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2000 (22ND) PMA PROST PEUGEOT AP03 J.ALESI
キャリア初のシーズンノーポイント ジャン・アレジ PROST PEUGEOT AP03 2000年アレジは1991年にフェラーリで チームメイトであったプロストに移籍 パートナーは新人のニック・ハイドフェルド AP03はチーム内のゴタゴタを示すマシンで 戦闘力は低くアレジは予選シングルは R7モナコの7位 1回のみ 決勝もR6ヨーロッパGPの最高位9位 アレジは1989年の参戦以来初のノーポイント ランキングも参戦23台中22位 フル参戦ドライバーの中では最下位 チームもノーポイントで並んだミナルディに 決勝最高位で負けてコンストラクター最下位 散々なシーズンとなってしまった モデルはミニチャンプス GP仕様表記の無いRACE CAR ゴロワーズタバコ広告禁止GPの バーコード仕様 リジェ時代のGITANSから続いた タバコスポンサーがチーム不振もあり この年で終了となった
240323 J.ALESI 2000 14FW12C
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1978 (28TH) TSM BRABHAM BT46 N.PIQUET
ネルソン・ピケ ブラバムでの初戦 BRABHAM ALFA‐ROMEO BT46 1978年 エンサインでF1デビューした ブラジル出身 ネルソン・ピケ その後プライベーターで3戦出場 マクラーレンM23のマシンを使用 最終戦R15カナダGP 次年度ニキ・ラウダのNo.2として レギュラー参戦の決まっていた ブラバムの3RDカーとして出場 後にブラバムで2度のチャンピオンとなる ピケの最初のブラバムのマシン 予選J・ワトソン4位 ラウダ7位 ピケ14位 決勝は2人がリタイアの中 ピケ11位完走 このカナダGP モントリオールサーキット 後のジル・ヴィルヌーヴ サーキットは ピケの相性が良く 1982/1984年はブラバム 1991年はベネトンで勝利を上げている モデルはTRUE SCALE MINIATURES MODEL 最終戦カナダGP仕様 予選14位→決勝11位 カーナンバー66のピケのブラバム初陣 白い台座にアルファロメオのロゴがあり 所持のモデルの中でこの台座は 個人TOP3に入る好きなデザイン ⬇️プライベーターで3戦出場 ⬇️マクラーレンM23のマシン https://muuseo.com/FW12C/items/1303?theme_id=41104
240222 N.PIQUET 1978 66FW12C
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1974 (31TH) SPARK SURTEES TS16 D.QUESTER
ディエター・クエスター F1唯一の出場 SURTEES TS16 ディエター・クエスター オーストリア出身 1969年のF1ドイツGP 当時参加可能であったBMWのF2のマシンで エントリーするも 同BMWチームの ゲルハルト・ミッターがマシントラブルで 還らぬ人となってしまいBMWチームは棄権 クエスターもレースを欠場した その5年後の1974年母国オーストリアGPに チーム・サーティスで出場 この年サーティスはC・パーチェと J・マスがシーズン途中で離脱 オーストリアGPにはプライベター含め サーティスから4名のドライバーが エントリーしたが 決勝進出は クエスター(予選25位)ただ1人 決勝はトップから3周遅れの9位完走 クエスターのF1はこの1戦限り 他のカテゴリー とりわけ24時間レースは 多数の参戦があり生涯で53回出場 2018年にHSRクラシック・デイトナが 自身最後のレースで当時年齢は79歳であった モデルはスパーク オーストリアGP仕様 予選25位→決勝9位 マニアックなモデルのリリースの多い ドイツのレースランド社別注モデル
240206 D.QUESTER 1974 300FW12C
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1977 (30TH) SPARK HESKETH 308E H.ERTL
フランク・ダニー作 HESKETH 308E ハラルド・アーテル ポイント獲得ならず 1977年ヘスケスは資金難により 開幕~R4までを欠場 R5スペインGPでニューマシン308Eを投入 翌1978年序盤まで使用されて ヘスケスの最後のマシンとなった このヘスケス308Eは後に 空力のスペシャリストとも呼ばれ ウイリアムズ・ロータス・リジェ等で 活躍したフランク・ダニーのデザイン ドライバ―は前年より残留の ハラルド・アーテル(オーストリア) チームメイトはルパート・キーガン アーテルはR7ベルギーGP 予選25位→決勝9位が最高位 R9フランスGPでシーズン2度目の 予選落ちを最後にチームを離れ ヘスケスもノーポイントでシーズン終了 モデルはスパーク R7ベルギーGP仕様 アートル シーズンベスト9位 メインスポンサーのHEYCOは ナイロン樹脂製や金属製の配線材料を 販売するアメリカの会社 1970年代ではあまり見ないFORDのロゴが フロントウイングに存在する
