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1975 (37TH) QUARTZO (TEAM GUNSTON) LOTUS 72E E.KEIZAN
プライベーター TEAM GUNSTON オレンジのLOTUS 72E E・ケイザン エディー・ケイザン 南アフリカ出身 南アフリカGPのみ出場したドライバ― 1973年1974年プライベーターでティレル004 1975年は南ローデシア(現ジンバブエ)出身 F1で2位表彰台の経験もあるジョン・ラブ 設立のプライベーターTEAM GUNSTONで参戦 マシンはロータス72Eを購入 チームのイメージカラーである オレンジに塗装して参戦 SHELLのオイル提供スポンサーも獲得 ケイザンはR3南アフリカGPに出場 予選は22位で通過決勝は13位完走 同じくガストンで参戦の南アフリカ出身 ガイ・タンマー予選25位→決勝11位 ちなみにこの1975年南アフリカGPは 11位 ガイ・タンマー LOTUS(TEAM GUNSTON) 12位 ジャッキー・イクス LOTUS 13位 エディー・ケイザン LOTUS(TEAM GUNSTON) 14位 ロニー・ピーターソンLOTUS LOTUSのマシンを使用した4名のドライバーが いずれも下位で4人連続のリザルトであった ケイザンとTEAM GUNSTONは このGPがF1でのラストレースとなった モデルはQUARTZO 1995年~1996年頃の発売と思われるが なかなかのマニアックなドライバ―と チームのモデルをリリースしていたのは 個人的には嬉しい所
230921 E.KEIZAN 1975 33FW12C
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2010 (21TH) SPARK LOTUS T127 J.TRULLI
チーム・ロータスの復活?? LOTUS T127 ヤルノ・トゥルーリ 2010年新規参戦チーム イギリスF3のライトスピードが母体となり デザイナー マイク・ガスコインと提携 更にジェームス・ハントの弟 デビット・ハントと契約して彼が所持する チーム・ロータスの名称使用権を得た 当初は新規3チームの選考から漏れたが 新規参戦予定のチームUSF1が消滅 また急遽トヨタのF1から撤退もあり 最終的にロータス・レーシングとして エントリーが認められた ドライバ―はトヨタ撤退でシート失った ヤルノ・トゥルーリとマクラーレンから 移籍のヘイキ・コバライネンの F1ウイナーコンビ(どちらも生涯1勝) 同年に新規参戦したHRTとヴァージンには 差をつけ既存チームのテールエンダー トロ・ロッソに迫ったもののポイント獲得はならず トゥルーリの決勝最高はR16日本GPの13位 予選ではチームメイトのコバライネンに 勝ったものの決勝では大きく負け越し 年間順位もトゥルーリ21位 コバライネン20位(決勝最高12位) 翌2011年もチームに残留 ロータス・レーシング→チーム・ロータスに 名称を変更するもロータス・ルノーとの間に ロータス名称問題が勃発する
230521 J.TRULLI 2010 18FW12C
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2006 (25TH) PMA SUPER AGURI SA05 Y.IDE
史上初 日本人ドライバ―同士 チームメイト 井出有治 SUPER AGURI 井出有治 埼玉県浦和市出身 2002年 フランスF3 7位(1勝) 2004年 フォーミュラニッポン3位(1勝) 2005年 フォーミュラニッポン2位(2勝) 2006年は日本人初の表彰台F1ドライバ― 鈴木亜久里が立ち上げたSUPER AGURIで F1デビュー チームメイトは佐藤琢磨 史上初の日本人2人のチームメイト 急遽立ち上げたチームでもあり テストもほとんどドライブしないまま 開幕戦デビューとなり2戦連続のリタイア R3オースラトリアGP 決勝13位完走するも R4サンマリノGPでは クリスチャン・アルバース(ミットランド)に 接触しアルバースのマシンは横転 自身もダメージを負いリタイア この接触事故も一因となり 残念ながらシーズン途中に発給済みの スーパーライセンスが取り消され 4戦限りのF1エントリーとなった その後フランク・モンタニー 山本左近が 井出のシートの後ドライブするも いずれも決勝最高は16位で 井出の13位を上回る事は出来なかった Y・IDEの名前三文字表記は C・PIC(シャルル・ピック)などと並び F1ドライバ―最小名前表記文字の1人
230428 Y.IDE 23 1/43FW12C
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1990 (32ND) SARK AGS JH25 G.TARQINI
