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1967 21ST SPARK COOPER T81B J.ICKX
F1通算8勝 ジャッキー・イクス デビュー COOPER T81B ジャッキー・イクス ベルギー出身 父のジャック・イクスもレースドライバーで 後にモータージャーナリストとなった 1967年イクスは3勝でヨーロッパF2チャンピオン ペドロ・ロドリゲスのケガにより クーパーのワークスからF1参戦 エンジンはマセラティ 1967年~1979年まで13年間F1に参戦 初戦R9イタリアGP クーパーで旧マシンCOOPER T81B 予選15位から完走僅か7台の サバイバルを生き残り6位入賞 イクスの生涯入賞は40回(出走114回) R10アメリカGPではリタイアに終わったが 参戦初戦入賞が評価されてイクスは 翌1968年フェラーリのドライバ―に抜擢 モデルはSPARK イクスの初戦入賞したイタリアGP仕様 大きなカーナンバー32に クーパーの特徴でもある白い2本のライン この時はヘルメットは イクスの印象の強い黒ではなく青
230910 J.ICKX 1967 32FW12C
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1961 (22ND) SPARK (UDT LAYSTALL RACING TEAM) LOTUS 18 C.ALLISON
クリフ・アリソン 最後のGP プライベーター LOTUS18 クリフ・アリソン イギリス出身 1958年ロータスでデビュー 1959・1960年はフェラーリでスポット参戦 1960年開幕アルゼンチン 2位表彰台 最高位2位のドライバ―の1人 1961年はプライベーターUDT LAYSTALLで LOTUS18のマシンを購入して参戦 開幕モナコGP予選15位→決勝8位 R3ベルギーはエントリーするも走行せず アリソンはこの年でF1から引退 この年LOTUSの車は本隊を含めて 22名ものドライバ―が使用 アリソンのマシンはF1では珍しい キレイなライトグリーンカラーリング 🏁クリフ・アリソン (イギリス) 【決勝出走数】11回(入賞3回-表彰台1回) 【予選最高位】 5位 1958年 LOTUS R7イギリス 【決勝最高位】 2位 1961年 FERRARI R1アルゼンチン
230610 C.ALLISON 1961 32FW12C
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1975 (35TH) PMA (LEXINGTON RACING) TYRRELL 007 I.SCHECKTER
同一マシンによる兄弟同時出走 シェクター兄 イアン TYRRELL 007 イアン・シェクター 南アフリカ出身 弟は1979年ワールド チャンピオン ジョディー・シェクター 1974年スポット参戦デビュー 1975年もプライベター LEXINGTON RACINGでティレル007の マシンでR3地元南アフリカGPに出場 弟ジョディーもこのGPにティレル本体で ティレル007のマシンで出走 史上唯一の同一マシンによる兄弟エントリー 弟ジョディーはこのGPに見事優勝 兄イアンは残念ながら55周でリタイア 同年イアンはR7スウェーデンR8イタリアGPを ウイリアムズで参戦 最高位は決勝12位
230321 I.SCHECKTER 1975 1.008FW12C
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1975 (30TH) SPARK (POLAR CARAVANS) HESKETH 308 T.PALM
トルステン・パルム スウェーデン出身 生涯2戦限り参戦 HESKETH 308 1975年 プライベートチーム ポーラー・キャラヴァンズでヘスケスのマシン 2戦限り参戦 トルステン・パルム R5モナコGPは予選落ち R7スウェーデンGP 予選21位で通過 地元の利を生かし決勝10位で完走 このGP他にHESKETH 308の車体で2名参戦 ジェームス・ハント 予選13位→決勝リタイア アラン・ジョーンズ 予選19位→決勝11位 予選では敗れたが決勝では最上位であった トルステン・パルムの生涯F1はこのGPのみ くまのイラストが描かれ プライベートチームの名称となっている POLAR CARAVANSは1964年設立の スウェーデンのキャンピングカーメーカー 同郷のロニー・ピーターソンの プライベートスポンサーでもあり ピーターソンのヘルメットにも 同社のロゴが貼られていました #F1-1975年
230227 T.PALM 1975 32FW12C
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1978 (29TH) PMA THEODORE WOLF FORD WR3 K.ROSBERG
