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1977 (30TH) SPARK HESKETH 308E H.ERTL
フランク・ダニー作 HESKETH 308E ハラルド・アーテル ポイント獲得ならず 1977年ヘスケスは資金難により 開幕~R4までを欠場 R5スペインGPでニューマシン308Eを投入 翌1978年序盤まで使用されて ヘスケスの最後のマシンとなった このヘスケス308Eは後に 空力のスペシャリストとも呼ばれ ウイリアムズ・ロータス・リジェ等で 活躍したフランク・ダニーのデザイン ドライバ―は前年より残留の ハラルド・アーテル(オーストリア) チームメイトはルパート・キーガン アーテルはR7ベルギーGP 予選25位→決勝9位が最高位 R9フランスGPでシーズン2度目の 予選落ちを最後にチームを離れ ヘスケスもノーポイントでシーズン終了 モデルはスパーク R7ベルギーGP仕様 アートル シーズンベスト9位 メインスポンサーのHEYCOは ナイロン樹脂製や金属製の配線材料を 販売するアメリカの会社 1970年代ではあまり見ないFORDのロゴが フロントウイングに存在する
231214 H.ERTL 1977 25FW12C
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1989 (30TH) SPARK LEYTON HOUSE MARCH 881 I.CAPELLI
名車 LEYTON HOUSE MARCH 881 ラストレース イヴァン・カペリ 1989年マーチは新車CG891投入まで 開幕~R2まで前年のマーチ881を使用 開幕戦ブラジルGPカペリは予選7位 決勝は22/61周目にトラブルでリタイア チームメイトのマウリシオ・グージェルミンが 地元で自身唯一の3位表彰台を獲得 R2サンマリノGP予選16位 決勝は1周目に接触でリタイアしている エイドリアン・ニューウェイ 出世作ともいえるMARCH 881 前年1988年に予選最高3位 決勝では2位・3位を1回 そして何より日本GP鈴鹿での 16周目の一瞬のリーダーラップ 記憶と記録を残した名車であった モデルはSPARK 大阪のモデルガレージロム別注 ラストレースのR2サンマリノGP仕様 1989年のカラーリングで BPのグリーンがポイントとなっている 限定数300でほとんどの店で品切れ とあるお店で運よく1台だけあって購入 残念ながらインダクションポッド横の BPのデカールが斜めに曲がっていました… 修正したいのですが技量も無く… このまま雰囲気を感じるだけでも良いです https://muuseo.com/FW12C/items/168?theme_id=31437
230906 I.CAPELLI 1989 300FW12C
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1974 (30TH) SPARK BRM P201 C.AMON
クリス・エイモン自身10チーム目 終盤2戦 BRM P201で出走 1974年自己チームエイモン設立も 入賞どころか完走すらなく 資金難でR13イタリアGPで撤退 そんな中でBRMより声がかかり 終盤2戦をエントリー BRMが自身通算10チーム目となった チームメイトはJ・P・ベルトワーズ BRMはこの年スポンサーはフランスの オイル会社モチュールが付き カラーリングがグリーンとシルバーに変更 R14カナダGP予選25位→周回不足 R15アメリカGPはベルトワーズ欠場の中 予選12位→9位この年唯一の完走 チームBRMもかつての輝きは無く 翌1975年は1台体制になり エイモンはエンサインに移籍した
230707 C.AMON 15 1/43FW12C
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1991 (30TH) SPARK AGS JH25B G.TARQUINI (GP GERMAN)
AGS 後半戦カラーリング一新 ガブリエル・タルキーニ AGS JH25B 1991年AGSは地元R7フランスGPより 白ベースのカラーリングを変更 AGS発祥の地プロバンス地方の空を イメージしたブルー主体のカラー しかし新たなスポンサーも付かず 成績も振るわず後半戦は予備予選組 モデル仕様のR9ドイツGP タルキーニは予備予選を2位で通過 しかし予選は29位で決勝進出ならず この1991年ドイツGPは 中嶋悟のF1引退が発表 当時は速報誌GPX(山海堂)を購入していたが このGPはF1PRIX(双葉社)も購入 こちらの雑誌にはモデルのAGS JH25B タルキーニ車の写真が珍しく掲載(画像7) タルキーニは新車JH27で R13ポルトガルGPの予備予選3位で通過も 決勝はまたしても予選落ち R14スペインGP~フォンドメタルに移籍 AGSはR14スペインGPでタルキーニと トレードの形でO・グルイヤールを 起用も予備予選落ち このGPをもってF1から撤退した