231214 H.ERTL 1977 25FW12C
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1980 (25TH) KIT ENSING N180 C.REGAZZONI
クレイ・レガッツォーニ 引退 下半身不随の大事故 ENSING N180 1980年レガッツォーニは1977年以来の エンサインで1名体制でのエントリー 完走はR3南アフリカの決勝9位のみ R4アメリカWEST GP ブレーキペダルが折れる アクシデントで下半身不随の重症 これはとっさにギアを3速に入れ エンジンスイッチを切って減速の上 リタイア車に当てて衝撃をやわらげる という一連の操作で一命を取りとめた レガツォーニはこれ以来車椅子生活も 両手のみで操作ができるように 改造された車両で運転を継続 その内の一台であるHONDA NSXでの ドライブがテレビCMに残されている F1通算5勝とPP5回はいずれもそれぞれ 異なる年に記録しており フェラーリ時代のイタリアGPで2勝 またFLは15回と決勝での速さも光った 🏁クレイ・レガッツォーニ (スイス) 【決勝出走数】131回 (入賞52回-表彰台28回) 【予選最高位】 PP(5回) 1970年 FERRARI R15 メキシコ 1971年 FERRARI R 6 イギリス 1973年 BRM R 1 アルゼンチン 1974年 FERRARI R 5 ベルギー 1976年 FERRARI R 3 アメリカW 【決勝最高位】 優勝(5回) 1970年 FERRARI R10 イタリア 1974年 FERRARI R11 ドイツ 1975年 FERRARI R13 イタリア 1976年 FERRARI R 3 アメリカW 1979年 WILLIAMS R 9 イギリス 【ファステストLAP】(15回) https://www.youtube.com/watch?v=Th5RlvokgYI&feature=related
230712 C.REGAZZONI 1980 14FW12C
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1974 (30TH) SPARK BRM P201 C.AMON
クリス・エイモン自身10チーム目 終盤2戦 BRM P201で出走 1974年自己チームエイモン設立も 入賞どころか完走すらなく 資金難でR13イタリアGPで撤退 そんな中でBRMより声がかかり 終盤2戦をエントリー BRMが自身通算10チーム目となった チームメイトはJ・P・ベルトワーズ BRMはこの年スポンサーはフランスの オイル会社モチュールが付き カラーリングがグリーンとシルバーに変更 R14カナダGP予選25位→周回不足 R15アメリカGPはベルトワーズ欠場の中 予選12位→9位この年唯一の完走 チームBRMもかつての輝きは無く 翌1975年は1台体制になり エイモンはエンサインに移籍した
230707 C.AMON 15 1/43FW12C
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1980 (24TH) PMA RAM WILLIAMS FW07 R.KEEGAN
復活のチームRAM WILLIAMS FW07 ルパート・キーガン 決勝全戦完走 1980年 1976・1977年カスタマーで参戦の RAM RACINGが復活しウイリアムズの旧車 WILLIAMS FW07を購入し参戦 ルパート・キーガン イギリス出身 1976年21歳 イギリスF3チャンピオン 1977年プライベーター(ヘスケス308E) 1978年サ―ティス レギュラーで参戦 1980年 RAMでR8イギリスから7戦出走 予選通過・予選落ちを交互に繰り返し 4戦決勝進出 3戦予選落ち 決勝に進出の4戦はすべて完走 最高位はR14アメリカEAST GPでの 予選15位→決勝9位 参戦当初よりキーガンは 【ペントハウス】イギリス男性向け雑誌 【リズラ】 フランス手巻きタバコ のサポートを受けており 同社のロゴがRAMマシンにも貼られている キーガンは2年後の1982年 J・マスの離脱後のマーチ(RAM) 最後のF1参戦をする
230628 R.KEEGAN 2.784 50FW12C
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1974 (30TH) SPARK AMON AF1 C.AMON
