「ない」アイテムのエピソード
「ない」アイテムのエピソードを書くってどうなんだろうと思いつつ・・・ 屈指の名展だった 国立新美術館開館10周年 チェコ文化年事業「ミュシャ展」 確かにミュージアムショップに立ち寄っているはずなのに(母がボヘミアングラスのセットを買ってるから間違いない)、 ポストカードは一枚もない。 買わなかったのか、買ったけど行方不明なのか。あるいはそもそも売っていなかったのか? 全く別の目的のために上京し、その帰路(翌日)、母がどうしても見たいというので足を伸ばして行った展覧会。 私も関心がなかった訳では無かったが、ミュシャといえば、の既知の作品(舞台ポスター等)のイメージを拭えなかったのと、 相当な混雑が予想され、 実は(帰宅後確認したところ)高熱を出していて体調が良く無かったこともあり、乗り気でなかった。 だが母には逆らえないので、やむを得ず行った、というような状況。 自分一人だったら行かなかっただろう。 しかし素晴らしかった。 なんといっても「デカい」ということで話題になった「スラヴ叙事詩」だが、 画家にあのサイズで描かせた背景にある思念が、まさに画面に残留していたかの如く、 のっけからドーンと爆風のように襲いかかってきて放心する。 感想を言葉にすることはできない。 繰り返しになるが、画家にああ描かせた背後にあるものの凄みを、黙ってただ浴びるだけ。 この展覧会だけ、不思議と手元に何も「痕跡」がない(前述のグラス以外)。 大概フライヤーとかチケット半券くらいは残すんだけど。 あまりに作品の(色んな意味での)大きさに圧倒されて、 それら一部を切り取ったり縮小したりしたポストカードなどに違和感を覚えた可能性はある。 よく、ポストカードを買ったり飾ったりする行為に対して、 「絵の代わりに安く買おうとする貧乏人の行為」といった批判が向けられることがあるけど、 もちろんそんな理由で買っているわけではない。 ポストカードには規格がある。その姿に変換させられたときに、「新たな作品として」価値が生じている、と思えばこそ惹かれるのだ。 そういう意味では、特に美術作品のポストカード化においては、 元の絵にいくら惹かれても、 いや惹かれれば惹かれるほど、 ポストカード化がうまくいっていなければ、買わない、ということは起こりうる。 紙の質だったり、絵の切り取り方、余白とのバランス等々の加工に、ポストカード製作者の創作が加わるので、 それが趣味と合わない→故に手に取らない、という不幸も時折は起きる。 (下は、自分好みに加工された例。横長の作品を、余白をつけず、変形横長ポストカードとかにしていたら買わなかったかも) フィンセント・ファン・ゴッホ「ドービニーの庭」 https://muuseo.com/RICCA/items/87 RICCA ミュシャ展は、「浴びる」ような絵だっただけに、放心状態で観覧を終えた直後、こじんまりと手に収まる違和感を強く覚えた可能性はあるかもしれない。