-
1980 (32ND) YAXON ALFA ROMEO 179 P.DEPAILLER
パトリック・ドゥパイエ テスト中に散る ALFA ROMEO 179 前年の1979年シーズン途中に ハンググライダーの事故で両足を骨折 リジェを離れ1980年はアルファロメオに移籍 チームメイトはブルーノ・ジャコメリ 序盤2戦の予選で23位・21位と苦戦 その後ドゥパイエの提案もあり 軽量化を含む大幅な改良を実施 R3南アフリカ 予選7位 R4アメリカW 予選3位と大きく進歩を見せたが 決勝は信頼不足もあり全てリタイア 後半戦に向けたドイツでのテスト中 コースアウトでクラッシュ 残念ながら帰らぬ人となった この年同郷フランスのアラン・プロストが F1デビューを果しドゥパイエは パドックなどで面倒をみていた そのアラン・プロストの結婚式当日に ドゥパイエ は帰らぬ人となる 悲しみの事故でもあった モデルはF1モデルで唯一の所持のYAXON F1通算2勝のドゥパイエ 富士スピードウェイで行われた 1976年・1977年の日本グランプリでは いずれも表彰台に上がっている 🏁パトリック・ドゥパイエ(フランス) 【決勝出走回】 95回 入賞36回-表彰台19回 【予選最高位】 PP 1974年 ティレル R7スウェーデン 【決勝最高位】 優勝(2回) 1978年 ティレル R5モナコ 1979年 リジェ R5スペイン 【ファステスト】 4回
230426 P.DEPAILLER 22 1/43FW12C
-
1984 (32ND) PMA TYRRELL FORD 012 S.BELLOF(GP MONACO)
ステファン・ベロフ モナコGP 幻の3位表彰台 TYRRELL FORD 012 1984年 R6 モナコGP 予選は20位までが決勝進出 この年ルーキーのドイツ人ドライバー S・ベロフはギリギリの20位で通過 チームメイトのM・ブランドルは予選落ち 決勝は豪雨の中のレースで 予選最後尾から追い上げ3位まで浮上 レースは豪雨で31周で打ち切られ そのまま3位表彰台を獲得 このレースは2位A・セナ(トールマン)が レースが仮に継続していたらトップの A・プロスト(マクラーレン)をとらえていた とも言われるレースだが3位のベロフも ペースを考えると優勝争いのチャンスが あったとも言われている しかしこの後チームは 不正なエンジン出力の増大行為 所謂水タンク事件で成績が全て失格となり ベロフの3位リザルトも幻となってしまった このモデルはモナコGP仕様 ミニチャンプスの通常版とは異なり タイヤは レインタイヤ スポンサーもイタリアのDeLonghiと このGPのベロフ車のみに フランスの化粧品メーカーDISCOSTARの ロゴがフロントウイングに貼られている
230404 S.BELLOF 2,304 4FW12C
-
1982 (32TH) CP MODEL TOLEMAN TG181C D.WARWICK
ディレック・ワーウィック 初のFL ロリー・バーン作 TOLEMAN TG181C ディレック・ワーウィック イギリス出身 前年度トールマンで初参戦も 12戦中決勝進出1回 決勝リタイア 1982年もトールマンで参戦 チームメイトはテオ・ファビ ロリー・バーン デビュー改良版のTG181C ハート直列4気筒ターボエンジン タイヤはミシュラン→ピレリに変更 車体はノーズ上にフロントウィングを 載せた独特な形状をしている 予選ではR4サンマリノ 最高位8位など 中段順位を獲得するも信頼性が乏しく 決勝は完走2回 最高位10位 それでも1発の速さは持ち合わせており R9オランダGPではファステストラップ 自身とチームにとっても初のFL獲得 ワーウィックとトールマンにとっては F1初入賞前にFL記録する珍しいパターン R10イギリスGPでは一時2位を走行 しかしこれはスポンサーの意向もあり 燃料を軽く積んでレースに望み 少しでもTV等で取り上げてもらう為の苦肉策 全76周のGPだが41周で燃料切れリタイア シーズン後半にはニューマシン TG183が投入され翌年終盤4戦で ワーウィックとチームの初ポイントを獲得 #F1-1982年
230307 D.WARWICK 1回 35FW12C
-
1990 (32ND) SARK AGS JH25 G.TARQINI
ガブリエル・タルキーニ 2年越しの14戦連続予備予選落ち 前年の1989年AGSでF1初ポイント獲得の G・タルキーニは1990年もAGSに残留 チームメイトはヤニック・ダルマス R3サンマリノGPよりニューマシン AGS JH25を投入したが予備予選の壁が厚く 開幕から6戦連続予備予選落ち タルキーニは前年度のR9ドイツより 14戦連続の予備予選落ち AGS地元のR7フランスGPでは予備予選通過 したものの予選通過はならず 1989年R8イギリスGP含め16戦連続不通過 1990年R8イギリスGPで初の決勝進出含め この年の決勝進出は4レースのみ 決勝はモデル仕様のR10ハンガリーGPの 予選24位→決勝13位 が唯一の完走 資金難で参戦継続が危ぶまれたが 1991年もタルキーニはAGSで参戦 #F1-1990年
