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198019TH BRUMM FERRARI 312 T5 J.SCHECKTER
失意のワールド チャンピオン シェクター引退 FERRARI 312 T5 1980年前年のチャンピオンから一転 失意のシーズンとなったジョディ・シェクター チームメイトはジル・ヴィルヌーブ 開幕から3戦連続リタイア後 R4アメリカWESTでシーズンチーム初5位入賞 しかしこれがシェクターのシーズン唯一の入賞 連覇どころか前年度チャンピオンが まさかの入賞1回 ランキング19位 R13カナダGPではキャリア唯一の予選落ち 失敗作の最後の312Tシリーズ5に失望 シェクターは30歳の若さでF1引退となった モデルはBRUMM R6モナコGP仕様 予選17位→決勝リタイア リアアスクル前にミドルウイングを装備 フロントは横幅の狭い特別仕様のウイング リアウインウは極端に前方に設置されている シェクター最後のマシンとなったカーNo.1 🏁ジョディー・シェクター (南アフリカ) 【決勝出走数】 112回 (入賞53回-表彰台33回) 【予選最高位】 PP( 3回) 【決勝最高位】 優勝(10回) 【ファステストLAP】 ( 5回) 【WORLD CHAMPION】1979年
240309 J.SCHECKTER 1980 1FW12C
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1980【WORLD CHAMPION】PMA WILLIAMS FW07B A.JONES〖🏆5〗
🔲🔲🔲1980🔲🔲🔲 👑WORLD CHAMPION👑 WILLIAMS FW07B 🟦🟦A.JONES🟦🟦 🔲🔲🔲全14戦🔲🔲🔲 【出走】14回【PP】3回 【優勝】 5回【FL】5回
230829 A.JONES 1980 5回FW12C
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1980 14TH HOT WHEELS FERRARI 312 T5 G.VILLENEUVE
フェラーリ最後の312TシリーズT5 ジル・ビルヌーブ苦難のシーズン 1980年前年チャンピオンチーム フェラーリは312T5を開幕戦より投入 グランド・エフェクトに対応する為 モノコック前部の幅を短縮 サスペンションアームを鋼板溶接構造に変更 エンジンのシリンダーヘッドの幅狭くした しかしこれが裏目となって操縦性は悪化 エンジンの信頼不足 ミシュランタイヤとの 相性も悪くタイヤ交換を繰り返すレースが多発 ジル・ビルヌーブは5位2回 6位2回の 決勝入賞は4回に終わりこの年6ポイントで 並んだ5名のドライバ―の中の 最下位で年間順位は14位に終わった それでも予選ではR2ブラジルGPの3位など チームメイトのジョディ・シェクターに 全14戦中13勝1敗と圧勝した フェラーリは1973年以来となる未勝利 1975年から栄光を掴んだ312Tが終了 翌1981年~は126CKと変更になった モデルはHOT WHEELSのエリートシリーズ 開幕戦アルゼンチンGP仕様 予選8位→決勝リタイア
230824 G.VILLENEUVE 1980 5.000FW12C
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1980 11TH SPARK McLAREN M29 J.WATSON
マクラーレン2年目ジョン・ワトソン チームも不振 McLAREN M29 1980年ワトソンはマクラーレン残留 チームメイトは新人アラン・プロスト 開幕戦・R2とプロストに予選で敗れ 決勝もプロストが連続入賞の中 リタイア・11位と苦戦を強いられる R4アメリカWESTでは決勝4位入賞も R6モナコでは自身初の予選落ち ワトソンの生涯2度の予選落ちは いずれもモナコ(1980年・1983年) しかしながら初入賞もモナコ(1974年) 初のPPもモナコ(1977年)でもある R13カナダでシーズン2度目の4位 プロストに1ポイント差で年間上回り この年6ポイントで並んだ5名の ドライバ―の上から2番目の年間11位 翌1981年プロストがルノーに移籍の中 マクラーレンに残留 チームに久々の勝利をもたらす
230811 J.WATSON 1980 7FW12C
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1980 12TH SPARK TYRRELL 010 D.DALY
ディレク・デイリー TYRRELL 010 キャリアベストの4位2回入賞 1979年デイリーは終盤 エンサインを離脱後ティレルの サードカーとして3戦出場 1980年はレギュラーシートを獲得する チームメイトはジャン・ピエール・ジャリエ デイリーは開幕戦アルゼンチンGP 旧型マシンのティレル090で 予選22位ながら決勝は4位入賞 R3南アフリカGPで ニューマシン010が投入され R8イギリスGPで再び4位を獲得 4位はデイリーのキャリアベスト 年間で6ポイント獲得したが 5名のドライバ―が同ポイントで並び 順位差などで以下のリザルトとなった 10位 K・ロズベルグ(フィッテパルディ) 11位 J・ワトソン(マクラーレン) 12位 D・デイリー(ティレル) 13位 J・P・ジャリエ(ティレル) 14位 G・ビルヌーブ(フェラーリ) デイリーはティレルを1年で離れ 翌1981年はマーチ・グランプリに移籍 #1980年
