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2011 (27TH) SPARK HRT F111 D.RICCIARDO
ダニエル・リカルド デビュー レッドブルシート買取り HRT F111 ダニエル・リカルド オーストラリア出身 2009年イギリスF3チャンピオン 6勝/20戦 2010年Fルノー3.5 シリーズ2位 5勝/17戦 2011年 レッドブル傘下トロ・ロッソの サードドライバー金曜日フリー走行参加 R9イギリスGPよりHRTにてF1デビュー これはレッドブルがHRTのシート買取った形 チームメイトはヴィタントニオ・リウッツィ 予選ではリウッツィと互角の勝負 戦闘力の乏しHRTでは如何ともならず 決勝は完走を優先し最高18位が2回 翌2012年はトロ・ロッソのレギュラー獲得 モデルはスパーク R12ベルギーGP 予選23位→決勝リタイア ドイツ人デザイナー ダニエル・サイモンが 担当したF111はチェッカーフラックに 赤をアクセントに入れた独特のデザイン スリーブケースもHRTチェッカー仕様 リアウイング翼端版の〖COOL SPOT〗は スポンサーのロゴでは無く スポンサー募集のキャチフレーズであった 2011年シーズンに参加したドライバーで 2024年エントリーしているのは4人のみ リカルド/アロンソ/ハミルトン/ペレス
240229 D.RICCIARDO 2011 22FW12C
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1974 (27TH) SPARK BRABHAM BT44 R.OPEL
リヒテンシュタイン出身 オペル一族 リッキー・フォン・オペル リッキー・フォン・オペル 出生地はアメリカ 国籍はF1で唯一となるリヒテンシュタイン 曾祖父はドイツ自動車メーカー オペルの創始者アダム・オペル 1972年イギリスF3 チャンピオン 1973年エンサインからF1デビュー 1974年開幕戦のみをエンサイン R4スペインGPより R・ロバーツの代わりに ブラバムのセカンドドライバーとして出場 資金持ち込みでシート獲得 R4スペイン R5ベルギー 連続リタイア R6モナコは予選落ち R7スウェーデンGP予選20位→決勝9位 R8オランダGP予選23位→連続決勝9位 R9フランスGPは予選落ち この後ブラバムのセカンドドライバーは カルロス・パーチェとなり リッキー・フォン・オペルの F1でのキャリアは終了 その後タイの田舎にある仏教僧院で僧侶となり 外界との連絡を絶っている状態と言われている モデルはスパーク R7スウェーデンGP仕様 予選20位→決勝9位 ゴードン・マレー作 三角断面モノコックなど 特徴的なフォルムのBT44 シーズン終了後 富士スピードウェイで F1のデモンストレート・ランに カルロス・ロイテマンがこのマシンで出走 桑島正美もBT44をテスト走行させている 🏁リッキー・フォン・オペル(リヒテンシュタイン) 【決勝出走数】 11回(入賞0回 予選落ち回) 【予選最高位】 10位 1973年 ENSING R10オランダ 【決勝最高位】 9位(2回) 1974年 BRABHAM R7 スウェーデン 1974年 BRABHAM R7 オランダ
240215 R.OPEL 1974 8FW12C
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1971 (27TH) SPARK (PENSKE-WHITE RACING) McLaren M19A D.HOBBS
岡山国際サーキット 第11コーナー名称 デビット・ホッブス McLaren M19A デビット・ホッブス イギリス出身 1967年プライベター(車体BRM)でF1初参戦 1968年第1期HONDAでJ・サーティスが HONDA唯一のPPを獲得したイタリアGPで セカンドカーで出走(予選14位→決勝R) 1994・1995年にパシフィックGPとして F1開催された(旧)IT英田サーキット 現在の岡山国際サーキットには 各コーナーに往年の名ドライバーの 名前がついており 第11コーナーの ホッブスは彼から名付けられたもの 1971年ホッブスは最終R11アメリカGPで 急遽ペンスキー(車体マクラーレン)に呼ばれた これは本来出場するはずの マーク・ダンヒューの他のレースが 雨で順延され当該GPとバッティング しかし再度他レースが雨で順延して ダナヒューがアメリアGPに出場の 可能性も残されていたため 予選は2名のドライバーでシェアして出場 (予選 ダナヒュー19位 ホッブス24位) 結局ダナヒューは他レースに出場 ホッブスが決勝を出場して10位完走となった モデルはスパーク R11アメリカGP仕様(予選24→決勝10位) 1971年マクラーレンは アメリカの石油関連会社SUNOCOがスポンサー マクラーレンとして珍し青い車体
