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2018 11TH IXO McLAREN MCL33 F.ALONSO
アロンソ F1活動休止 ルノーエンジン McRALEN MCL33 2018年アロンソはマクラーレン4年目 パワーユニットはHONDA→ルノーに変更 カラーリングはマクラーレン伝統の パパイヤオレンジ・ブルーに変更 チームメイトはスフェトル・バンドーン シーズン前テストではトラブル連発も 開幕戦では予選11位→決勝5位入賞 マクラーレンは4年ぶりの開幕戦入賞 その後7位→7位→7位 3戦連続入賞 R5スペインGPからはBスペックともいえる バージョンを投入し予選初のQ2進出 決勝も8位に入り開幕から5戦連続入賞 しかし後半戦は勢いがなくなり 入賞は21戦中9回 最高位は開幕戦の5位 この年アロンソはF1と並行して ル・マン・24時間に参戦し優勝 グラハム・ヒル以来の 〖世界三大レース制覇〗に王手をかけ (F1モナコGP インディ500 ル・マン24H) 2019年シーズンはF1に参戦しないと表明 F1活動休止 2021年にルノーで復帰 モデルはIXO (デアゴスティーニ) F1マシンコレクション122号 アロンソ F1活動休止前ラストレースの 最終戦R21アブダビGP仕様 予選15位→決勝11位 ヘルメットカラーと同様の ブルー/イエロー/レッドがの配色 スペシャルロゴが入ったモデル
240402 F.ALONSO F1マシンコレクション 14FW12C
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1976 (42ND) SPARK BRM P201B I.ASHLEY
BRM チーム 末期 1戦のみ イアン・アシュリー BRM P201B 1950年代より参戦している名門BRM ブリティッシュ・レーシング・モータース 1962年にはG・ヒルを擁しチャンピオン獲得 1972年の勝利を最後に成績は下降 1974年オーナーのオーウェン卿死去 妹婿のルイス・スタンレー卿に譲られた 1976年は1台体制でイギリス出身 イアン・アシュリーを起用 開幕戦ブラジルGP予選22台中21位 決勝は3周目にオイルポンプが壊れ 早々にレースを終えた BRMは開幕戦のみエントリーで 資金難により1976年のF1活動は終了 翌1977年に復帰するも シーズン後にF1から撤退した モデルはスパーク BRMこの年1戦限りとなった 開幕戦ブラジルGP仕様 イギリス系のチームでありながら 前年の1975年よりフランスを連想する トリコロールカラーを採用 2年落ちのマシンでスポンサーロゴは 部品供給社以外見当たらない
240327 I.ASHLEY 1976 14FW12C
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2000 (22ND) PMA PROST PEUGEOT AP03 J.ALESI
キャリア初のシーズンノーポイント ジャン・アレジ PROST PEUGEOT AP03 2000年アレジは1991年にフェラーリで チームメイトであったプロストに移籍 パートナーは新人のニック・ハイドフェルド AP03はチーム内のゴタゴタを示すマシンで 戦闘力は低くアレジは予選シングルは R7モナコの7位 1回のみ 決勝もR6ヨーロッパGPの最高位9位 アレジは1989年の参戦以来初のノーポイント ランキングも参戦23台中22位 フル参戦ドライバーの中では最下位 チームもノーポイントで並んだミナルディに 決勝最高位で負けてコンストラクター最下位 散々なシーズンとなってしまった モデルはミニチャンプス GP仕様表記の無いRACE CAR ゴロワーズタバコ広告禁止GPの バーコード仕様 リジェ時代のGITANSから続いた タバコスポンサーがチーム不振もあり この年で終了となった
240323 J.ALESI 2000 14FW12C
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1960 (33RD) SPARK COOPER T51 R.SALVADORI
