつくって売ったのはいつか、というのを安直にネット検索してみるといろいろな説がでてきて、製造者の同業団体ですらおっしゃることが一致していないので、いったいホントのところはどーなの? という疑問がわくのだが、同じことをおもわれた方がすでにあったようで、レファレンス共同データベースに日本最初の新聞広告はいつのものか、というお尋ねへの福岡県立図書館回答事例が載っていた。 https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000254553 結局、一次資料が確認されているうちでは八杉佳穂氏『チョコレートの文化誌』 https://sekaishisosha.jp/smp/book/b354345.html に紹介されている明治10年11月1日附け『東京報知新聞』の凮月堂米津松造のものが最も早く、同図書館の方がお調べになった範囲ではそれ以前にはないらしい。「新製猪口令糖」というくらいだから、まぁこの年がはじまりとみてよいのだろう。なおレファレンス記事にもあるように、当の東京凮月堂サイトの「東京凮月堂の歴史」には翌年の『かなよみ新聞』広告のことしか書かれていない https://www.tokyo-fugetsudo.jp/about/history ので、いつが最初なのかはあんまり気にしておられないのかもしれない。 森永製菓の「沿革・歴史>明治・大正(1899〜)」には、同社がカカオ豆からの一貫生産を国内で初めておこなったのが大正7年(1918年)、とある。 https://www.morinaga.co.jp/company/about/history.html 大正5年(1916年)に「東京菓子」として創業、大正13年(1924年)に「明治製菓」と商号がかわった今の明治が「ミルクチヨコレート」「明治ココア」を売り出したのが大正15年(1926年)、と同社サイト沿革に書いてある https://www.meiji.co.jp/corporate/history/ が、その前年に建てられたという川崎工場の生産ラインを今回は見学してみることにしよう(あらら、ずいぶん前振りが長くなってしまった……)。ところどころに登場している人形や動物をかたどった製品は、当時「トーイス」と呼ばれていたようだ。なお4枚目のページだけはチョコレートではなく、同じ工場内のビスケットとウェーファースの製造現場。2枚の写真ともにまるで人形のように全く同じ恰好で立っておられる長白衣に丸眼鏡のお方が、ご取材の際のご案内役だったのかもしれない。 戦前のチョコレート一貫生産の各工程のようすは、なかなか目にする機会がない。原料産地での採集風景からはじまっているのが、さすがは当事者の全面協力あっての記事だけのことはある。このような出版企画が実現したのも、当時の科学教育界と化学工業界の有力者がつどって啓蒙活動をすすめる団体だったからだろう。
圖解化學工業 昭和04年(1929年) 昭和04年(1929年) グラビア刷り図版研レトロ図版博物館
-
鉱物の美@昭和初期の女学校用鉱物学教科書
昭和初めの鉱物学の教科書に載っている、美麗な標本をイラストで表わした彩色図版。それぞれ、見事な大結晶を含む原石を示した「結晶の美」、装飾品に用いられる石の代表的なものを取り上げた「寶石及び飾石」、ミクロトームでスライスした石を鉱物顕微鏡で覗いてみた「岩石薄片の検鏡」。いずれも名称を書いた別刷りの薄葉が被せてあり、また前二つは裏側に解説が添えられている。 石の見た目の美しさで惹きつけようとする傾向は、特に女子向けの教科書に強いように思われる。また、必ずといっていいほどカットした宝石や貴石(当時は「飾石」といっていた)の色刷り図版が含まれているのも、如何に女の子たちの注意をそらさないようにするかという課題に日々苦心を重ねている現場のニーズに応えた結果、といえるのではないかしらん。 #レトロ図版 #鉱物学 #鉱石 #宝石 #貴石 #飾石 #鉱物標本
女子教育最新鑛物學 昭和04年(1929年) 昭和03年(1928年) 三色版刷り+活版刷り図版研レトロ図版博物館
-
小さなカラーテレビ+大きなポータブルプレイヤー@昭和初期のグラフ誌
昭和初期のグラフ誌に紹介されているテレヴィジョン受信器。要するにテレビだが、説明を読むとカラーテレビらしい。初期のテレヴィジョン受像機についての論文 http://sts.kahaku.go.jp/tokutei/pdfs/03_11.pdf からしても、恐らく最も早い時期の機械を収めた珍しい写真、ということになる。それにしても、お嬢さんが指さしている肝腎の画面が1インチ四方……一辺2.5cmちょいだから、切手サイズだ。これでは何が映っているのか、ほとんどわからないのではないだろうかww 裏表紙に、これも当時としては最新鋭と思われる携帯用レコードプレイヤーの全面広告が載せられているので、ついでにご覧いただこう。円テーブルひとつ占拠するこのデカさ、今の感覚だととても「ポータブル」とは思えないだろうが、この時代にあってはこれでもコンパクトサイズだったのである。「海へ山への御携帶」ともなれば、この本体と一緒に当然あの重たくて壊れやすいSP盤も何枚も持っていくことになる。そんな大掛かりなピクニックなど、運転手付きの自家用車でもないとやっていられないだろう。それを思えば、iPhoneやiPodに一日聴き飽きないくらいの曲数を入れて気軽に持って歩けるありがたさが身にしみる、というものだ。
アサヒグラフ 第十三卷第四號 昭和04年(1929年) 鉛版 洋紙図版研レトロ図版博物館
-
国内初のパーキングビル探訪記事「讀者課題「水嶼式自動車庫」」@昭和初期のグラフ誌
アメリカで見てきたパーキングビルに独自の工夫を加えて、実用新案登録を取って建てたという我が国最初の立体駐車場「丸の内ガラーヂ」を新聞記者が取材した記事。建築物そのものの写真は専門誌などで見かけるが、こうして実際に営業している場面を写したものは割と珍しいと思う。 『アサヒグラフ』誌の「讀者課題」という企画シリーズコーナーに載った記事だが、グラフ誌の読者から取材のお題を募り、採用された面白いネタはこうして写真入りの記事にするとともに、投稿者へは賞品進呈、という誌上イヴェントはなかなかたのしそう☆ なお、この建物についてはちょこっとだけ調べたので、近々「モノ日記」に書こうかな、と思っているところ。 ----- 2019年10月6日追記:「モノ日記」に関連記事「丸の内ガラーヂ」を書いたので、ご興味がおありの方はどうぞ。 https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/diaries/23
『アサヒグラフ』第十三卷第四號 昭和04年(1929年) 鉛版 洋紙図版研レトロ図版博物館