クリス・エイモンオーナー兼ドライバ― チーム〖エイモン〗設立 AMON AF1 1974年 クリス・エイモンはかつて所属の フェラーリが再度獲得との噂もあったが 実現せずに前年度所属したテクノの マシンを基にオリジナルのマシン AF1を制作チーム〖エイモン〗で参戦 大型のリアウイングを装備しており フロントウイングはフロントノーズ後端に 1枚のウイングが乗った形状であったが ノンタイトル戦の事故を受けて 一般的なウイングノーズに変更 R4スペインGPから参戦 予選24位 決勝はブレーキシャフトが壊れリタイア R6モナコは予選20位で通過も 決勝はトラブルもありスタートせず R11ドイツは2台体制となり 同郷のラリー・パーキンスが出場するも 2台とも予選通過ならず R13イタリアGPも予選落ちで 資金難も重なりチーム〖エイモン〗は わずか4戦のエントリーで消滅した エイモンは1974年の終盤2戦を BRMで出場し最終戦アメリカGPでの 予選12位→決勝9位がシーズンベスト
230527 C.AMON 1974 30FW12C
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1990 (24TH) SPARK AGS JH25 Y.DALMAS
予備予選最多出場チーム AGS 歴代唯一のトップ通過 Y・ダルマス ヤニック・ダルマスはAGS2年目 チームメイトはガブリエル・タルキーニ 予備予選からの出場で苦しみ ダルマスの決勝進出は僅かに5回 モデル仕様の地元R7フランスGPは 予備予選4位→予選26位→決勝17位 R14ポルトガルGP 予備予選1位通過 予備予選 通算最多62(台)出場の チームAGSにとって歴代唯一のトップ通過 予選24位→決勝9位はシーズンベスト AGSはスポンサー集めに苦しみ 序盤2戦の旧型マシンJH24では スポンサー募集を込めてマシンに 大きな黄色い【?】を付けて話題となった そんな中ほぼ唯一の大スポンサーは フランスのファッションブランド 〖TED LAPIDUS〗テッド・ラピドス ジョン・レノンも愛用したブランドで ビートルズのアルバム Abbey Roadの表紙で 先頭を歩くジョン・レノンの白色スーツは デザイナーLAPIDUSがデザインしたもの ダルマスはこの後しばらくF1から離れ 1994年に古巣ラルースで2戦のみ出場 #F1-1990年
230413 Y.DALMAS 18 1/43FW12C
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1976 (28TH) SPARK SURTEES TS19 N.TAKAHARA
1976年F1世界選手権イン・ジャパン 日本人最上位 高原敬武 SURTEES TS19 1974年高原敬武はF1非選手権戦 インターナショナル・トロフィーに マーチ・741で参戦予選14位→決勝11位 非選手権戦ながら日本人として 初めてF1レースに出場したドライバ― 1975年マーチからF1参戦の打診があったが 上記参戦後にモナコを一般車で走行した際 精神的に持たないと感じオファーを固辞 1976年F1世界選手権イン・ジャパン サーティスがセカンドドライバ―を探しており このGPの冠スポンサーのスポーツニッポンの 紹介もあり高原の参戦が決定する 1976・1977年通じて外国籍チームで日本GPに 出場した唯一の日本人ドライバ― 予選はチームメイトのA・ジョーンズから 約1.4秒遅れの24位で決勝進出 決勝はグッドイヤーレインタイヤの摩耗での タイヤ交換もあったが9位完走 決勝出走3人の日本人ドライバ―の最上位 この時のタイヤの摩耗情報が役立ち チームメイトのA・ジョーンズはこの年の サーティスのシーズンベストの4位入賞 高原の持ち込みスポンサーでもある 伊太利屋・スタンレーなどが車体に貼られ 同じチームの日本GP仕様のモデルでありながら ジョーンズ車とはカラーリングもかなり異なる https://muuseo.com/FW12C/items/916?theme_id=35914 #F1世界選手権イン・ジャパン
230320 N.TAKAHARA 1976 18FW12C
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1968 (26TH) SPARK (TEAM GUNSTON) BRABHAM BT20 J.LOVE
F1歴史上唯一 南ローデシア ドライバ― ジョン・ラブ BRABHAM BT20 ジョン・ラブ 南ローデシア出身 南ローデシアはアフリカ南部に位置する 旧イギリスの植民地で現在のジンバブエ こちらの出身ドライバ―はF1史上唯一 ラブは南アフリカGPのみを 毎年スポット参戦するドライバ― 1962年~1972年までエントリー 1964・1966年は南アフリカGPが未開催だが 1964年のみ代役でイタリアGPに エントリーも予選落ちしている このモデルは1968年のマシンで 1966・1967年のチャンピオンマシンである ブラバムBT20を購入してプライベート TEAM GUNSTONより参戦 フロントサス横に自身の名前を 赤地に白文字で【JOHN LOVE】と大きく 描かれたオレンジ色のマシンで 予選17位→決勝9位完走している ラブはF1では前年の1967年に 自身唯一の入賞を2位表彰台で飾っており 1964年の初代含む1969年まで 6度の南アフリカF1選手権チャンピオン #F1-1968年