飛行場の王 ロイ・サルバドーリ 1960年 プライベーター COOPER T51 ロイ・サルバドーリ イギリス出身 シルバーストーンやスネッタートンなどの 平坦なイギリスのの飛行場のサーキットで 勝利を積み重ね〖King of the Airfields〗 飛行場の王とも呼ばれたドライバ― かつてイギリスでF1と並び権威のあった インターナショナルゴールドカップの 1956・1958年のチャンピオン 1959年のル・マン24時間のチャンピオン F1は 1952年よりスポット参戦 1958年にはキャリアベストの2位表彰台 あと一歩で勝てなかった最高位2位の一人 1960年はプライベーターで クーパーの車体を使用してスポット参戦 最終戦のアメリカGPでの決勝8位が最高 ライトブルーのメタリック感のある キレイなマシン エンジンはクライマックス アストンマーチンでも2戦エントリーしている モデルはスパーク R2モナコGP仕様 予選12位→決勝リタイア このモナコGPだけでクーパーの車体で エントリーしたのが11名 クーパー年間34名 この年はインディ500も選手権に 組み込まれている為 年間では総勢 91名ものドライバ―がエントリーしてる
231114 R.SALVADORI 1960 14FW12C
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1962 4TH SPARK LOLA MK4 J.SURTEES
ローラ・カーズ F1唯一のPP&2位 ジョン・サーティス LOLA MK4 1958年にエリック・ブロードレイによって 設立されたローラ・カーズは 各カテゴリーに於いて輝かしい成績を持つ F1では1962年プライベーターの レグ・パーネルの依頼を受けて コンストラクタ―としてマシンを供給し Bowmaker Racing Teamとして初参戦 ドライバ―はジョン・サーティス 開幕戦ローラ初戦でいきなりPPを獲得 決勝ではリタイアに終わったものの R2~R6まで5戦連続の入賞を果たし R5・R6では2位表彰台を獲得 F1に於いて通算14年間マシンを供給した ローラであるが予選PPは1回限り 決勝2位もこの年のみで通算の表彰台も 当年2回と1990年ラルース・ローラとして R15日本GP鈴鹿での鈴木亜久里の3位と3回のみ 1997年にはチームローラとして参戦も 開幕戦の予選落ち後にまさか即チーム解散となった モデルはスパーク R6ドイツGP仕様予選4位→決勝2位 サ―ティスはこの時の走りが認められて 翌1963年にフェラーリで初勝利 翌々1964年にワールドチャンピオンを掴む #1962年
231025 J.SURTEES 1962 14FW12C
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1980 (25TH) KIT ENSING N180 C.REGAZZONI
クレイ・レガッツォーニ 引退 下半身不随の大事故 ENSING N180 1980年レガッツォーニは1977年以来の エンサインで1名体制でのエントリー 完走はR3南アフリカの決勝9位のみ R4アメリカWEST GP ブレーキペダルが折れる アクシデントで下半身不随の重症 これはとっさにギアを3速に入れ エンジンスイッチを切って減速の上 リタイア車に当てて衝撃をやわらげる という一連の操作で一命を取りとめた レガツォーニはこれ以来車椅子生活も 両手のみで操作ができるように 改造された車両で運転を継続 その内の一台であるHONDA NSXでの ドライブがテレビCMに残されている F1通算5勝とPP5回はいずれもそれぞれ 異なる年に記録しており フェラーリ時代のイタリアGPで2勝 またFLは15回と決勝での速さも光った 🏁クレイ・レガッツォーニ (スイス) 【決勝出走数】131回 (入賞52回-表彰台28回) 【予選最高位】 PP(5回) 1970年 FERRARI R15 メキシコ 1971年 FERRARI R 6 イギリス 1973年 BRM R 1 アルゼンチン 1974年 FERRARI R 5 ベルギー 1976年 FERRARI R 3 アメリカW 【決勝最高位】 優勝(5回) 1970年 FERRARI R10 イタリア 1974年 FERRARI R11 ドイツ 1975年 FERRARI R13 イタリア 1976年 FERRARI R 3 アメリカW 1979年 WILLIAMS R 9 イギリス 【ファステストLAP】(15回) https://www.youtube.com/watch?v=Th5RlvokgYI&feature=related
230712 C.REGAZZONI 1980 14FW12C
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1999 TEST PMA ARROWS A19 (1999) T.TAKAGI
