資料の補修(修復)を考える

初版 2024/03/24 02:24

改訂 2024/03/24 02:28

補修(修復)は、考古遺物や化石と言った資料と切っても切れない関係がある。

厳密には(化石界隈では)、破片接合をリペアー、先端部欠損の代替材補填等をリコンストラクションと呼ぶらしいが、ここでは簡単に補修(修復)とする。

確かに、完形品が出土する事も稀にあるのだが、基本的には非常に長い年月の間地中なり自然環境に埋没していたわけで、僅かにも破壊されない方が難しいと言うもの。

この界隈を趣味にしている以上では、補修自体をある程度許容せざるを得ないだろう。

当方の所有する、補修ありのメソポタミア土偶。右耳正面側や鼻尖が欠損ないし磨損しているのか、精巧な補修が為されており、画像のように全体を水に濡らすと補修箇所が石膏の様な質感で白く浮き出る。臀部背後〜脚部下部に掛けても補修があるようだが、軽微な磨損補修の為か地の土器部分と判別が難しい。全体に占める補修の割合は20〜30%程度か。

当方撮影の博物館資料(弥生土器)。特に考古学関係の学術資料においては、修正箇所の分かりやすい、白い石膏による補修が多くみられる。精巧な補修は特殊な技術のいる物で、誰でも手軽に行えるものでは無い。

ところで、化石界隈と古美術界隈では、明らかに補修品に対する姿勢の違いを感じる。

化石愛好家界隈では、無修復品(オールナチュラル)を好む傾向にあるようだ。より厳密な形態特徴を観察する為には、修復者による想像の余地を除外する必要のある為か。

一方で古美術の世界では、そのままの残欠よりも精巧な補修が為された完全体の方が人気のある傾向が見られる。見て楽しい美術品としての価値を求る傾向がある為か。

(なお純粋なアカデミズムである古生物学・考古学では、出土位置・層位・周辺環境などの状況も含めた厳密なオールナチュラルを少なくとも図像記録として集合知に残す必要がある、、、という事に留意されたい。)

もちろん、古美術界隈でも「補修率」は問題になるだろう。例えば真物部分が10%未満で、補修が9割となった場合には、誰しもさすがにやりすぎだという風に考えるからだ。

また、必要以上に過剰な装飾などを付加した場合もやりすぎと見做されよう。

やりすぎの補修は、ほぼ贋物と変わらないと考える見方もある。(東京大学総合研究博物館ニュースVolume16/No.3「巧妙な修復」等。)

当方所有の注口土器。オールナチュラルとして全く補修の無い残欠としての状態を見られる。

個人的な所感だが、「やりすぎの補修」を除いた適度な補修は、化石にしろ考古にしろ、ありだと考えている。

それは見た目が綺麗になると、こういう趣味の世界にあまり興味のない人からも支持を得やすくなる、という事が実際にあるからである。

例えば、派手さが無い甲殻類の部分化石資料などは、前提知識から全体を想像できるコレクターは良いと思っていても、全体像を想像できない人から「価値の無い石ころ」のそしりを受ける事がある。

ここで、精巧な補修を行い全体像を提示する事ができれば、価値のある物だったんだねとなり、我々の価値観が見直されるわけである。(これは実際に、一般層への啓蒙を目的とする博物館でも広く行われている事である。)

以上のような視点で、私は適度な補修に限っては、ありだと考えている。

今まで収集した考古資料・化石・鉱物標本等を紹介していきたいと思います。

特に考古資料の数は200点以上ありますが、大抵が非常に脆い為破損の恐れがあり、所有者の当方ですらあまり触れる事ができなくなっています。
この考古資料等をデジタルアーカイブとして残しておき、また当方だけでなく多くの人に鑑賞してもらいたいです。

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