-
1977 19TH SPARK LIGIER JS7 J.P.JARIER
1977年日本GP リジェ初の2台体制 ジャンピエール ジャリエ LIGIER JS7 1977年 最終戦日本GP 富士SW この年ジャック・ラフィーで初優勝を 果たしたリジェは初の2台目をエントリー ドライバーはジャンピエール・ジャリエ ジャリエは当年ATSで出場し R4アメリカWESTで6位入賞 その後途中チームを離脱 シャドウで1戦出場し最終戦のみリジェ 慣れないマシンに手こずり予選17位 決勝は3周目にマトラエンジンが壊れリタイア チームメイトのラフィーが5位入賞をしている ジャリエはこの後2度リジェに所属 1981年2戦のみ1983年レギュラーで参戦も リジェでのポイント獲得は出来なかった モデルはスパーク 日本GP仕様 予選17位→決勝リタイア スパークの初期頃生産 シルバースリーブ タバコブランド GITANES仕様 リジェでは唯一となるカーナンバー27 27番は翌1978年~アラン・ジョーンズがつけ 1980年ウイリアムズに初栄冠をもたらし 1981年はジル・ヴィルヌーブが付けて その後 所謂フェラーリのカリスマ ナンバーとなった
240220 J.P.JARIER 1977 27FW12C
-
2022 (22TH) SPARK ASTON MARTIN AMR22 N.HULKENBERG
困った時のニコ・ヒュルケンベルグ 代役出場 ASTON MARTIN AMR22 2022年前年に続きアストンマーティンで リサーブドライバーのヒュルケンベルグ レギュラードライバ―の セバスチャン・ベッテルが新型コロナ感染 した為急遽 開幕戦とR2に出場 2020年のレーシングポイント時代に セルジオ・ペレス/ランス・ストロールの 体調不良で代役出場以来のF1レース 開幕戦バーレーンGP決勝17位 R2サウジアラビアGP決勝12位で ポイント獲得ならず これにより実力者ながらF1参戦より 表彰台無し記録が181戦まで伸びた 翌2023年は通算のべ9チーム目となる ハースでレギュラードライバ―復帰する モデルはスパーク 開幕戦バーレーンGP仕様 予選17位→決勝17位 予選ではチームメイト ランス・ストロース(19位)を凌いだが 決勝ではストロールが上回り12位 #2022年
231228 N.HULKENBERG 2022 27FW12C
-
1980【WORLD CHAMPION】PMA WILLIAMS FW07B A.JONES〖🏆5〗
🔲🔲🔲1980🔲🔲🔲 👑WORLD CHAMPION👑 WILLIAMS FW07B 🟦🟦A.JONES🟦🟦 🔲🔲🔲全14戦🔲🔲🔲 【出走】14回【PP】3回 【優勝】 5回【FL】5回
230829 A.JONES 1980 5回FW12C
-
1986 9TH IXO FERRARI F186 M.ALBORETO
フェラーリ3年目の不振 アルボレート FERRARI F186 1986年フェラーリは前年の156/85を基に 修正を加えたF186を開幕戦から投入 設計にコンピューター支援設計CADを導入 コックピット内をデジタルメーターに変更 頭上のロールバーをエンジンカウルで覆い リアウィングへの整流などを実施 前年度チャンピオン争い最終年間2位の アルボレートは一転不振のシーズン 表彰台はR12オーストリアの2位のみ 入賞も4回で14P 年間順位は9位 チームメイトのステファン・ヨハンソン (23P 年間順位5位)にも敗れた マシンに失望したアルボレートは 当時N・ピケとN・マンセルの不仲が 表面化したウイリアムズ・ホンダに 移籍を企て2人のどちらかが移籍の場合 ウイリアムズに加入が決まっていたが 最終的にどちらも移籍せずに 翌1987年もフェラーリに残留 F186のアルボレート車は量販化が無い為 HACHETTE(IXO)フェラーリF1コレクションの ヨハンソン車→アルボレート車に修正 PMAのチェッカー台紙に載せ替え実施