G.TARQINI 17 1/43 AGSFW12C
-
1977 (32ND) SPARK TYRRELL 007 K.TAKAHASHI
追悼 高橋国光さん 日本のモータースポーツ界レジェンド 元レーシングドライバーの高橋国光さんが 2022年3月16日にお亡くなりになりました 享年82歳 ご冥福をお祈りいたします 1976年のF1世界選手権イン・ジャパンで 星野一義が使用したTYRRELL 007のマシン 1977年そのマシンが谷井清純率いる メイリツ レーシングに渡り 当時37歳の高橋国光のドライビングで R17日本GP 富士SWに参戦 高橋国光の決勝進出の年齢は36歳267日 これは日本人ドライバ―の中で2番目の遅さ 1 鈴木利男 38歳228日 1993年 ラルース 2 高橋国光 36歳267日 1977年 メイリツ 3 中嶋悟 34歳 48日 1987年 ロータス | 17 中嶋一貴 22歳238日 2007年 ウイリアムズ 18 角田裕毅 20歳321日 2021年 アルファタウリ 前年度の星野一義が使用したマシンとの 主な変更点は以下の2点 ノーズ スポーツカーノーズ→ウイング タイヤ ブリヂストン→日本ダンロップ 高橋国光は約3年落ちのマシンながら 予選22位→決勝9位完走 これは参戦した3人の日本人の中でトップ 高橋国光のF1はこの1戦限り ちなみに日本人で最も早くデビューした 角田裕毅の初戦も9位完走 あらためて高橋国光さんの ご冥福をお祈りするとともに その魂を引き継ぎ 同じ日本人F1ドライバーの 2022年の角田裕毅の活躍にも期待しております #追悼高橋国光さん #追悼 #F1-1977年 #1977 #ティレル007 #1977年日本GP #頑張れ角田
K.TAKAHASHI 1/43 メイリツ レーシング SPARKFW12C
-
1979 (32ND) IXO ALFA ROMEO 177 B.GIACOMELLI
アルファロメオ28年ぶりのF1参戦 アルファロメオはF1創設期の 1950年ジュゼッペ・ファリーナ 1951年ファン・マニュエル・ファンジオ 2年連続のワールドチャンピオン以来 28年ぶりにコンストラクターとして復帰 1979年はブラバムにエンジン供給が されているため区別する為に アルファ・アルファと呼ばれていた ブルーノ・ジャコメリ イタリア出身 1978年ヨーロッパF2チャンピオン 1977年と1978年にマクラーレンより スポット参戦もしている アルファロメオ177の車体は R6ベルギーがグランプリ初戦 予選14位→決勝は接触でリタイヤ R8フランス予選17位→決勝17位 177の名が示すように本来 1977年に設計された車体だが参戦が遅れ 結局1979年にジャコメリがこの2戦と TMのV・ブランビラが1戦の計3戦のみ出走 エンジンが水平対向→60度V12に変更された アルファロメオ179がR13イタリアより登場 それまでの暫定的な車体として役割を終えた #F1-1979年
B.GIACOMELLI F1マシンコレクション 35 59FW12C
-
1992 (32ND) SPARK MARCH CG911 J.LAMMERS
F1参戦ブランク最長162GP ヤン・ラマース MARCH CG911 1982年R11フランスGP(セオドール)を 最後にF1から遠ざかっていたラマース 1992年10年ぶりにマーチより参戦 この間のブランクは162GPで歴代最長 カール・ベンドリンガーの離脱に伴い スポンサーを持ち込み終盤2戦に出場 モデル仕様のR15日本GPでは予選23位 チームメイトのエマニエル・ナスペッティの 予選26位を上回ったが これは 全日本F3000に出場経験があり 1987年童夢で鈴鹿での優勝経験が役立った 最終R16オーストラリアは予選25位 決勝12位でシーズンベストリザルト 翌1993年もマーチでエントリー 開幕戦にTMのJ・M・グーノンと共に 南アフリカに現れたがチームが資金難で 到着せずラマースのF1参戦も終了した F1以外では1988年にジャガーで J・ダンフリーズ A・ウォレスとともに ルマン24時間で優勝している 🏁ヤン・ラマース (オランダ) 【決勝出走数】 23回 (入賞0回) 【予選最高位】 4位 1980年 ATS R4 アメリカWEST 【決勝最高位】 9位 1979年 シャドウ R14 カナダ #F1-1992年
J.LAMMERS 16 1/43 MARCHFW12C
-
1991 (32ND) SPARK MODENA LAMBORGHINI 291 E.VAN DE POELE