高木虎之介 テストで好タイム 逆転でシート獲得 ARROWS A19 1998年所属したティレルがBARに買収 シートを失った高木虎之介はシーズン 終了後にアロウズのテストの機会を得ます このテストで前年度所属のミカ・サロ チームメイトとなるペドロ・デ・ラロサを 上回るタイムを出し師の中嶋悟氏の持つ PIAAなどのスポンサーを持ち込条件で シーズン前に土壇場でシートを獲得 アロウズの日本人ドライバーは 鈴木亜久里・井上隆智穂に続き3人目 シーズンではCarNo15であったが テストは仮でCarNo14で走行している このモデルは限定数1.500で 高木虎之介のモデルのみが発売 当時はある程度日本での販売が見込める 状況下で企画された?ものと思われます
230705 T.TAKAGI TEST CAR 1.500FW12C
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1967 4TH IXO HONDA RA300 J.SURTESS〖🏆1〗
第1期HONDA 2勝目 ジョン・サーティス HONDA RA300 1967年HONDA第1期4シーズン目 ドライバ―はクーパーから 1964年チャンピオンのサーティスが移籍 そのサ―ティスが大株主であった イギリスのローラ社と提携 予算縮小もあり1台体制での参戦 R9イタリアGPニューマシンRA300を導入 予選は9位からスタート 終盤までトップが5名のドライバーで 入れ替わる大混戦の中 最終ラップでサ―ティスは J・ブラバム(ブラバム)のインを差し 最後はわずか0.2秒差で勝利 RA300でのデビュー戦の勝利は 僅かリードラップ1周での勝利 その後RA300がトップを走行は無く 第1期HONDAの最後の2勝目で サ―ティスの通算最後の6勝目でもあった
230613 J.SURTEES F1マシンコレクション 1967FW12C
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1959 3RD QUARTZO (ROB WALKER) COOPER CLIMAX T51 S.MOSS〖🏆2〗
無冠の帝王 スターリング・モス 終盤猛追 COOPER CLIMAX T51 1959年 スターリング・モスは 前年度所属のヴァンウォールが撤退 プライベター ROB WALKERで参戦 前半戦は連続リタイア 途中モスの父アルフレッドなどが設立の BRP(ブリティッシュ・レーシング・パートナーシップ) からも2戦出場 この時使用のマシンは BRM(ブリティッシュ・レーシング・モータース) R5イギリスGPで2位表彰台 終盤はROB WALKERに戻り R7ポルトガル・R8イタリアと2連勝 最終R9アメリカGPで3戦連続PP 逆転チャンピオンの可能性もあったが 5周目にギアボックスが壊れリタイア 最終的に年間3位となりまたしても チャンピオンは逃したがプライベートチームで ワークスチームに挑むモスの姿は ファンから大きな声援を受けた
230601 S.MOSS 1959 4回FW12C
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2015 17TH SPARK McLAREN HONDA MP4-30 F.ALONSO
★2026年 HONDA パワーユニット★ アストンマーチンで復活 2023年5月24日 HONDAが2026年より アストンマーチンF1チームに パワーユニットを供給することを発表 HONDAとF・アロンソのタッグ再現はあるのか? 2015年第4期HONDAはマクラーレンと組み 7年ぶりの復活を果たしフェラーリから フェルナンド・アロンソが移籍 チームメイトはジェイソン・バトンの ワールド チャンピオンコンビ この年のアロンソの年俸は約49億円 (バトンは約14億円と格差) しかし1年を通してパフォーマンス不足 アロンソの初ポイントはR9イギリスの10位 R10ハンガリーでは5位入賞を果たすも その後はノーポイントに終わる R14 HONDAの地元日本GP鈴鹿では アロンソのパワー不足への不満が爆発し 『GP2エンジンかよ!GP2エンジンだ!』 (傘下レースであるGP2のエンジンだ) との発言した無線が中継され大きな波紋を呼んだ 2023年 アロンソはアストンマーチンで 5戦中4戦表彰台5戦全て入賞中と衰え知らず 2026年アロンソが現役を継続していた場合 44/45歳のシーズン 前人未到の400戦超え アロンソ&アストンマーチンHONDA 個人的には見てみたい!!