230609 G.TARQINI 350 18FW12C
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1974 (30TH) SPARK AMON AF1 C.AMON
クリス・エイモンオーナー兼ドライバ― チーム〖エイモン〗設立 AMON AF1 1974年 クリス・エイモンはかつて所属の フェラーリが再度獲得との噂もあったが 実現せずに前年度所属したテクノの マシンを基にオリジナルのマシン AF1を制作チーム〖エイモン〗で参戦 大型のリアウイングを装備しており フロントウイングはフロントノーズ後端に 1枚のウイングが乗った形状であったが ノンタイトル戦の事故を受けて 一般的なウイングノーズに変更 R4スペインGPから参戦 予選24位 決勝はブレーキシャフトが壊れリタイア R6モナコは予選20位で通過も 決勝はトラブルもありスタートせず R11ドイツは2台体制となり 同郷のラリー・パーキンスが出場するも 2台とも予選通過ならず R13イタリアGPも予選落ちで 資金難も重なりチーム〖エイモン〗は わずか4戦のエントリーで消滅した エイモンは1974年の終盤2戦を BRMで出場し最終戦アメリカGPでの 予選12位→決勝9位がシーズンベスト
230527 C.AMON 1974 30FW12C
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1972 (30TH) CP MODEL EIFFELAND 21 R.STOMMELEN
流体力学的独創デザインマシン アイフェラント21 R・シュトルメン アイフェラント・ボーゲンバウは ドイツのキャンピングメーカー F2時代にロルフ・シュトルメをサポート 1972年にはF1にプライベートチームを設立 マーチ721の4号車を買取独自の施しを実施 スイス人デザイナーのルイジ・コラ―ニの 流体力学を重視した独走デザイン コクピット前方にエアインテークを設置 ドライバ―の目の前にバックミラーがあり 支柱も空気抵抗を配慮した断面形状 ドライバ―頭部の後方も流線形のような 気流を乱さぬようなデザインであった シュトルメンの予選最高は14位 決勝最高は10位が2回とポイント獲得は 無かったものの完走は8戦中6回 R4モナコGPでは元々の車体のマーチ721で 出場した他の5台よりも先着の決勝10位 モデルのCar No6はR5ベルギーGP仕様 予選20位→決勝11位完走 しかし資金が底をつきR9オーストリアで アイフェラントはF1から撤退した F1デザインの独創的な名車(迷車)特集では よく登場する唯一無二のアイフェラント21 CP MODEL (国際貿易)が量販モデル化
230503 R.STOMMELEN 6 1/43FW12C
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1991 (30TH) SPARK AGS JH25B G.TARQUINI
AGS 3年目ガブリエル・タルキーニ 開幕戦サバイバル 8位完走 資金難で参戦も危ぶまれたAGSであったが チームオーナーも変わり何とかエントリー G・タルキーニはAGS 3年目 AGS初年度の1989年に6位入賞の経験持つ チームメイトはステファン・ヨハンソン 3戦目よりファブリツィオ・バルバッツァ 開幕戦アメリカGP フェニックス市街地 前年の成績(Y・ダルマスの9位)により 予選からのエントリーで22位で通過 決勝は4週遅れながら8位完走 モデル仕様のR4モナコGPで シーズンベストの予選20位で通過 決勝はギアボックストラブルでリタイア このGPが1986年から参戦AGS 最後の49回目の決勝進出となった 数少ないAGS(フランス)スポンサーの中 フロントウイングにイタリアのBBURAGO この時代のモデル発売を狙っていた? このモデルはタルキーニ ヨハンソン車が 販売されたがバルバッツァの リリースのアナウンスが無い SPARKは以前よりマイナードライバ―も しっかりリリースしてきたので 何か版権の問題なのか…不明 #F1-1991年