エリック・バン・デ・ポール ベルギー出身 F1デビュー 入賞目前ガス欠 MODENA 291 1987年DTM チャンピオン 1990年国際F3000 3勝 ランキング2位 1991年はF1に参戦 LAMBORGHINのモデナ 予備予選組のE・バン・デ・ポールは R3サンマリノGPで予備予選を4位で通過 予選21位で初の決勝進出 サバイバル戦を生き残り5位走行 しかしラスト1周でまさかのガス欠 ラスト1周で涙をのんだ(9位完走扱い) 奇しくもこの9位がバン・デ・ポールの F1での生涯ベストリザルト 開幕戦のTMのN・ラリーニの7位により モデナは後半戦予備予選免除になったが バン・デ・ポールの決勝進出は1回のみで 予備予選落ち7回 予選落ち8回 マウロ・フォルギエリ作のモデナ291は 三角形のサイドポッドにラジエーターを 斜めに搭載し綺麗なダークブルーのカラー しかし形状は時代遅れでチームは1年限りで撤退した
E.VAN DE POELE 35 1/43 MODENAFW12C
-
1984 (32ND) PMA TYRRELL FORD 012 S.BELLOF
ステファン・ベロフ(ドイツ)は1984年デビュー M.ブランドルとともに新人らしからぬ活躍 R3ベルギーで6位 R4サンマリノ5位 連続入賞 そして R6モナコは雨で途中で打ち切りも 3位表彰台獲得(1位プロスト 2位セナ) しかしながら所謂 水タンク問題で 1984年の成績はすべて失格となります 翌年はティレル残留も 世界耐久選手権で残念ながら他界 ドイツ国旗をモチーフのヘルメットと車体の カラーリングがとても良いです こちらのモデルはMuuseoではおなじみの 【アダムスキー(当時はサイケデリア)】で購入 2008年8月14日 2800円 #アダムスキー(サイケデリア) #F1-1984年
S.BELLOF 3.024 4 1/43FW12C
-
1994 (32ND) SPARK LOTUS 109 M.SALO
ミカ・サロのF1デビュー車 LOTUS109同時に初期LOTUS最後 サロはJ・ハーバートの移籍に絡み 終盤2戦をドライブ エンジンは無限 チームメイトはA・ザナルディ 全日本F3000で鈴鹿での経験生かし 日本GPは粘りの走行で予選25位→10位完走 何と言っても 塩野義製薬がサポートで 日本GPでは ザナルディ車【新ポポンS】 サロ車【セデス・ハイ】の商品名が スポンサーとして貼られました HITACHI KOMATSU TAMIYA Nichibutsu イエローハットなど たくさんの日本企業がサポートも チーム・ロータスは1994年で幕を閉じます #F1-1994年 #セデス・ハイ
M.SALO 11 1/43 LOTUSFW12C
-
1993 (32ND) PMA JORDAN HART 193 I.CAPELLI
1993年I.カペリは かつての盟友イアン・フィリップ の誘いもありジョーダンと契約 開幕戦の南アフリカGPは 予選18位→決勝はリタイヤ このGPではかつてカペリも所属の マーチがエントリーするも (J-M.グーノン J.ラーマス) 資金難で出走せず エントリー台数が26台となり R2ブラジルより予選26位が予選落ちのルール となった(R9イギリスGPまで) この予選落ち第1号となったのはカペリ その後チームとの資金トラブルもあり このGPでジョーダンを離脱 そのままF-1からは引退しました 最後は残念な形でしたが カペリ(とレイトンハウス)は 輝きを放つドライバーとして 今も記憶に残っています #1993
I.CAPELLI 15 1/43 JORDANFW12C
-
1986 (32ND) SPARK AGS JH21 I.CAPELLI
フランスチーム AGS イヴァン・カペリでF1初参戦 1986年フランスのAGSが途中2戦のみ参戦 ドライバ―は前年度1985年ティレルで スポット参戦で4位入賞したI・カペリ エンジンはモトリーニ・モデルニ モデル仕様のR13イタリアGP R14ポルトガルGPとも 予選25位→決勝リタイア 予選結果はR13イタリアはPPより約9秒落ち R14ポルトガルは約7秒落ち スポンサーの EL CHARROは アパレルブランド 中々のマニアックなマシンがリリースされ 発売当初はとても個人的に喜びました 翌1987年カペリはマーチで AGSはP・ファブルを擁し それぞれ初のF1フル参戦をしています #F1-1986年
I.CAPELLI 31 1/43 AGSFW12C
-
1985 (32ND) SPARK RENAULT RE60 F.HESNAULT
1チーム3台エントリー 最後のマシン 車載カメラ搭載 RENAULT RE60 1985年フランソワ・エスノーは ブラバムでN・ピケのチームメイトであったが 開幕から3戦連続リタイアとモナコで予選落ち その後双方合意の元ブラバムと契約解除 1985年R9ドイツGP エスノーはルノーの旧型マシンRE60で参戦 この車体には公式セッションで初めて テレビ放送用の車載カメラを登載して走行した 予選23位→決勝は8周目トラブルでリタイア 残念ながらモデルに車載カメラは 再現されていない… またこのマシンは1つのチームによる 3台エントリーの最後のマシンでもあった フランス出身のF.エスノーの 最後のF1GPであり 生涯成績は 前年1984年リジェ所属時 予選 R7カナダGP 13位 決勝 R13オランダGP 7位が最高であった #F1-1985年
F.HESNAULT 14 1/43 RENAULTFW12C