ガブリエル・タルキーニ 2年越しの14戦連続予備予選落ち 前年の1989年AGSでF1初ポイント獲得の G・タルキーニは1990年もAGSに残留 チームメイトはヤニック・ダルマス R3サンマリノGPよりニューマシン AGS JH25を投入したが予備予選の壁が厚く 開幕から6戦連続予備予選落ち タルキーニは前年度のR9ドイツより 14戦連続の予備予選落ち AGS地元のR7フランスGPでは予備予選通過 したものの予選通過はならず 1989年R8イギリスGP含め16戦連続不通過 1990年R8イギリスGPで初の決勝進出含め この年の決勝進出は4レースのみ 決勝はモデル仕様のR10ハンガリーGPの 予選24位→決勝13位 が唯一の完走 資金難で参戦継続が危ぶまれたが 1991年もタルキーニはAGSで参戦 #F1-1990年
G.TARQINI 17 1/43 AGSFW12C
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1981 (31ST) SPARK OSELLA FA1B P.GHINZANI
イタリアのいぶし銀 F1デビュー ピエルカルロ・ギンザーニ OSELLA FA1B 1977年ヨーロッパF3チャンピオン 1979年イタリアF3チャンピオン 1981年デビューはイタリアのオッゼラ R5ベルギーGP 予選24位→決勝13位 R6モナコGPは予選落ち この年は2戦のみで その後 1983年~1989年まで オッゼラ トールマン リジェ ザグスピードと 下位チーム中心に参戦 F1通算 76戦出走 入賞は1回(5位) 予備予選落ち12回 歴代ワースト10位 予選落ち15回 歴代ワースト5位 ギンザーニはこのモデルのみ所持 下位チームという事もあり通算76戦参戦も あまり量産化されていないドライバ― #F1-1981年
221025 P.GHINZANI 31 1/43FW12C
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1979 20TH+α PMA ARROWS A2 R.PATRESE
1979年後半戦登場 ARROWS A2 R・パトレーゼは苦戦の後半ノーポイント 前輪ロッキングアームまでカウルで覆い 車体全体を一枚の翼に見立てた形状で 高いダウンフォースを得ようという コンセプトのARROWS A2は スポンサーのヴァルシュタイナーの ゴールドを纏い黄金の弾丸とも呼ばれた R8フランスGPから導入されたが R・パトレーゼはシャーシの剛性に欠け 安定性の悪いA2で苦戦をして 後半戦はノーポイントに終わる A2での成績の最高位は 予選R11オーストラリアGP13位 決勝R13イタリアGP13位 R14カナダGPでは旧型のA1に戻して出場 こちらのモデルは今は無きあるショップで 購入しましたがよく見ると初期不良で A2の特徴でもある角のように突き出した サイドミラーがついていません・・・ #F1-1979年 #ヴァルシュタイナー J・マス車はサイドミラーついています↓ https://muuseo.com/FW12C/items/695?theme_id=34203
R.PATRESE 29 1/43 ARROWSFW12C
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1979 (31ST) SPARK ENSIGN N179 P.GAILLARD
パトリック・ガイヤール フランス出身 1970代半ばR・アルヌー D・ピロー二などと フランスのヌーヴェル ヴァーグと呼ばれた 1979年D・デイリーがエンサインを去った後 T・ニーデルにライセンスが降りず ガイヤールがR8フランスより参戦 R8~R12で5戦中3度の予選落ち モデル仕様のR9イギリスが 唯一の完走 予選23位→決勝13位 ENSING N179の車体にとっても完走は1回のみ ガイヤールは翌年1980年スペインGPで ENSINGから再度スポット参戦 トップから5週遅れも6位入賞を果たしたが このGPは後にノンタイトル戦に格下げされた為 幻のポイントとなってしまった 結局F1では1979年の2戦のみの決勝出走 ガイヤールは1978年と1980年に 全日本F2にもスポット参戦しています #F1-1979
P.GAILLARD 22 1/43 ENSIGNFW12C
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1991 (35TH) SPARK FOOTWORK FA12 M.ALBORETO
#1991 #ポルシェ
M.ALBORETO 9 1/43 FOOTWORKFW12C
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1990 11TH+α SPARK EUROBRUN ER189 JUDD R.MORENO
コローニから1990年はユーロブルンに R・モレノは移籍 TMはC・ランジェス R1アメリカ 予備予選を1位で通過 予選をなんと16位で通過 (17位はフェラーリ マンセル) 決勝は5週遅れの13位で完走 モデル仕様のR3サンマリノで 予選25位→決勝R 予選通過は2回のみ C.ランジェスは全戦予備予選落ち ユーロブルンは日本GP前に撤退 (全シーズン ノーポイント) 当時ほとんど情報の入らない謎のチーム しかしながらこの撤退が モレノの感動の2位につながります #1990 #F1
R.MORENO 350 33 1/43FW12C