230616 M.ALBORETO 27 1/43FW12C
-
1973 (35TH) SPARK (PIERRE ROBERT) MARCH 731 R.WISELL
レイネ・ウィセル プライベーターで スポット参戦 MARCH 731 レイネ・ウィセル スウェーデン出身 1970年事故死したヨッヘン・リントの後 ロータスで参戦 初戦で3位表彰台獲得 1973年はプライベーターで2戦のみ 車体はマーチ731 エンジンはフォードV8 地元R7スウェーデンGP ピエール・ロベルトのチーム キレイなイエローのマシン 予選はSTPマーチワークスの ジャン・ピエール・ジャリエを破り14位 しかし決勝はサスペンショントラブルで 1周もできずにリタイア 台座のNQ(予選落)は間違いと思われる このスウェーデンGPは初開催 ポール・ポジションスタートの 地元ロニー・ピーターソン(ロータス)が トップ快走も残り3周でタイヤトラブル デニス・ハルム(マクラーレン)が逆転優勝 ピータソンは惜しくも4秒差の2位 冠GPスポンサーで日本の日立が付いていた 1973年マーチの車体は1GP最大で4人 延べ7人のドライバ―が使用したが ポイント獲得はヘスケスのJ・ハントのみ #F1-1973年
230222 R.WISELL 1973 27FW12C
-
1978 11TH PMA WILLIAMS FW06 A.JONES
新生 ウィリアムズ・グランプリ A・ジョーンズ1台体制 WILLIAMS FW06 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズを ウルフに手放したF・ウィリアムズは パトリック・ヘッドとともに新チームを設立 ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング として再出発 1978年は自製シャーシFW06 ドライバ―は前年度シャドウで初勝利の アラン・ジョーンズ1台体制 サウジアラビア航空のスポンサー獲得 FW06は保守的な設計であったが R4南アフリカで4位入賞 R15アメリカWでは初の2位表彰台 さらに2度のファステストラップも記録 初年度として上出来の3度の入賞 翌1979年はA・ジョーンズは残留 C・レガッツォーニとともに2台体制となった #F1-1978年
230123 A.JONES 1978 2回FW12C
-
1975 14TH SPARK PARNELLI VPJ4 M.ANDRETTI
アメリカチーム パーネリ本格参戦 チーム唯一のFL 最高4位 PARNELLI VPJ4 1974年終盤参戦のパーネリは 1975年本格参戦 ドライバ―はM・アンドレティ しかし大きな支援があったタイヤメーカー ファイヤーストンが撤退 タイヤをグッドイヤーに変更した それでもR4スペインGPでは 予選4位から途中10週ラップリーダーと ファステストラップも記録(結果はリタイア) R7スウェーデンGPは4位入賞 これはチームパーネリの最高成績 モデルはそのスウェーデンGP仕様 R9フランスGPも5位入賞 アメリカのレース優先の為2戦欠場したが 予選最高4位と2度の入賞 本格参戦1年目としては上々の成績だが 資金難でマシンの開発は進まず 翌1976年序盤でチームは撤退する #F1-1975年 #F1
221211 M.ANDRETTI 1975 1回FW12C
-
1981 7TH HOT WHEELS FERRARI 126CK G.VILLENEUVE 〖🏆2〗
フェラーリ初のターボエンジン 126CK ジル・ビルヌーブ最後の勝利 1981年フェラーリは312Tシリーズから 新たに126シリーズを開発 126はバンク角120度のV6エンジンの略 ジョディー・シェクターが引退 エースとなったG・ビルヌーブは ナーバスな操縦性のマシンに苦しんだが R4サンマリノGPでPP&FL (決勝は7位) R6モナコGP R7スペインGPで連勝 前年度の不振からの復活を印象づけた 結果的にR7スペインGPでの勝利が ビルヌーブ最後の通算6勝目 チームメイトはディディエ・・ピロー二 決勝のポイントでは25Pvs9Pと圧勝したが 予選はピロー二に負ける事も多かった中 運命の1982年をむかえる #F1-1981年 #F1