230308 G.TARQINI 17 1/43FW12C
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1975 (30TH) SPARK (POLAR CARAVANS) HESKETH 308 T.PALM
トルステン・パルム スウェーデン出身 生涯2戦限り参戦 HESKETH 308 1975年 プライベートチーム ポーラー・キャラヴァンズでヘスケスのマシン 2戦限り参戦 トルステン・パルム R5モナコGPは予選落ち R7スウェーデンGP 予選21位で通過 地元の利を生かし決勝10位で完走 このGP他にHESKETH 308の車体で2名参戦 ジェームス・ハント 予選13位→決勝リタイア アラン・ジョーンズ 予選19位→決勝11位 予選では敗れたが決勝では最上位であった トルステン・パルムの生涯F1はこのGPのみ くまのイラストが描かれ プライベートチームの名称となっている POLAR CARAVANSは1964年設立の スウェーデンのキャンピングカーメーカー 同郷のロニー・ピーターソンの プライベートスポンサーでもあり ピーターソンのヘルメットにも 同社のロゴが貼られていました #F1-1975年
230227 T.PALM 1975 32FW12C
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1981 (30TH) SPARK TYRRELL 010 R.ZUNINO
リカルド・ズニーノ F1最後のマシン 1981年2戦限りのTYRRELL 010 R・ズニーノは1979年 N・ラウダが1度目の引退のカナダGP フリー走行後にブラバムで初エントリー 1981年はK・コーガンに代わり R2ブラジルとR3アルゼンチンに出場 TMはエディー・チーバー 両GPとも予選24位→決勝13位 モデル仕様の地元アルゼンチンGPが ズニーノのF1での最後のGPとなり この後ティレルはM・アルボレートを起用 このモデルはF1では珍しいズニーノの 持ち込みのCoca-Colaがスポンサー 資金の関係からかCoca-Colaのロゴは コックピット左側のみで右側は無い という珍しいスポンサーロゴ仕様 R・ズニーノはF1での出走は10回で 最高位は7位が2回 入賞はならなかった #F1-1981年 #Coca-Cola
220629 R.ZUNINO 4 1/43FW12C
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1994 (30TH) SPARK LOTUS 109 A.ZANARDI
名門チームロータス最後のマシン LOTUS 109 アレッサンドロ・ザナルディ 1994年A・ザナルディはロータスの テストドライバーでスタート 前年の1993年はケガの為P・ラミーに シートを奪われたが1994年は逆に ラミーのケガによりR5スペインGPより参戦 旧型の107Cで2戦を走り R7フランスGPよりLOTUS 109で走行も 旧マシン107CのR5スペインの決勝9位が最高 シーズン途中2戦はP・アダムスにシートを譲り J・ハーバートが移籍した為が同一チームながら R14ヨーロッパGPからはカーナンバーが 11→12に変更になる珍しいパターン R15日本GPではスポンサーの塩野義製薬の 商品名『新ポポンS』が貼られたマシンで走行 TMのM・サロは『セデス・ハイ』 そのサロとともにR16オーストラリアGPが 結果的に名門ロータスの最後のGP 通算決勝1223回目出走となった ザナルディはF1を離れCART(インディ)に挑戦 1997年・1998年にチャンピオンとなり 1999年ウイリアムズでF1に復帰します #F1-1994年 #1994 LOTUS 109 M・サロ『セデス・ハイ』仕様↓ https://muuseo.com/FW12C/items/260?theme_id=33228
A.ZANARDI 11 1/43 LOTUSFW12C
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1979 (30TH) SPARK ALFA ROMEO 179 V.BRAMBILLA
頭部骨折の重傷から1年ぶりの復帰の ヴィットリオ・ブランビラ 1979年アルファロメオで出場 (チーム名はアウトデルタ) R13イタリアは暫定モデルの177 予選22位→決勝12位 R14カナダでニューマシン179で参戦 179はモノコックの後端の上部が 斜めに削られ形状でそこに エンジンのオイルタンクを装備する ユニークな設計が特徴で 1982年の開幕戦まで改良版が使用された ブランビラはモデルのR14カナダGPは 1台のみのエントリーで予選18位→決勝R 最終戦のR15アメリカ東は予選落ちしている