230525 F.ALONSO 14 1/43FW12C
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1998 11TH PMA SAUBER C17 PETRONAS J.ALEJI
ザウバー移籍のジャン・アレジ 意地の最後の表彰台 SAUBER C17 ベネトンのシートを失ったアレジは かつて国際F3000時代に所属していた ジョーダンに懇願するもかなわず チームプロストはアレジを欲しがったが プジョーエンジンが拒否 最終的にかつてのチームメイト G・ベルガーの推薦もありザウバーに移籍 この年アレジは16戦中12回完走と 安定した走りを見せて R10オーストリアでは予選2位 R13ベルギーでは混戦生き残り3位表彰台 結果F1でアレジ最後の32回目表彰台 予選・決勝ともチームメイトの ジョニー・ハーバートに勝り 年間では9ポイントの11位 翌年もサウバーに残留 こちらのモデルはMuuseoではお馴染みの アダムスキー(当時はPSYCHEDELIA)で 2009年6月に購入 #F1-1998年
230416 J.ALESI 14 1/43FW12C
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1998 11TH PMA SAUBER C17 PETRONAS "TOWER WING" J.ALEJI
R3 アルゼンチンGP 予選11位から決勝に挑んだアレジは スタートで7位まで順位を上げて その後ポイント圏内を走行 27周目にピットインをした際に 右側のタワーウイングを インパクトレンチのホースにひっかけ 片側だけが折れるという事態に これにより11位まで順位を落としたが 左のタワーウイングのみで走行継続し その後は着実に順位を上げて 最終的には5位でフィニッシュ サウバー移籍初ポイントを上げた この件がきっかけとなり R5スペインGPよりタワーウイングが 安全上の理由により禁止とされたが 美観を損ねるという理由が 支持されたとみられている #F1-1998年
230416 J.ALESI "TOWER WING″ 2.222FW12C
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1965 14TH IXO (NORTH AMERICAN RACING TEAM) FERRARI 512 P.RODRIGUEZ
メキシコ兄弟ドライバ― ロドリゲス 兄 ペドロ FERRARI 512 ペドロ・ロドリゲス メキシコ出身 弟のリカルド・ロドリゲスもF1ドライバ― 当時史上最年少で1961年にデビューも 1962年の非選手権で残念ながら事故死 1963年ペドロはロータスでデビュー 北米 アメリカ・メキシコにスポット参戦 1965年はNORTH AMERICAN RACING TEAM 通称チームNART フェラーリ512のマシン R9アメリカ予選15位→決勝5位入賞 R10メキシコ予選14位→決勝7位 この後1967年にクーパーで本格参戦 クーパー初戦の開幕戦の南アフリカで優勝 メキシコ人ドライバ―初優勝であり 現在でもメキシコ人のウィナーは セルジオ・ペレス(レッドブル)と2人のみ 1968年ル・マン24時間の覇者でもある #F1-1965年
230403 P.RODRIGUEZ フェラーリF1コレクション 14FW12C
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1999 18TH PMA ARROWS A20 P.DE.LA.ROSA
the story will be at a later date.
230326 P.DE.LA.ROSA 1999 14FW12C
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1970 8TH QUARTZO MARCH 701 C.AMON (GP FRENCH)
新規チーム MARCHに移籍 クリス・エイモン MARCH 701 1970年 前年度フェラーリを離脱した クリス・エイモンは新規マーチに移籍 チームメイトはJ・シフェールの他 スポット参戦でマリオ・アンドレッティなど マーチのワークスチームにはSTPが メインスポンサーで赤ベースのカラーリング タイヤはファイヤストーン また前年度チャンピオンの ジャッキー・スチュワートもR10まで ティレルで同一のMARCH 701で参戦した エイモンはR4ベルギーGP 予選3位から自身初のファステストラップ リーダーラップも3周記録の2位表彰台を獲得 R6フランスGPでも生涯最後の2位(通算3度目) 年間では2位2回 3位1回など6度の入賞 またしても勝利とはならずも マーチワークスではトップの7位 同一マシンのティレルのスチュワートは5位 エイモンは1年でマーチを去り 翌1971年はマトラに移籍 #F1-1970年
230323 C.AMON 1回 14FW12C