230312 J.LOVE 17 1/43FW12C
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1998 (22ND) PMA PROST PEUGEOT AP01 O.PANIS
プロスト2年目 オリビエ・パニス キャリア唯一のノーポイントPROST AP01 1998年 チームプロスト2年目 車名をJS→APに変更 APはアランプロストの略 オールフレンチを目指しエンジンは 無限→プジョーにスイッチした チームメイトはヤルノ・トゥルーリ パニスはリジェ時代から5シーズン目 開幕戦のオーストラリアの9位が最高 ギアBOXのトラブルが頻繁に発生 完走率は60%でパニスは粘り強く走るも シングルフィニッシュは1回のみ 年間順位は(22位) チームノーポイントの ミナルディ/ティレルの計4人にも負けて パニスより下の順位はは途中参戦した ヨス・フェルスタッペン(スチュワート)のみ 1994年~2004年(2000年は未参戦) 10年間 F1参戦オリビエ・パニスだが 年間ノーポイントで終わった唯一の年 画像1 タバコ GAULOISES仕様 画像2 オリジナル(バーコード)仕様
230224 O.PANIS 11 1/43FW12C
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1998 (22ND) PMA PROST PEUGEOT AP01 "TOWER WING″ O.PANIS
プロストが採用したタワーウイングは 1本の支柱でウイングが外側に付いた 最もオーソドックなタイプで この形状はフェラーリ/ティレルも採用 プロストはタワーウイングが禁止された R5スペインGP以前・以降とも不振の為 タワーウイング禁止の影響は不明 この年プロストにはPlayStationが スポンサーで付いているが これは ソニー・コンピュータエンタテインメントの ヨーロッパが主導しているもので 同社が1996年から発売したプレステ ソフト Formula 1 シリーズの販売促進の一環 1998年に発売されたFormula 1 98の ヨーロッパ版にはプロストAP01が パッケージに使用されているものが有り 他の地域ではフェラーリ/マクラーレンの パッケージ版も存在するが この年の日本版の発売は無かった #F1-1998年 https://muuseo.com/FW12C/items/658?theme_id=30882
230224 O.PANIS "TOWER WING″ 2.222FW12C
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1978 (28TH) PMA B&S FABRICATIONS McLAREN FORD M23 N.PIQUET
ネルソン・ピケ デビューイヤー 1978年プライベーター McLAREN FORD M23 3度のワールドチャンピオン ネルソン・ピケ デビューイヤーの1978年は3チームに所属 R11ドイツGPはエンサインでデビュー R12オーストリアGPからはプライベーター B&S FABRICATIONSで型落ちの マクラーレン フォードM23で3戦出場 マールボロではなくチェスターフィールドの タバコスポンサー仕様 完走はR14イタリアGPのみで9位 1973年に導入されたマクラーレンM23 6年間使用された名車の最後は ネルソン・ピケのドライビングであった 最終戦はブラバムのサードカーで出場 翌1979年はブラバムのレギュラードライバ―
N.PIQUET 1.872 29 1/43FW12C
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1997 (21ST) PMA STEWART FORD SF 1 J.MAGUSSEN
新規参戦ジャッキー設立スチュワート 異例の4年契約 ヤン・マグヌッセン 3度のワールドチャンピオン ジャッキー・スチュワートがチーム設立 フォードのワークスエンジンで参戦 新規チームがワークスエンジンを使用するのは 1976年のリジェ・マトラ以来 タータンチェックを施した白ベースのマシン ヤン・マグヌッセンは 1994年にイギリスF3で18戦14勝の 圧倒的成績でチャンピオンを獲得 1995年にマクラーレンで1戦のみデビュー 1997年は新規チームスチュワートと 異例ともいえる4年契約で参戦 TMのルーベンス・バリチェロに予選で 勝ったのは17戦中2回 最高6位 決勝は最終R17ヨーロッパGP最高9位 フル参戦初年度で大きな成果を出せなかった ヤンの息子 ケビン・マグヌッセンは 2014年父と同じマクラーレンからデビュー 2022年は2年ぶりにハースに復帰 R21ブラジルGPで自身初のPP獲得 #F1-1997年
221113 J.MAGUSSEN 23 スケールFW12C