230728 D.DALY 1980 4FW12C
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1980 NON-CHAMPIONSHIP PMA (BANCO OCCIDENTAL) WILLIAMS FORD FW07 E.DE.VILLOTA
エミリオ・デ・ヴィロタ出場スペインGP FISAとFOCAの組織対立で非選手権レース エミリオ・デ・ヴィロタ スペイン出身 1976年よりプライベーターでスポット参戦 決勝進出は1977年の2レースのみ 1980年地元スペインGP ヴィロタは1978年以来のF1エントリー スペインの銀行 バンコ・オクシデンタルのサポート ウイリアムズの旧型FW07のマシンで参戦 予選17位→決勝は34/80周でリタイア このスペインGPは FISA(国際自動車スポーツ連盟 現在FIA)と FOCO(F1製造者協会)の対立により フェラーリ・ルノー・アルファロメオなどが 参加しなかった為 後に非選手権レースとなり ヴィロタは1980年のF1の成績も取り消された ヴィロタ1981年・1982年もプライベーターで スポット参戦するも決勝進出はならなかった エミリオの娘マリーア・デ・ヴィロタも 女性レーシングドライバー 2011年 F1ロータス・ルノーでテスト参加 2012年 F1マルシャのテストドライバー この年のテスト中に右目を失う事故 翌2013年にこの事故起因と思われる死因で 残念ながら他界している
230725 E.DE.VILLOTA NON-CHAMPIONSHIP 1980FW12C
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1980 8TH QUARTZO RENAULT RE20 J.P.JABOUILLE
2年連続入賞が優勝のみ ジャン・ピエール・ジャブイーユ ジャブイーユはルノー4年目 チームメイトは前年同様R・アルヌー 開幕戦よりニューマシンRE20を投入 この年もターボエンジンに左右され 予選ではPP2回 2位4回と速さを見せたが R9までに完走扱いの10位が1回のみ この間にアルヌーが2勝を含む入賞を4回 ジャブイーユのチーム内の立場も 微妙のものになっていった R10オーストリアGPは 予選2位からトップに立ち アラン・ジョーンス猛追をしのぎ 最後は0.8秒差で逃げ切り優勝 ジャブイーユの自身2勝目は 2年連続の入賞が優勝のみの珍しい記録 R13カナダGPのブレーキトラブルで クラッシュし両足を骨折 最終戦を欠場するとともにルノーを離脱 ターボエンジン開発ドライバ―として 多くのチームから声がかかる中 翌1981年はリジェへ移籍 RE20のマシンは号数で2番目の数値を 表記する場合がありこのモデルは 開幕のアルゼンチン仕様でRE22の表記 #F1-1980年
230722 J.P.JABOUILLE 1980 15FW12C
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1980 4TH SPARK LIGIER JS11-15 J.LAFFITE〖🏆1〗
ジャック・ラフィー通算4勝目 リジェ最高成績コンストラクター2位 1980年リジェは前年度3勝 リジェ史上最高マシンとも呼ばれるJS11の 改良版JS11/15を開幕戦より投入 エンジンは前年よりフォード コスワース ドライバーはリジェ5年目のラフィー チームメイトは新規加入のD・ピロー二 ピロー二がR5スペインGPで優勝 ラフィーもR9ドイツで勝利 両ドライバ―とも1勝含む5回の表彰台 年間順位では ラフィーが4位34P ピロー二が5位32P チームトータル66Pは年間2位で リジェ史上のコンストラクター最高成績 リジェの通算勝利は9勝 JS11~JS11/15のマシンで半数以上の5勝 モデルはラフィーが勝利したR9ドイツGP仕様 タバコ広告の規制の為リジェの代名詞の GITANESのロゴが無く 小さなフラメンコダンサーのみが マシンに貼られている
230714 J.LAFFITE 1980 1回FW12C
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1980 (25TH) KIT ENSING N180 C.REGAZZONI
クレイ・レガッツォーニ 引退 下半身不随の大事故 ENSING N180 1980年レガッツォーニは1977年以来の エンサインで1名体制でのエントリー 完走はR3南アフリカの決勝9位のみ R4アメリカWEST GP ブレーキペダルが折れる アクシデントで下半身不随の重症 これはとっさにギアを3速に入れ エンジンスイッチを切って減速の上 リタイア車に当てて衝撃をやわらげる という一連の操作で一命を取りとめた レガツォーニはこれ以来車椅子生活も 両手のみで操作ができるように 改造された車両で運転を継続 その内の一台であるHONDA NSXでの ドライブがテレビCMに残されている F1通算5勝とPP5回はいずれもそれぞれ 異なる年に記録しており フェラーリ時代のイタリアGPで2勝 またFLは15回と決勝での速さも光った 🏁クレイ・レガッツォーニ (スイス) 【決勝出走数】131回 (入賞52回-表彰台28回) 【予選最高位】 PP(5回) 1970年 FERRARI R15 メキシコ 1971年 FERRARI R 6 イギリス 1973年 BRM R 1 アルゼンチン 1974年 FERRARI R 5 ベルギー 1976年 FERRARI R 3 アメリカW 【決勝最高位】 優勝(5回) 1970年 FERRARI R10 イタリア 1974年 FERRARI R11 ドイツ 1975年 FERRARI R13 イタリア 1976年 FERRARI R 3 アメリカW 1979年 WILLIAMS R 9 イギリス 【ファステストLAP】(15回) https://www.youtube.com/watch?v=Th5RlvokgYI&feature=related