V.BRAMBILLA 36 1/43 ALFA ROMEOFW12C
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1988 (30TH) SPARK WILLIAMS JUDD FW12 J.L.SCHLESSER
ジャンールイ・シュレッサー フランス出身 叔父のジョー・シュレッサーも 1968年ホンダでR6フランスGPに出場 残念ながらこのGPで事故死している 1983年RAMにて参戦時は予選不通過 1988年は病欠のN・マンセルの代役として R12イタリアGPに出場 予選はTM R・パトレーゼから 約2.1秒遅れの22位で通過 決勝はラスト2週 周回遅れで走行中に第1シケインで トップ走行のA・セナ(マクラーレン)に タイヤをロックさせて接触 セナはリタイヤ(10位完走扱い) シュレッサーは11位で完走 結果的ではあるがこれが マクラーレン・ホンダの16戦全勝を阻んだ シュレッサーは2001年ダカールラリーで 日本人で優勝目前の増岡浩に妨害 計測ミスもあり総合2位に 追いやったことでも話題に上がった 世界耐久選手権では ザウバー・メルセデスで 1989年.1990年と連覇している
J.L.SCHLESSER 5 1/43 BARCLAYFW12C
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1985 (30TH) SPARK RAM 03 S4T M.WINKELHOCK
2022年現在までに親子揃って F1ドライバ―になったのは15組31名 親子でワールドチャンピオンは ヒルそしてロズベルグ 複数人はブラバム 日本人は中嶋 近年はフェルスタッペンが有名 2021年はミック・シューマッハが参戦 マンフレッド・ヴィンケルホック ドイツ出身 主にF1ではATSに所属 1985年はATSが撤退もありRAMで参戦 R7フランスGPの決勝12位が最高位 並行して参戦の世界耐久選手権(WEC) にてレース中に事故死 享年33歳 マンフレッドの弟のヨアヒムも 1989年AGSで参戦 こちらは 7戦全戦予備予選落ちで決勝進出ならず 1985年5歳であったマンフレッドの息子 マルクス・ヴィンケルホックは 2007年のスパイカーチームで1戦限り R10ヨーロッパGPでF1に参戦している #F1-1985年 #F1親子鷹 https://muuseo.com/FW12C/items/679
M.WINKELHOCK 9 1/43 RAMFW12C
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1993 (30TH) ONYX CASTROL LOTUS 107B P.LAMY
ペドロ・ラミーはポルトガル出身 1992年ドイツF3チャンピオン 1993年はロータスのテストドライバー ピンク色のヘルメットが特徴 R13イタリアGPよりザナルディの代役で 初出走 予選最下位→決勝11位 その後は接触・スピンなど 見せ場なく終了したが 次年度は開幕戦よりロータスの レギュラーシート獲得 古館語録では 音速のフランシスコ・ザビエル リスボン特急と表現されていました R15日本GPでは終盤に アクティブサスペンションの影響で 派手にクラッシュ(画像4枚目) 13位完走扱い #1993
P.LAMY 12 1/43 LOTUSFW12C
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1990 (30TH) TAMEO ONYX ORE-2 J.J. LEHTO
フィンランド出身のJ.J.レートは愛称で 本名はユルキ・ユハニ・ヤルヴィレヘト 何とも言いにくい為 ケケ・ロズベルグの指示で J.J.レートで登録して参戦 1989年終盤4戦をONYXで出場 1990年はレギュラードライバ―として参戦 チーム内はゴタゴタで2戦目で S・ヨハンソンが離脱 出資金を持つ G・フォイテクが加入 R9ドイツGPからはチーム名も モンテベルディに変更 R10ハンガリーで2台予選落後 チームに見切りをつけ両ドライバー離脱 チームもそのまま消滅しました 前年度のS・ヨハンソンの 参戦初年度表彰台も虚しく 1年半で消えてたONYX カラーリングはとても好きでした
J.J. LEHTO 36 1/43 ONYXFW12C