-
1977 2ND PMA WOLF FORD WR3 J.SCHECKER〖🏆3〗(GP ARGENTINEN)
ウルフ初戦勝利の快挙 アルゼンチンGP ジョディー・シェクター WOLF WR1 それまでフランク・ウイリアムズの スポンサーであったカナダの 石油王のウォルター ウルフが 半ば強引にチームを買取 ウォルター ウルフ レーシングを立ち上げた ウルフWR1は所謂キットカー ポスルズウェイトが設計をまとめ上げ 当初から起用予定のドライバ― ジョディー・シェクターの体格に合わせて コックピットが造られている 迎えた開幕戦アルゼンチンGPで 予選10位から上位陣の脱落にも助けられて 残り6周でトップに立ちまさかの優勝 F1創成期の1950年代を除いた場合 参戦チーム初戦での勝利は 1977年のウルフと2009年のブラウンGPのみ モデルはミニチャンプス 開幕戦勝利のアルゼンチンGP仕様 他にミニチャンプスのWOLF WR1のモデルは オールドモデルでは珍しく 〇3勝目をあげたR16カナダGP 〇最終R17TAMIYAがスポンサーの日本GP 3種類が発売された https://muuseo.com/FW12C/items/1825
250306 J.SCHECKTER 1977 2回FW12C
-
2001 (22ND) PMA MINARDI EUROPEAN PS01 T.MARQUES
アロンソにランキングで勝ったドライバー タルソ・マルケス MINARDI EUROPEAN PS01 2001年タルソ・マルケス(ブラジル)は 4年ぶりにミナルディにF1ドライバーで復帰 チームメイトはフェルナンド・アロンソ 4年前の1997年のチームメイトは片山右京 予選では新人アロンソに2勝12敗 決勝ではシングルフィニッシュが無かった アロンソに対しマルケスは混戦生き残り 2度の9位でのフィニッシュ 決勝9位はマルケスのキャリアベスト 年間ランキングでは(22位)で アロンソ(23位)を僅かながら上回った マルケスはR14ベルギーGPを最後に 大きなスポンサー資金を持ち込んだ アレックス・ユーン(マレーシア)に ミナルディのシートを奪われた 翌2002年はチームプロストを買収した フェニックスと契約するも チームの参戦は認められず マルケスのF1キャリアも終了した モデルはミニチャンスプ GP表記の無い RACE仕様 エンジンカバーに〖MAGNUM〗の スポンサーがついていない前半戦仕様 #CAREER-ACHIEVEMENTS 🇧🇷タルソ・マルケス(ブラジル) 【決勝出走数】24回 (入賞0回) 【予選最高位】14位 1996年 MINARDI R3 アルゼンチン 【決勝最高位】9位 2001年 MINARDI R3 ブラジル 2001年 MINARDI R8 カナダ 2402
250128 T.MARQUES 2001 20FW12C
-
1988 4TH SPARK BENETTON B188 T.BOUTSEN (GP CANADA)
🗞️2024年10月24日 1982年東京に初出店したイタリアの ファッションブランド ベネトンが 日本市場からの撤退を発表 ブーツェン キャリアベストシーズン 6度の表彰台 BENETTON B188 ベネトン2年目のブーツェン チームメイトはアレサンドロ・ナニーニ 翌1989年からのターボエンジン禁止に先駆け エンジン製作のコスワースはベネトンに 自然吸気エンジンを搭載した DFZの改良モデルとなるDFRを独占供給 ブーツェンは6度の3位表彰台 ベルギーGPは後に失格となったが 6回の表彰台の内5回がマクラーレンの 1位セナ 2位プロスト+3位ブーツェンの順位だった ブーツェンはキャリアベストのシーズン4位 翌1989年はウイリアムズに移籍 モデルはSPARK タバコCAMEL貼付 R5カナダGP仕様 予選7位→決勝3位 ミニチャンプスのモデルでは無かった B188の特徴でもある前後ウイングを 支えていたワイヤーも再現されている https://muuseo.com/FW12C/items/416
241025 T.BOUTSEN 1988 20FW12C
-
2001 (26TH) PMA MINARDI EUROPEAN PS01 A.YOONG