初代フライング フィン ケケ・ロズベルグ F1デビュー 1978年K・ロズベルグのデビューイヤー セオドールとATSを渡り歩く1年 R3南アフリカGP セオドール(TR1)でデビュー R6スウェーデンGP ATS(HS1)に移籍 R11ドイツGP セオドールに戻り ウルフのマシンWR3 で参戦 (モデル台紙のWR1表記は間違い) このドイツの決勝10位がシーズンベスト R15アメリカEGP 再びATSに戻り ATS(D1)のマシンで終盤2戦を参戦した セオドール9戦 予選落1回 予備予選落4回 予選最高 19位 決勝最高 10位 ATS 5戦すべてで決勝進出 予選最高 15位 決勝最高 15位 デビューイヤーはマシンにも恵まれず 翌1979年はレギュラーシートを失い ウルフ(本体)から途中参戦 #1978年
230112 K.ROSBERG 32 1/43FW12C
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1981 (22ND) SPARK OSELLA FA1B J.P.JARIER
オッゼラチーム参戦2年目2台体制 ベテラン ジャン・ピエール・ジャリエ起用 1981年オッゼラは2シーズン目2台体制に変更 1台はB・ガビアーニがフル参戦 もう1台はM・A・グエラ➡P・ギンザーニ➡ G・フランチャ➡J・P・ジャリエの4人の起用 ジャリエは1971年より参戦でこの年で 10シーズン目(1972年は未参戦) ジャリエは2戦目までリジェで参戦 R9イギリスGPよりオッゼラで起用され (モデルはR9イギリスGP仕様) R9・続くR10ドイツを8位で完走 これがオッゼラでのベストリザルト TMのガビアーニが全戦予選落ちの中 7戦中4戦完走で翌1982年もオッゼラ残留 年間ではリジェ時代の7位が決勝最高位 オッゼラFA1Bは前年度の後半から使用され 先代FA1よりダウンフォース改善と軽量化実施 エンジンはコスワースDFV タイヤはミシュラン ギヤはヒューランド スイスの香水関連DENIMのロゴが目を引く1台 #F1-1981年
J.P.JARIER 1981 32 1/43FW12C
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1976 (37TH) SPARK (RAM) BRABHAM BT44B L.KESSEL
ロリス・ケッセル スイス出身 自身唯一の完走 チームRAM初参戦 1983~1985年までコンストラクターとしても 参戦したイギリスのチームRAMは 1976年ブラバムのマシンBT44Bを購入し R4スペインGPより参戦 ドライバーはL・ケッセル R4スペインGPは予選落ち R5ベルギーGP予選23位→決勝12位 この成績はどちらもケッセルのキャリアベスト 5戦出走して2度の予選落ち 完走は1回 このマシンはスイスの時計ブランド TISSOTがはじめてF1でスポンサーに付き 同郷のクレイ・レガッツォーニとも 親しかったケッセルをサポート TISSOTはこの後70年代~90年代にかけて エンサイン ルノー リジェ ロータス ザウバー 様々なチームのスポンサーとなり個人的にも 印象的なスポンサーロゴの1つであった マニアックマシンをリリースする RACE LANDの別注モデル 限定300台 #1976 #F1-1976年
L.KESSEL 1976 300 32FW12C
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1/50 TINY MINI COOPER RACING #32 CLASSIC RACING
#MINI #MINICOOPER
CLASSIC RACING 32 1/50 TINYFW12C
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1994 (34TH) PMA SIMTEK FORD S941 R.RATZENBERGER
ローランド・ラッツェンバーガー オーストリア出身 日本では全日本F3000や ツーリングカー選手権で活躍 F1新規チームシムテックとは 5戦の契約(序盤4戦+鈴鹿) 画像2枚目の初期版は流行の サイドディフレクターが装備 しかしローランドの搭乗時は 本来は未だ装着されておらず 画像1枚目ディフレクター無しの ニューバージョンで 再販された珍しパターン (ドライバ―フィギュアも変更) ローランド亡き後 S941は 彼を偲び【for ROLAND】と 入った彼のヘルメットの デザインされたインダクションポッド 上段になった(画像5枚目) 画像2枚目の初期版はMuuseoではおなじみの 【アダムスキー(当時はサイケデリア)】で購入 2009年6月20日 2500円 #1994 #ラッツェンバーガー #F1 #アダムスキー(サイケデリア)
