宮崎 駿 小考 ボクはシレっと待ってます。

初版 2023/07/24 13:55

改訂 2023/07/24 13:55

何年ぶりかで宮崎駿先生の新作アニメが劇場公開された。これについては個々の楽しみ方もあろうし、公開に至るプロセスも公開してからのものも、一貫性があり、劇場で見る方にとって語らないのがエチケットだろう。

ボクがいつも我ながら唖然とするのは、「もうこれが最後だ」という本音がいかにして本音たるのか、これをまた覆す、アニメ―タ―としての氏の本能的創作意欲についての巨大なマグマのような自然な意思の高まりを今回も感じてしまった事だ。

初期から後年の作品まで、それぞれに観客としての想い出はあるけれど、20数年を経ても新たな発見ができる。放置されても埃をかぶっても色褪せぬ作品というのは並大抵ではない。

一般的にアニメは登場人物、特にバイ・プレイヤーにはさほど沢山の役者を構えているわけではなく、プロットの変化によって彼の描く人物のキャラクターは様々な役回りをこなす。

執念深く小知恵が効く大尉さんが、パン屋の親方になったり、気の荒い炭坑夫になったりする。

豚やタヌキや河童はちょっと異質だけどね。こういうのは主役と言っていい必然性がある。

アニメ映画としてとても印象に残ったのは、あまりそれまでテレビでは観なかったルパン三世の『カリオストロの城』。

モンキーパンチの漫画はよく読んだけれど、テレビアニメは何処かぬるく、ほとんどセリフのない漫画の中の主人公の魅力は、視聴年齢を下げた以上望むべくもなかった。映画は、こっちの方は先生の真骨頂だね。

ストーリーの流れの中に組み込まれた幾重にも重なるプロット。善悪の一筋縄では行かない錯綜と一気に大団円に突き崩してゆくダイナミズム。支えているのは膨大な背景画と言葉である。

宮崎アニメの構造が垣間見えた。

そして登場人物の動きの新鮮さ。ルパンを襲う暗殺集団の動きは後年の英雄『ユパ』の闘いの動きそのもの。大胆で鷹揚。勧善懲悪のストイシズムが強く描かれた初期の作品から善と悪の背景を語らせつつストーリーに流してゆく後年の作品に受け継がれてゆく。

人間的にストイックな悪人は出てこない。

誰かの純粋さに動かされて変化してゆく人間的な矛盾と揺れを心に持っている登場人物が少なくない。

ちょっとひねくれた人間愛に満ちている。

そういう物語を密度の濃い人物や背景の動きで支えてゆく

アニメーターとしての仕事は、絵コンテだけではなく、これを数万枚のセルに描き込んでゆく膨大であるが故に、妥協しやすく、機械的になりがちの作業を自戒しつつ、自分のイメージの到達点に引っ張ってゆく。膨大なエネルギー。

全てが忍耐を必要とし、色彩感覚は倦んでゆく心と別のところで働かさなければならない。

ジプリの作品は、そこに0と1の数字の羅列が産むクリアで汚れのない画像の展開を頑なに拒んできた。

例えば10枚の葉がついた木の枝がある。

風がその枝の付け根から先端に向かって1枚目の大きい葉から先端の若い小さな葉先まで吹き過ぎてゆく。

数瞬でそれぞれの葉は葉先に向かって勝手な方向にめくれ、その角度により葉裏と葉表に均等に光が当たる。

風の当たってゆく順番に光と緑は極限の色の濃淡の選択の中で、おそらく、凡百のコンピューターグラフィックスがあっという間に創り上げてゆく、製作の規則性とは相容れぬ作業の中で生まれる。

そこには制作者であるアニメーターが満足するだけの膨大なセル画が費やされる。

全てが手作業である。

アナログの作業が続き、それは一枚の葉の動きが重ねられるセルの中で生まれる微妙なズレに助けられ、生きた風が当たっているかのように震え、翻る。

それは自然の持つ曖昧さを深いところで支えている。コンピュータの明確な数値からはじかれた動きのダイナミズムと精度からは生みようがない偶然である。

それを自分の中に取り込み、納得して次に進む。全く、何という頑迷で、気の遠くなるような作業だろうか。

後年、ひとつの作品を作り終えるたびに『もう、やらない。アニメは終わりだ』と引退発言を繰り返していた宮崎氏の気持ちが痛切に伝わってくる。『冗談じゃネエや』と思うんだろうネ、その時は。

