広東語カバーソング事典 概説 「広東語カバーソング」とは
初版 2024/09/16 22:33
改訂 2024/10/09 00:59
この項では「広東語カバーソング」の定義について考察したい。
「広東語」とは、主に珠江デルタ地域を中心に通用している中国語方言の一種であり、香港では英語と共に公用語として扱われている。同様に、香港に隣接するマカオにおいても広東語とポルトガル語が公用語とされている。その他の地域ではマレーシア, シンガポールなどの東南アジア及び世界に点在する華人社会に多数の話者がいる。本書を含め言語学的な厳密さを要求されない場面では、上位方言である「粤語」をも広東語として扱う場合がある。
なお本書は日本で一般的と思われる広東語の概念を想定しているので、もし言語学的な厳密さを求められるならば専門書を参照されたい。
「カバー(cover)」は外来語であり、本来は複数の意味を持つ英語で「覆う、隠す、含む」などの訳語があるが、残念ながら音楽分野における「カバー」の意味には適切な日本語訳が見当たらない(音楽分野での本来の意味は「代役」であると言う)。
広東語に限った事例ではないが、「カバーソング」を定義した記述は本邦において複数認められる。それぞれの言い回しに相違はあるものの、おおむね「過去にある音楽家によって発表され、認知されている曲を別の音楽家が歌唱または演奏する。歌詞の改変及び編曲の有無は問わない」と読み取ることができる。なお「カバー曲」という名称も存在するが、この場合は歌詞のない器楽曲を含むため、厳密に言えば「カバーソング」と同一の概念ではない。
言語の違いにかかわらずこの定義は有効と考えられるが、「広東語カバーソング」については考慮すべき点がある(後述する)。
さて、初期の「広東語カバーソング」と認知されうる楽曲の成り立ちは、近現代における本邦の法律的な常識とかけ離れているものがある。
日本を除く東アジア及び東南アジアでは、原曲(歌詞のない器楽曲を含む)の権利者に無断で現地語歌詞を組み合わせた楽曲を販売するという手法は、戦後から80年代前半ころまでは普通のことであった。なかでも中国語話者の多い地域、特に香港及び台湾では日本で発表された原曲を利用する事例がきわめて多く、ビジネスモデルの一つとして成立していた。これら地域・時代では著作権関連諸法の不備もあり、この手法を著作権侵害と認識するに至らない(つまり犯意がない)ことが多い。当時のレコード/カセットテープの歌詞カードには、作曲者名が明記されていない事例も多々ある(もっとも、現地音楽出版者がこれらの作曲者名について承知か不承知かは不明である。なお、これらの楽曲を「海賊版」と称する向きもあるが、歌詞及び編曲に独自性があるためこの呼び方は正しくない)。
これら楽曲の広東語歌詞は、一部を除きその内容のほとんどが原曲の日本語詞の意味とは無関係である。また、広東語が口頭言語である以上標準中国語の表現を借りる必要があり、本来の広東語とは文法的構造・語彙などの言い回しに若干の相違が見られる。例えば、「なぜ」を意味する単語「點解」は「為甚麽」に置き換えられて作詞される。会話的表現をそのまま使って作詞する場合もあるが、その歌詞は良く言えば庶民的で親しみやすく、悪く言えば下品と感じられることが多い。
先述の「カバーソング」の定義はシンプルであるが、筆者としては本書に適用するための「広東語カバーソング」の定義はもう少し深く掘り下げて考えたい。というのも、先述の定義には法律的な見解を(やむを得ないことではあるが)欠いているからである。端的に言えば、著作権の一部である翻案権及び同一性保持権の侵害(いわゆる「盗用」)についての言及がない。筆者はかねてより、盗用を伺わせる楽曲を「カバーソング」と呼ぶべきかどうかの判断を留保してきたが、先述の定義には盗用に言及した記述が見当たらないため、筆者の疑問は解消されない。
原曲の権利者の立場から鑑みると、初期に多く見られた「広東語カバーソング」と認知されうる楽曲は「カバーと言うよりは単なる盗用である」と解釈されるのが自然であろう。しかし、「盗用は著作権を侵害したカバーの一形態である」とする別の解釈も可能ではなかろうか。筆者は、本書に掲載する「広東語カバーソング」は盗用を伺わせる楽曲を含める必要がある、いやむしろ含めなければ成り立たないと考えた。
そこで本書に掲載する楽曲の条件は、筆者による上述の「別の解釈」も考慮に入れた上で「日本で発表された楽曲(日本語でカバーされた外国楽曲も含む)に広東語歌詞を組み合わせ、社会に認知されているすべての楽曲」とし、本邦における著作権を侵害した可能性のある楽曲も排除しないものとした(ただし、一部の楽曲の掲載は見送った。詳細は次項「掲載基準と凡例」を参照)。
よって、筆者はこの基準を本書における「広東語カバーソング」の定義としたい。これらの楽曲はごく一部を除き、筆者が原曲とカバーソングを実際に聴き比べた上で判断したものである。なお、これはあくまでも本書の定義であり、類似するほかの事例の定義付けを妨げるものではない。
この定義は筆者の個人的な判断に基づく部分があるが、本書を手に取られる各位にはおおむね納得していただけるものと確信している。
※本書は2024年3月18日にAmazonからオンデマンドで発売されました。
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