F1初のマレーシア人ドライバー A・ユーン MINARDI EUROPEAN PS01 アレックス・ユーン マレーシア出身 母はイギリス人 父は中国系マレー人 1999年イギリスF3 ランキング11位 2000年~2001年 フォーミュラ ニッポンに 参戦したが最高位7位でノーポイント 2001年タルソ・マルケスに代わり R15イタリアGPからスポットで3戦出場 チームメイトはフェルナンド・アロンソ 予選は3戦連続最下位の22位 決勝はフォーミュラニッポンでも 走行経験のあるR17日本GP鈴鹿のみ完走16位 ユーンのF1参戦にはマレーシアの 宝くじ会社からの資金援助が シート獲得に大きく貢献し 翌2002年もミナルディから参戦 モデルはミニチャンプス GP表記の無いRACE CAR 仕様 ミナルディをポール・ストッダートが買収 マシン名にイニシャルの【PS】が付けられた #2001年
240705 A.YOONG 2001 20FW12C
-
2014 11TH PMA McLAREN MERCEDES MP4-29 K.MAGNUSSEN
歴代13組目のF1親子ドライバー K・マグヌッセンMcLAREN MP4-29 ケビン・マグヌッセン デンマーク出身 父は1995年マクラーレンでスポット参戦 1996・1997年途中までスチュワートで レギュラー参戦したヤン・マグヌッセン 歴代13組目のF1親子ドライバー 2013年F・ルノー3.5 チャンピオン(5勝/17戦) 2014年父と同じマクラーレンよりF1デビュー ケビンはレギュラードライバーとして参戦 チームメイトはジェンソン・バトン 開幕戦オーストラリアGP 予選4位→決勝3位フィニッシュ後 2位のD・リカルド(RED BULL)が失格となり 繰り上げ2位表彰台となり早くも父越え その後は11回の入賞があったが 内10回が7位以下でのポイント獲得 年間55ポイントでランキングは11位 翌年はアロンソのマクラーレン復帰に 伴いレギュラーシートを失った モデルはミニチャンプス 開幕戦オーストラリアGP仕様 予選4位→決勝2位表彰台 これまでに5人がエントリー 4人が決勝進出したデンマーク人 ドライバー初の表彰台 2024年現在ケビン唯一の表彰台 最高位2位ドライバーの一人
240623 K.MAGNUSSEN 2014 20FW12C
-
2022 13TH PMA HAAS F1 TEAM VF-22 K.MAGNUSSEN
復活のケビン・マグヌッセン 自身&チーム初のPP獲得 HAAS VF-22 2022年2月下旬より始まった ロシアによるウクライナ侵攻 これに伴いHAASはロシアのスポンサー ウラウカリとドライバーの ニキータ・マゼピンの契約解除を決定 他のカテゴリー参加が決まっていた ケビン・マグヌッセンがHAASでF1復帰 チームメイトはミック・シューマッハの 親子ドライバーのコンビとなった 十分なテストの無い中で迎えた 開幕戦バーレーンGPで5位に入賞 チームに29戦ぶりのポイントをもたらした R21ブラジルGPでは 予選Q3中の赤旗中断後ウェットとなり それまでに出したタイムにより 自身とチーム初となるPP獲得 ケビンは参戦141戦目での初PPとなった モデルはミニチャンプス 開幕戦バーレーンGP仕様 予選7位→決勝5位 ケビンにとって2018年以来となる5位 メインスポンサー契約解除もあり マシンはチームのロゴがメインとなっている #2022年
240609 K.MAGNUSSEN 2022 20FW12C
-
1974 14TH SPARK (FRANK WILLIAMS) ISO Marlboro FW03 A.MERZARIO
F・ウイリアムズに移籍 キャリア最高予選3位 A・メルツァリオ ISO Marlboro FW03 1974年フェラーリを離脱した アルトゥーロ・メルツァリオは フランクウイリアムズのチームに移籍 コンストラクター名称はISO Marlboro チームは基本メルツァリオ1人体制で 途中数名のドライバーがスポット参戦 終盤は新人ジャック・ラフィーが加入 メルツァリオはR3南アフリカで キャリアベストの予選3位→決勝6位入賞 R14イタリアGPは予選15位ながら 決勝は4位入賞でこちらもキャリアタイ記録 並びにメルツァリオの生涯最後の入賞 年間では入賞2回 ランキング14位 モデルはスパーク メルッザリオの地元 R14イタリアGP仕様 予選15位→決勝4位 メルッザリオ キャリア最後5度目の入賞 タバコブランド Marlboro貼付 前年度フェラーリ所属時に 設計ミスなどもありまともに走行できなかった 事に対してエンツオ・フェラーリは謝罪の意を 述べており ファラーリから支援を受け メルッザリオのヘルメットには 跳馬のロゴが付けられている #1974年