230712 C.REGAZZONI 1980 14FW12C
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1980 18TH SPARK ALFA ROMEO 179 B.GIACOMELLI
ブルーノ・ジャコメリ 初入賞& 唯一のPP獲得 ALFA ROMEO 179 1980年第2期アルファロメオの 本格フル参戦1年目 ドライバーは 開発から携わったB・ジャコメリ チームメイトはパトリック・デュパイエ (後にV・ブランビラ/ A・チェザリス) 開幕戦アルゼンチンGP 予選20位から混戦生き残り5位入賞 2期アルファロメオとジャコメリの初入賞 ジャコメリの生涯F1入賞は6回 主にアルファロメオV12エンジンの 信頼性の不足の起因により決勝は 14戦中 完走僅か3回も5位入賞2回獲得 予選では速さを見せ9回のシングルグリット 最終戦アメリカEAST GPでは 生涯自身唯一となるPPを獲得 PPから31周目までリーダーラップも記録 シーズン途中のテストでチームメイトの パトリック・デュパイエが事故で他界した中 チームに希望と勇気を与える PPと31周のトップ走行であった https://muuseo.com/FW12C/items/1579?theme_id=34513
230624 B.GIACOMELLI 1980 23FW12C
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1980 16TH SPARK McLaren M29 A.PROST
4 TIMES WORLD CHAMPION アラン・プロスト デビュー McLaren M29 1979年ヨーロッパF3 13戦9勝 圧倒的勝利でチャンピオン獲得 マルボロの支援もあり マクラーレンのテストを受けて 同時に参加したケビン・コーガンのみならず レギュラードライバーのジョン・ワトソンより 速いタイムを出し1980年のシートを獲得する 1980年開幕戦アルゼンチンGP 予選でワトソンを上回り12位を獲得 決勝はデビュー戦にて6位入賞 プロストの生涯入賞回数は128回 その中で表彰台が106回 4位以下の入賞は22回と少ない 続くR2ブラジルでも決勝5位入賞も R3南アフリカの予選でマシントラブル起因の クラッシュで手首を負傷しR4も欠場 年間では4度の入賞5ポイント年間15位 ワトソン6ポイント 年間11位わずかに及ばず 翌1981年はマクラーレンとの複数年契約が あったが地元ルノーからのオファーを受け移籍
230612 A.PROST 1980 8FW12C
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1980 6TH QUARTZO RENAULT RE20 R.ARNOUX
ルネ・アルヌー 初優勝からの連勝 ルノー・ターボの2・3勝目RENAULT RE20 1980年アルヌーはルノー2年目 チームメイトは昨年同様の ジャン・ピエール・ジャブイユ 開幕戦リタイアだったものの R2ブラジルGPで初優勝 続くR3南アフリカと連勝 アルヌーの通算勝利数は7勝 前半7戦で2勝含む入賞4回で チャンピオン狙える位置で折り返す 後半戦は予選で3戦連続PPがあったものの 入賞はR12オランダGPの2位のみ 年間順位は6位に終わる チームは4年目にして2人で3勝 コンストラクターも4位に躍進 アルヌーはジャブイユから チームエースの座を奪いルノーは アルヌー中心で回るようになり 翌1981年ジャブイユはリジェ・マトラに移籍 ルノーはオールフレンチ体制を維持し チームメイトにアラン・プロストを迎える
230606 R.ARNOUX 1980 4回FW12C
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1980 (30TH) SPARK ALFA ROMEO 179 A.DE.CESARIS
アンドレア・デ・チェザリス アルファロメオよりデビュー A・チェザリス イタリア出身 1979年 イギリスF3 2位(6勝) 1980年 ヨーロッパF2 5位(1勝) 父親がMarlboroのフィリップモリス社の 重役という事もあり1980年終盤2戦を アルファロメオからスポット参戦 チームメイトはB.ジャコメリ モデルはR13カナダGP仕様 予選8位→決勝はリタイア チェザリスはF1通算206戦中 歴代1位となる135回のリタイア 信頼性に欠けるアルファロメオは 予選では速さ見せるも 決勝では結果に繋がらず B・ジャコメリが3回完走したのみで セカンドドライバーの P・デュパイエ V・ブランビア A・チェザリスは 全てリタイア チームわずか完走率11.5% チェザリスは1981年はMarlboroの 後押しでマクラーレンに移籍
A.DE.CESARIS 1980 22 1/43FW12C