221102 G.VILLENEUVE 1回 5.000FW12C
-
1966 12TH SPARK EAGLE CLIMAX T1G D.GURNEY
F1通算4勝 ダン・ガーニー チーム AAR イーグル設立 ダン・ガーニー アメリカ出身 1962年 ポルシェ 1964年 ブラバム それぞれ初勝利をもたらしている 1966年アングロ・アメリカン・レーサーズ 後のオール・アメリカン・レーサーズ設立 F1での登録コンストラクター名はイーグル クライマックス エンジンで R2ベルギーGPでデビュー(モデル仕様) R3フランス R9メキシコ それぞれ5位入賞 1966年参戦初年度 年間順位は12位 翌1967年はウェスレイクのエンジンで R4 ベルギーGPで優勝を飾る 過去のインディアナポリスGPを除くと アメリカ系コンストラクターの初勝利 ガーニーはこの年ル・マン24時間レースで A.J フォイトと共に優勝 この時の表彰台でシャンパンを振りまいたのが スポーツ史における最初のシャンパンファイト と言われている
221005 D.GURNEY 27 1/43FW12C
-
1976 6TH SPARK PERNELLI VP J4B M.ANDRETTI
アメリカンチーム パーネリ F1最後のマシン PERNELLI VP J4B パーネリは1963年のインディ500勝者 パ-ネリ・ジョーンズらによって設立 F1は1974年の終盤2戦より参戦 ドライバーはM・アンドレッティ 開幕戦のブラジルGPをチームは欠場 M・アンドレッティはロータスで出場 2戦目の南アフリカGP(モデル仕様) 昨年の改良型のVP J4Bで参戦 予選13位から決勝6位入賞を果たす しかしパーネリは前年度でスポンサーの タバコブランドViceroyが撤退 R3アメリカWESTを最後にF1から撤退 F1参戦はわずか16戦のみであったが M・アンドレッティのドライビングもあり 予選最高3位 ファステストラップ1回 決勝入賞3回(4位 5位 6位)を記録している アンドレッティはR4スペインGPより 再びLOTUSに加入して1976年を戦い この後1980年まで5年間所属します #F1-1976年 #アンドレッティ #F1 #PERNELLI #1976年
M.ANDRETTI 1976 27 1/43FW12C
-
1995 5TH PMA FERRARI 412 T2 J.ALESI〖🏆1〗
F1参戦 91戦目 ジャン・アレジ 最初で最後の勝利 FERRARI 412 T2 1995年初優勝3人の1人目 1995年6月11日 奇しくも アレジ 31歳の誕生日 R6カナダGP アレジの最も尊敬する ジル・ビルヌーブの名称のサーキット M・シューマッハ(ベネトン)が58周目に トラブルで後退 残り11周を約30秒の マージンを受けてトップを走行 観客がサーキットになだれ込む中 前が見えなくなるほどの涙の チェッカーフラッグ 参戦91戦目は当時の2番目の 初優勝までの遅い記録 (1位は95戦 T・ブーツェン) 結果的に最初で最後の優勝となった その約20日後に前妻との離婚が成立して 後藤久美子との婚約が発表された (ゴクミ当時21歳 現在まで事実婚のまま) フェラーリでの5年間は年間順位 7位→7位→6位→5位→5位 シューマッハのフェラーリ移籍に伴い アレジはベネトンに移籍 1995年初優勝の3人は (J・ハーバート D・クルーザード) 全員翌年 他チームへ移籍となった #F1初優勝 #1995
J.ALESI 1回 27 1/43FW12C
-
1983 4TH IXO FERRARI 126C2B P.TAMBAY 〖🏆1〗