240523 A.MERZARIO 1974 20FW12C
-
2000 (19TH) PMA MINARDI FONDOMETAL M02 M.GENE
コンストラクター最下位2年連続回避 マルク・ジェネ力走 MINARDI M02 前年度4年ぶりにミナルディにポイントを もたらしたマルク・ジェネはミナルディ残留 チームメイトはガストン・マッツァカーネ 基本設計は3年前のマシンながら 上位との差を僅かながらも縮めたM02 エンジンはフォンメタル名を付けた 1998年製のフォード・ゼテックR ジェネの決勝最高位は8位が2回 ポイント獲得はならなかったが この8位2回の差でチームプロストを上回り ミナルディはコンストラクター10位となり 翌年のTV放映権の分配金を手にした ジェネはスポンサー撤退もあり この年でミナルディを離れ 翌2001年からウイリアムズの リザーブ兼テストドライバー 2003年に同チームから代役参戦する モデルはミニチャンプス GP仕様の無いレースカー仕様 スポンサーのスペイン大手通信会社 テレフォニカはジェネの持ち込み 鮮やかなクリームイエローは 2000年限りのカラーリング
240412 M.GENE 2000 20FW12C
-
1977 2ND PMA WOLF FORD WR3 J.SCHECKER〖🏆3〗(GP JAPANESE)
モデルはミニチャンプス 最終戦日本GP仕様 台紙はWR1であるが正しくはWR3(形は一緒) 予選6位→決勝トラブルで10位 シーズン唯一のノーポイントの完走 他の完走は全て表彰台獲得 なんといってもインダクションポッド横の 田宮模型の二つの星が輝いています
230915 J.SCHECKTER 1977 2回FW12C
-
1975 (38TH) SPARK WILLIAMS FW03 D.MAGEE
F1通算1戦限りの決勝 ダミアン・マギー WILLIAMS FW03 ダミアン・マギー イギリス(北アイルランド)出身 1975年R7スウェーデンGPで 離脱したA・メルッザリオの代わりに 急遽フランク・ウイリアムズから出走 チームメイトもレギュラードライバーの ジャック・ラフィーの欠場の代役で イアン・シェクターがエントリー マギーは予選を22位で通過 決勝はトップから2周遅れの14位完走 翌年1976年にRAMでエントリーも予選落ち マギーがF1での出場はこの1戦限り 当時のフランク・ウイリアムズは資金難で スウェーデンGPでは マギーのマシンのウインドスクリーンを グレーのテープで補強しており モデルでも再現されている
230827 D.MAGEE 1975 20FW12C
-
1975 (31ST) SPARK WILLIAMS FW03 A.MERZARIO
イソ-マールボロから改名 ウイリアムズ・FW メルッザリオ WILLIAMS FW03 1975年前年までイソ-マールボロとして 参戦したマシンをウイリアムズ・FWに改名 厳密には現在のウイリアムズチームとは 異なるものの初めてウイリアムズの 名を付けたマシンであった FWはフランク・ウイリアムズの略 ドライバ―は前年同様の アルトゥーロ・メルツァリオ チームメイトはジャック・ラフィー FW03は既に時代遅れのマシンと なりつつあり資金難で開発も進まなかった メルツァリオは予選最高は11位 決勝は全てリタイア R5モナコGPでは前GPのスペインで 観客を巻き込む大事故があった為 決勝は18位までと急遽決定され ウイリアムズは2台とも予選落ち メルッザリオはR6ベルギーGPをもって ウイリアムズを離れ終盤のR13イタリアGPは フィッテパルディのコパシュカーで 1戦のみスポット参戦で決勝11位完走 #1975年 #FW
230727 A.MERZARIO 1975 20FW12C
-
1999 (23RD) PMA MINARDI FORD M01 L.BADOER
