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月報 日本グラモフォン 1964〜1966年
1964年5月号には日野てる子さんのデビュー盤が掲載されていますが、シングルとLPが同時発売となっています。代表曲となった「夏の日の想い出」は1965年2月新譜ですが、発売当初は「ワン・レイニーナイト・イン・トーキョー」のB面扱いでした。 1964年10月新譜として園まりさんの「何も云わないで」が登場し、この方の歌手としてのイメージが固まっていきます。 クラシックではカラヤンとベームという両巨頭が専属契約となり、レコードが増えて行くことになります。(画像は64年12月号) ポピュラー系では MGM と VERVE が新レーベルとして加わり(どちらもコロムビアからの移行)、輸入盤がサービス価格で提供されました。レコード店で、コロムビア MGM盤シングルが、1枚100円で売られていたことを覚えているのですが、多分この移行後のことだと思います。コニー・フランシスとか、有名な人の盤はなかったので何も買いませんでしたが、「なんで?」と思ったものです。 65年10月号には、カール・ベームによるモーツァルト「魔笛」が登場しています。台詞も含めた全曲盤でした。 スプートニクスの「霧のカレリア」のシングルは65年11月新譜ですので、エレキ・ブームとしては遅い部類の発売でした。アルバム収録曲としてはとっくに発売されていましたので、これをシングル・カットしたグラモフォンの戦略が当たったことになります。 66年10月号ではカマストラ・レーベルが登場し、第1弾としてラヴィン・スプーンフルの「デイドリーム」が紹介されています。正直に言うと、初めて聴いた頃はフワフワしてとりとめないサウンドと感じていました。「サマー・イン・ザ・シティ」はうわっと思いましたが…… しかし数は多くなかったものの、熱心に聴いているファンはいました。 #アナログレコード #レコード資料
音楽 日本グラモフォン 2000年〜2020年chirolin_band
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月報 コロムビア 1964〜1966年
ポップス系では1964年前半に、シリーズが LL-1 番代(シングル),YS-100 番代と PS-1000 番代(LP)にまとめられます。様々なレーベルが混在するので、番号の後ろに「末尾記号」が付加されました(CBS なら 「C」,EPIC なら「E」など)。 ブルーノ・ワルターの遺産シリーズが登場しますが、個人的にはこの時代の CBSコロムビア盤(360 SOUND)が、最も良い音がすると感じています(好みはあると思いますが) 1964年6月号よりスプラフォン(新世界レコードから移行)とオーディオ・フィデリティ・レーベルが登場します。 都はるみさんのデビュー盤「困るのことヨ」は1964年5月20日発売です。 1965年7月号では、大物2人がデビューしています。この時代の市川染五郎さんは、今の松たか子さんのお父さんですね。松山まさるさんが大物になるのは、グラモフォン(ポリドール)で一条英一と改名し、更にミノルフォンに移って三谷謙を経て五木ひろしに改名してからになります。 ミュージカルの傑作「メリー・ポピンズ」は1965年7月号と8月号の両方に掲載されています(ジャケットが変更されたため)。 私がキンクスに目覚めたのは「サニー・アフタヌーン」(1965年9月20日臨発)からでした。レイ・デイヴィスがロンドン五輪の閉会式で名曲「ウォータールー・センセット」を披露してくれたのは嬉しかったですね。 この時代のボブ・ディランについては、ピーター,ポール&マリー等の「風に吹かれて」とか「ドント・シンク・トワイス」の原作者といった程度の認識しか持っていませんでした。確か「フォーク・ソング・デラックス」というオムニバス盤でその「風に吹かれて」や「ミスター・タンブリン・マン」を聴いたのが初体験だった思います。私の周辺にも、熱心にボブ・ディランはを聴いている人はいませんでしたが、世の中には一定数いたものと思います。多分そういった人たちが、後のURCやエレック・レコードのアーティストやファンにつながっているような気がします。私が一生懸命聴くようになったのは、CBS-SONY に移ってオリジナル・アルバムが続々と発売されるようになってからでした。(借りて聴いていたのが多かったですが) 一方、「サウンド・オブ・サイレンス」(サイモンとガーファンクル)については最初から注目していましたし、何故大ヒットしないのか不思議に思ってました。1966年1月20臨発として登場したのですが、ブレイクしたのは映画「卒業」のサントラ盤として再発売された時(1968年)でした。 #アナログレコード #レコード資料
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月報 東芝(東芝音楽工業) 1964〜1966年
月報の表紙もカラフルになって来て、裏表紙にもジャケ写が使われるようになりました。 1964年より洋楽の品番体系が改められ、ポピュラー系の場合、どのレーベルもモノラルは●Rシリーズ,ステレオは●Pシリーズに一本化されます。●部分にレーベル記号(Oは Odeon ,LはLiberty など)が入ります。 月報上のでのビートルズは、64年3月号の「プリーズ・プリーズ・ミー OR-1024」が初登場です。 1964年8月号には、アルプスで遭難死したフルート奏者加藤恕彦(ひろひこ)さんのリサイタル盤が掲載されています。この方の書簡集が「アルプス山嶺に消ゆ(光文社カッパブックス)」として出版されていますが、そこから浮かび上がる人間像は、21世紀を生きる我々にとってとてつもなくピュアなものです。 フルトヴェングラーのステレオ盤が1964年10月号に載っています。モノラルからステレオに移行する時期には、所謂「疑似ステレオ盤」が数多く発売されました。チープなものとしては、ロー・パス・フィルターとハイ・パス・フィルターを使って高音域と低音域で左右に分離するというものもありましたが、ドイツ・エレクトローラが行ったフルトヴェングラー盤はそういうものではありませんでした。ふっくらとした感じのこのサウンドは、個人的には結構好きだったりします。 1965年の夏休み、同級生のYくんが遊びに来ました。彼が満面の笑みを浮かべて抱えていたのが、「ベンチャーズ・イン・ジャパン」のLPでした。「兄貴が借りて来たのを持って来ちゃった」ということで、一緒に聴きました。全編「うわぁ、うわぁ」の連続だったのですが、「ドライヴィング・ギター」のトレモロ・アームは、家のヒューズが飛んだのか思ったものです。 1966年1月号には加山雄三さんの大ヒット曲が一押しで載っています。当初からA/B面ベスト・カップリングのサービス盤でした。 1966年7月号には、ビートルズの来日記念盤が2アイテム見開きで掲載されています。私がLPを買えるようになったのはこの辺りからです。「貯めたお小遣いでビートルズのLPを買いに行くんだ」と言っていたところに遊びに来た年長の従兄弟が「せっかく貯めた小遣いをそんなことに使うのはもったいない、僕が買ってあげよう」と言いだしました。「そんなこと」というのはいささか引っ掛かりましたが、喜び勇んでレコード屋に行き、判っているのに「あれっ!2枚も出てるんだ。困ったなぁ」と言うも、期待した返事は聞かれず「どっちか選んで」。その日は Vol.1 を買って帰り、暫くして Vol.2 ももちろん購入しました。 #アナログレコード #レコード資料
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