115系 山陽本線を少し振り返る①

初版 2023/09/30 11:45

改訂 2023/09/30 11:45

117系の記事を閲覧いただいた皆様 拙い文章でしたが、閲覧いただきありがとうございます

今回は山陽本線では脇役117系ではなく主役の115系にフォーカスを置いてその車生をお送りできればと想い記事にいたしました。 特に0番台やそれの派生が存在した頃のおもしろき風が吹いていた頃の話もあります。 

山陽本線の115系といえば何でしょう?

末期色?先頭だけが古い編成?ガムテープ? 全部正解です しかしそれは本質を知ろうとせず 上っ面を知っただけのオタクにしか見えません。 本質を知ろうとしない、または興味がない方はつまらない記事ですのでそのような方は読まないほうが幸せだと想います

読みたくない人はバックしましたね?

では本編に入ります

山陽本線の115系 始まりは1976年 小山・新前橋への115系300番台投入による、玉突き転属で来た115系0番台に始まる。 以後1978年に広島地区に2000番台が岡山地区に1000番台がそれぞれ新製配置され、徐々に旧型電車を駆逐していった 当時、国鉄電車には標準塗装という概念が存在し、投入されたのは湘南色オンリー

しかし、身延線の115系に地域色が採用されて以降、イメージアップの為に地域色を積極的に採用していく方針に変わった 1982年 広島シティー電車として 短編成で高頻度の運行間隔に変更する動きがあり、この時用意された115系こそが115系3000番台という117系にかなり近い側面をした115系が投入された。この電車は外観や内装以外にも最初に瀬戸内色を採用した電車で有った為、沿線の国鉄イメージの払拭にも大きく貢献 その後の国鉄地方都市線区における新しい輸送体型のお手本になりました。

その後も115系の増加は続き国鉄最後のダイヤ改正寸前までには東日本から転属してきた編成、東日本からサハ→クハに改造した車両を組み込んだ編成、ドサクサ紛れに沼津から流れてきた編成が居た一方、先頭を供給したため車両が不足した小山・新前橋に向けて一部車両が岡山・広島から転属していった 中には小山から広島に行きまた小山に戻った0番台モハユニット、2016年まで高崎で活躍した車、岡山→新前橋→小山→松本→長野と渡り歩く車も居ました(東日本の115系に関する記事もいずれ出稿します)

しかし、幾ら頑丈な115系電車も寄る年波には勝てず、岡山電車区にて初の115系廃車が発生した。

1987年4月1日 国鉄分割民営化により岡山・広島・下関の115系はJR西日本に承継された。と同時に国鉄時代みたく需供調整のための大規模転属はできなくなった。しかし、民営化以前に多少廃車が出たとは言え、宇都宮・高崎線の15両から2両の山陽本線下関口まで多数のバリエーションが存在した115系 民営化こそが彼らのバリエーションが増えていく転換点で有った。

まず、3扉の電車にも瀬戸内色を施していく。これにより、広島支社に所属する大体の電車は長らくクリーム地に青帯を巻く色と定着していった。しかし、今度は逆に2扉の電車を広島快速色という白地にグレーと水色・赤などの帯を巻いた塗装に変更、さらにさらに更新工事が施工された編成は更新色や広島更新色に塗り替わり…と 塗装に関しては安定感が有りませんでした。 ちなみにですが一部図鑑や写真でにJRマークのない瀬戸内色の3扉クハが出てきますが、アレは全て民営化後の写真であり、民営化以前に瀬戸内色を纏った3扉の車両は一部のモハ114/115(3000番代の電動車扱い)のみでした

そして民営化したJR西日本は115系に新たな

活躍の場を用意しました。 それは混雑の限界に達した117系と入れ替わりに高速対応改造をしてJR京都線・神戸線における快速電車としての活躍でした。岡山で3両を組んでいた元・山男の300番台3両と1000番台のモハユニット、他諸々のメンツで堂々の7連を組み、たまに11連となる姿で113系に混じりながら極寒地向けの装備を見せつける走りでした。しかしながらそこは国鉄型 JRの時代になって新造される車両がふえていくと、次第に岡山に戻されたり、下関に転属したり、福知山でどう見ても115に見えない顔に整形されて走ったりと各地に散らばっていきました。この頃になると非冷房車はかなり数を減らしており、1992年にトップナンバーのクハ・モハが廃車 1996年に800番台が消滅、大部分が小山・新前橋・三鷹からの0番台であるが、なんとトチ狂ったのか300番台のモハユニットまで巻き添えで潰されていました。JR東日本でも300番台を大事に扱っていた頃だけに資料を読み間違えたかと焦りました

そうこうしているうちに阪神淡路大震災が発生 なりふり構わず車両を集めてきたJR西日本、その影響は山陽地区を走る115系にも出始める。瀬戸内色をまとった編成や岡山電車区の編成が関西に応援へ、少し経過した頃、広島でひっそり活躍していた103系を新たな活躍の場に持っていくため関西に回収されてしまった。この補填として、関西に居た救いようがない113系クハと冷房を積んでいないクハとそこら辺に転がっていたモハを組み合わせた初代G編成が誕生 JR西日本になってから10年、国鉄王国広島支社の迷走が徐々にだが着々と進んでいった。

1998年には更なる転機が訪れた。古い115系を末永く大切に使いましょう計画が発令された。関西の103系ともども接客設備が新車の207/223並みまで引き上げる改造を受けた115系は体質改善40Nと呼ばれる工事を受けた。しかし115系は115系 新車みたく取繕っても機器は115系 後年コレが裏目に出てくるとは誰も知らない。この改造と共に福知山に流された網干の中間車は115系とどこをどう見ても呼べないような顔つきで出場、舞鶴線に活躍の場を広げた。その後、特記するほどの転属は無く、21世紀を迎えた。

今回はここまで、次回は21世紀を走る115について書いていきます。

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存在が産業廃棄物

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