入賞無し最多参戦記録更新 ルカ・バドエル MINARDI FORD M01 1999年ルカ・バドエルはフェラーリの テストドライバーを務めながら ミナルディから3年ぶりのF1復帰 チームメイトは新人マルク・ジェネ 開幕戦オーストラリアGPで決勝リタイア このGPで入賞無し最多参戦記録が35になり 1970年代のブレッド・ランガーを抜き 単独でワースト1位となった R2はフェラーリのテストで負傷し欠場 ステファン・サザランが代役で出場 R14ヨーロッパGPではレースが荒れ バドエルは終盤4位走行も 53/66周目にエンジントラブルでリタイア F1での初入賞目前だった為 この時コースサイドの止まったマシンに 寄りかかり 人目もはばからず号泣した 奇しくこのリタイアでチームメイトの マルク・ジェネが6位初入賞 ミナルディチーム4年ぶりの入賞となった バドエルはこの後 フェラーリの テストドライバーを継続で務め 2000年~のフェラーリ黄金期を支える 10年後の2009年にフェリペ・マッサ代役で フェラーリでスポット参戦する モデルは版権の関係でドライバ―名が 〖Italian Driver〗となっている 1999年よりフェラーリのF1モデルが ホットウィールと契約となった為 フェラーリ所属であったバドエルの 表記が出来なかったと思われます
230711 L.BADOER 1999 20FW12C
-
2010 (22TH) SPARK HRT F1-10 K.CHANDHOK
走るマハラジャ カルン・チャンドック F1デビューは新規参戦 HRT F1-10 カルン・チャンドック インド出身 同国出身のF1ドライバーは ナレイン・カーティケアンに次ぐ2人目 下位カテゴリーGP2は2008年 年間10位が最高 2010年新規参戦チームHRTよりデビュー チームメイトはÁ・セナの甥 ブルーノ・セナ B・セナとは2008年GP2でもチームメイトで 2014年のフォーミュラEで3度目のコンビ HRTは新規3チームの中でも戦闘力が乏しく 資金難でどのGPにも同じリアウイングを装備 その中で10戦中8戦完走 決勝最高14位2回 ブルーノ・セナの最高位14位1回を上回った しかし持ち込み資金の不足もあり R11ドイツGPよりリザーブドライバーの 山本左近にシートを奪われた 翌2011年はロータス(マレーシア)の リザーブドライバ―となり ヤルノ・トゥルーリの代役で10ドイツGPのみ 1戦限りで出走 自身最後のF1出場となった チャンドックは知的でF1の知識も豊富 名前をもじり カルンペディアとも呼ばれていた #F1-2010年
230520 K.CHANDHOK 2010 20FW12C
-
1998 (20TH) PMA TYRRELL FORD 026 R.ROSSET
ティレル最後のマシン TYRRELL 026 4度の予選落ち リカルド・ロセット 1998年シーズン前 ティレルオーナー ケン・ティレルはチームを クレイグ・ポロックに売却 ドライバ―は高木虎之介と ヨス・フェルスタッペンの予定であったが ポロッグの意向により R・ロセットに変更 Safra・LYCRAのスポンサーを持ち込んだ この件もありケン・ティレルは シーズン途中にチームを離脱した ロセットはR7カナダGPの決勝8位が最高 これは生涯ベストリザルトタイ 1996年導入の予選107%ルールに 度々引っ掛かり予選落ち R16日本GPでもシーズン4度目の予選落ちで ティレルの最終戦に決勝進出できなかった ティレルは1968年からの約30年の 歴史に幕を閉じ翌年はBARとして参戦
230207 R.ROSSET 20 1/43FW12C
-
1998 (20TH) PMA TYRRELL FORD 026 "TOWER WING″ R.ROSSET
マイク・ガスコインがデザインした TYRRELL026はダウンフォース不足を補う為 前年度にも導入したサイドウイングを採用 数チームが追随して空力トレンドになった ミニチャンプスでは "TOWER WING″として このウイングを装着した ティレル・フェラーリ・ジョーダン ザウバー・プロストの5チーム合計10名を "TOWER WING″仕様として限定数で発売 "TOWER WING″はR5スペインGPから J・アレジ(ザウバー)のピットでの事故や 見た目の悪さもあり使用が禁止され サイドウイングありきでデザインした TYRRELL 026は翼を取られ更に成績悪化 長き歴史のティレルの最後を コンストラクター最下位で終えた リカルド・ロセットも1998年でF1最後 生涯入賞はなく決勝最高8位の成績であった 🏁リカルド・ロセット (ブラジル) 【決勝出走数】26回 (入賞0回) 【予選最高位】17位(2回) 1996年 アロウズ R2 ブラジル 1996年 アロウズ R15 ポルトガル 【決勝最高位】 8位(2回) 1996年 アロウズ R12 ハンガリー 1996年 ティレル R7 カナダ #F1-1998年 #F1-LAST
230207 R.ROSSET "TOWER WING″ 2.222FW12C