パトリック・タンベイ ベストシーズン 1983年 フェラーリ 126C2B 前年度よりフェラーリに残留 TMはR・アルヌーのフランス人コンビ 前半は昨年の改良型126C2Bで参戦 ポスルズウェイト設計のアルミハニカムを 使用したモノコックシャーシ 120度のV6ターボエンジン R4サンマリノGP トップのR・パトレーゼ(ブラバム)が ファイナルラップのクラッシュで タンベイが通算最後の2勝目を上げ 前年に他界し友人でもあった G・ビルヌーブに再び勝利を捧げた 126C2Bの最後のR8カナダGPでは 自身初のファステスト・ラップを記録 PP4回 優勝1回含む表彰台4回 年間順位4位はタンベイのベストシーズン フェラーリの2年連続のコンストラクター チャンピオンに貢献した TMのアルヌーは3勝ランキング3位 翌年はフェラーリ待望のイタリア人 M・アルボレートの加入が決まり タンベイはフランスチーム ルノーに移籍 #F1-1983年
P.TAMBAY フェラーリF1コレクション 1回 27FW12C
-
1979 3RD PMA WILLIAMS FW07 A.JONES〖🏆4〗
1979年 後半戦の主役の1台 FW07 1979年ウイリアムズは 中東のスポンサーサウジアラビア航空や 後にHeuer社を買収するTAGなどの支援を受け 2台体制でのエントリーとなる エースドライバーはアラン・ジョーンズ R5スペインGPから新車FW07を導入 パトリック・ヘッドが主導した ウイリアムズ初のグランドエフェクトカー 序盤は苦戦するも R9イギリスでポールポジション (ウイリアムズチームにとって初のPP) R10ドイツで勝利するとそこから3連勝 R14カナダではPP→FL→優勝 後半だけでPP3回 4勝して ドライバ―年間順位も3位 コンストラクタ―も2位に躍進 優勝のシャンパンファイトは 禁酒の中東系のスポンサーを配慮して オレンジジュースで行われた(画像7) 弱小のプライベートチームから 1980年~1990年の常勝チーム 黄金時代へと変貌するきっかけとなる1台 #F1-1979年 #WILLIAMS #F1
A.JONES 1回 27 1/43FW12C
-
1973 8TH SPARK MARCH 731 J.HUNT
J・ハントのデビューマシン イギリスのレース好きの青年貴族、 アレクサンダー・ヘスケス卿が設立の ヘスケスでの参戦 この年シャーシはMARCH 731 R6モナコGPより出走 予選18位→決勝9位 マーチのワークスが苦戦の中 ヘスケスはハーベイ・ポスルスウェイトを 引き抜きヘスケスのマーチ731を モディファイして戦闘力が上がる R8フランス6位 R9イギリス4位 R10オランダ3位 3戦連続入賞 最終戦アメリカで2位を獲得 途中参戦ながら年間順位は8位 ヘスケスはスポンサー無しを美徳として 自らの私財を投入しながら 初年度より表彰台の結果を残し 何と言ってもハントの好走が光った #F1-1973年 #F1
J.HUNT 1973 2回 27FW12C
-
1994 5TH PMA FERRARI 412 T1 J.ALESI
1993年後半より戦闘力の上がったフェラーリ 1994年はジョンバーナードの412 T1を投入 往年の312Tシリーズを連想させるネーミング 412は4バルブ12気筒 名車に類似した命名 J.アレジはフェラーリ4シーズン目 開幕3位入賞もケガによりR2・3は欠場 R8イギリスで2位が最高位 R12イタリアでは82戦目にして 初のPPをフェラーリ地元で獲得 決勝では15週目まで3位以下を 2位のG・ベルガーが抑えて独走も ピットストップ後トラブルでリタイヤ ティレルで鮮烈デビューのアレジも F1 6シーズン目 30歳を迎えていた ONYXは前半戦仕様の412 T1 (画像5) R7フランスで登場の412 T1B(画像6)の 2種類が発売 T1Bはレインタイヤ仕様 #1994
J.ALESI 27 1/43 FERRARIFW12C