でも、作り終えたら、また次の熱に囚われる。

そんな作業をどう組み立て、どう自分の体力と精神的な持続力と相談しながら進んでゆくか。

設定したゴールまでのプロットを重ねたストーリーの終わりにまで続く疲労感に堪えられるか。綱渡りのような毎日だったろうね。

彼が激怒した『ゲド戦記』。それは彼が長年プロットを何度も組み直し、暖めてきたものだと思う。物語の膨大さを自覚し、どこから創り上げるか様々なことを抱え込んで想定しているときに、自分の息子がさっさと大省略版を作ってしまった。

悔しかったろうねえ。あんなに簡単に作られたら。

暖め過ぎた卵は孵ることはなかった。母鳥はあっさりとその冷たい卵の上から立ち上がった。

『動くハウルの城』はボクにはまだよくわからない作品。

宮崎氏がどの辺でこの作品に納得されているのか、正直わからないままです。

描かれたいくつかの正義のあり様の違いがそれそれの生存するものの立場から妥協出来ない形で呈示されていた。正当防衛(正対不正)の関係ではなく、緊急避難(正対正)の関係に全てにわかりやすい解決を与えることはできなかった。

『もののけ姫』では解決に行く前に『神』=自然=だいだらぼっちによって幕が引かれ、それを各々の立場の人間や動物が大きな結論の中で生きることでそれぞれの立場を自覚した。ハウルでそれと違ったものがあったのか…

アニメーションは実写で役者が演じると絵空ごとになってくる。

個々の役者の作り込んだ役の背後にある人間が真っ直な内容を複雑なものに変えてしまう。それを役者の存在感と言い換えてもいい。

アニメのキャラクターにはその存在感というものがない。

リアリティを生むものは実写よりもいっそう背景が負うところが大きい。アニメの登場人物の表情にはその時点が写るだけで、深い中身や背負った過去などは声優の声や物語が創ってゆく。

戦争を描くと表現者としては結論に直接結びつけることが簡単になってしまって、その中に描きたかった生き物の矛盾はキャラクターの平面的な表情からは滲み出るものではない。苦しんだと思うね、宮崎さん特にハウルでは。

『もうやめだ。もう、たくさんだ。こんなしんどい仕事はこの年でやれる仕事ではない』と思いつつ仕上げてきたんだろうね。

職人の芸にはその葛藤が微塵も見えるわけではないけれど、平穏が訪れた後、再び表現者として年齢に関係なく湧いてくる『熱』をどううっちゃってゆくのか、心配するのは大きなお世話だろうね。

今回もその熱が完全に冷めきったとはボクには思えない。

「またやるよきっとこの人」

ジャン=ジロー作品がYouTubeで拾えた。昔から宮崎先生に影響を与えた漫画家ですが、ナウシカ辺りでは一番明瞭に見えます。

ジャン・ジローは漫画家としての名前はメイビウス(メビウス)という名で知られている。

古生物を中心に動物(想像上のもの)を含め、現代動物までを描くイラストレーターです。
露出度が少ない世界なので、自作の展示と趣味として行っている地元中心の石ころの展示を中心に始めようかと思っています。
海と川が身近にある生活なので気分転換の散歩コースには自然が豊富です。その分地震があれば根こそぎ持っていかれそうなので自分の作品だけは残そうかとAdobe stockを利用し、実益も図りつつ、引退後の生活を送っております。
追加ですが、
古いものつながりで、音楽についてもLabを交えてCD音源の部屋をつくっています。娘の聴いてるような音楽にも惹かれるものがありますが、ここではクラッシックから近代。現代音楽に散漫なコレクションを雑多に並べていきながら整理していこうかと思っております。走り出してから考える方なので、整理するのに一苦労です。

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