R.RATZENBERGER 32 1/43 SIMTEKFW12C
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1991 (31ST) PMA JORDAN FORD 191 A.ZANARDI
R14スペインGPよりR.モレノに代わり A.ザナルディがデビュー 予選20位→決勝9位完走 R15日本GPでは7UP→PEPSIに変更 これは日本で7UPがあまり 流通していなかった為 スポットでUSEN440と日清製粉が 日本GPではスポンサーサポート FUJIFILM SHOEIなど多くの ジャパンマネーが支えています 最終戦のオーストラリアでは 再び7UPにもどっています(画像4) #1991 #F1
A.ZANARDI 32 1/43 JORDANFW12C
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1991 14 PMA JORDAN FORD 191 M.SCHUMACHER
ミハエル シューマッハ デビューマシン 1戦限りのジョーダン191 #F1-1991年
M.SCHUMACHER 2.000 32 1/43FW12C
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1991 13TH PMA JORDAN FORD 191 B.GACHOT
国際F3000で成功したEJRが ジョーダンGPとしてF1に進出 前年度コローニから ベルトラン・ガショーが移籍 チームメイトはA・チェザリス オフシーズンのテストがら 高いパフォーマンスを披露 フォードHBエンジンを獲得し メインスポンサーは7up 鮮やかなグリーンとブルーに 彩られたマシンには印象的 開幕戦アメリカGP ガショーが 予備予選4位➡予選は4位➡決勝10位 モデルはジョーダンその初GP出走モデル R5カナダ5位 R8イギリス6位 R7ドイツ6位 R8ハンガリー FLと順風満帆 しかしガショーはタクシー運転手に 痴漢撃退スプレー噴射事件を起こし逮捕 チームを解雇されたがこれが M・シューマッハのデビューにつながる 1年目にセンセーショナルな印象を残した ジョーダンGPは2005年まで15年間活動 #F1-1991年 #F1
B.GACHOT 32 1/43 JORDANFW12C
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1991 10TH PMA JORDAN FORD 191 R.MORENO
ベネトン解雇のロベルト・モレノ ジョーダン2戦のみの出走 1991年途中ベネトンを解雇された持参金を元に M・シューマッハと交換の形で ジョーダンに移籍します R12イタリアGPモンツァでは TMのチェザリス(14位)を 上回る予選9位を獲得も決勝はリタイア 出走は次戦R13ポルトガルと2戦のみで ザナルディにシート奪われます 残念ながら前年感動の2位の鈴鹿には 戻ってこれませんでした 最終戦オーストリラはミナルディから出場 こちらのモデルはA・チェザリス B・ガショーの GP仕様のニューリリース時の発売 限定数が220とかなり少ないモデル ONYXはなぜか日本GP仕様のPEPSIになってます #1991 #F1
R.MORENO 220 32 1/43FW12C
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1992 17TH PMA JORDAN YAMAHA 192 S.MODENA
最終レースでポイント 3度目の年間17位 ステファノ・モデナ JORDAN YAMAHA 192 1992年モデナはジョーダンに移籍 チームメイトはマウリシオ・グージェルミン 前年参戦初年度ながらコンストラクター 5位と好調だったジョーダン 新たにYAMAHAエンジンと SASOL BARCLAYなどスポンサーを得て さらなる飛躍が期待されたが一転不振 モデナは開幕戦含む4回の予選落ち 後半戦何とか立て直し R15日本GP 鈴鹿予選17位→決勝7位 最終戦 得意の公道レース オーストラリア(アデレード) 予選15位→決勝6位入賞 モデナとチームが何とか無得点を逃れた レースがモデナのF1最終70戦目 参戦6年で3度目の年間ランキング17位 HONDA YAMAHAと2年連続の日本エンジン使用 したモデナは引退後も日本と関係が深く ブリヂストンのテストドライバーとして 市販車の開発に携わった #CAREER-ACHIEVEMENTS 🇮🇹ステファノ・モデナ(イタリア) 【決勝出走数】70回(入賞6回-表彰台2回) 【予選最高位】②位 1991年 TYRRELL R4モナコ 【決勝最高位】②位 1991年 TYRRELL R5カナダ 【年間最上位】❽位 1991年 TYRRELL 10ポイント 244
S.MODENA 1992 2.088 32FW12C