240128 D.HOBBS 1971 31FW12C
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1982 (27TH) CP MODEL ARROWS A4 B.HENTON
ブライアン・ヘントン 3戦限りのアロウズ ARROWS A4 1982年前年度は新規チームトールマンで 12戦中11戦の予選落ちのヘントンであったが アロウズのレギュラーシートを獲得 チームメイトはマウロ・バルディ アロウズはニューマシンのA4を開幕から投入 イタリアのセラミックタイルメーカー RANGOがスポンサーとなり 前年のゴールド系のカラーから オレンジを基調にタイルを施す カラーリングで人目を惹きつけた ヘントンは開幕・R2と連続予選落ち R3アメリカWEST予選20位→決勝リタイア R4~はスリム・ボルグッドが抜けた ティレルに移籍して最終戦まで参戦 ヘントン離脱後のアロウズは マルク・スレールが加入 バルディ共にチームを立て直し各2回 チームで4度の入賞をしている モデルはCP MODEL 入賞したバルディ/スレールでなく 3戦限りのマニアックなヘントン車をリリース
230812 B.HENTON 1982 29FW12C
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1982 (27TH) SPARK TYRRELL 011 B.HENTON
ヨーロッパF2チャンピオン B・ヘイトン F1ポイント獲得ならず ブライアン・ヘイトン イギリス出身 1974年から参戦したヨーロッパF2では 参戦7年目の1980年に悲願のチャンピオン 1975年には全日本F2000にもスポット参戦 F1では1975年のロータスを皮切りに マーチ→PVマーチ→ボロ→サーティス 1981年トールマン初のレギュラードライバ― 1982年アロウズ→R4サンマリノGPより S・ボルグッドに代わりティレルで参戦 チームメイトのミケーレ・アルボレートが 初の表彰台&初優勝の中 ヘイトンは予選最高11位 決勝最高7位 いずれも生涯のベストリザルトで F1での入賞はならなかった R10地元イギリスで自身唯一の ファステストラップを記録 モデルはR15イタリアGP仕様 (予選14位→決勝R) 後半戦仕様のディープグリーンが鮮やかで スイスの香水DENIMがメインスポンサー #F1-1982年 🏁ブライアン・ヘイトン (イギリス) 【決勝出走数】18回(入賞0回) 【予選最高位】 11位 1982年 TYRRELL R4 サンマリノ 【決勝最高位】 7位 1982年 TYRRELL R12ドイツ 【ファステストラップ】 1回 1982年 TYRRELL R10イギリス
B.HENTON 1回 3 1/43FW12C
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1981 (27TH)+α SPARK TYRRELL 011 M.ALBORETO
名車 TYRRELL 011 白いティレル M・アルボレート 1981年ティレルはニューマシン011を R10 ドイツGPでE・チーバー R12 オランダGPでM・アルボレートに投入 前車009 010が他チームの模倣だったのに対し 011はモーリス・フィリップの独自デザイン R12オランダGPでM・アルボレートは シーズンベストの決勝9位(モデル仕様) 前半戦はティレルブルーの車体であったが 後半は白いベースにブルーノロゴに変更 スポンサーにIMOLAは イタリアのタイルメーカー このTYRRELL 011でアルボレートは 1982年に初優勝 1983年に2勝目を上げている https://muuseo.com/FW12C/items/1080?theme_id=38179 #F1-1981年 #1981年
221013 M.ALBORETO 4 1/43FW12C
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1975 (27TH) SPARK COPERSUCAR FD01 W.FITTIPALD
追悼 ウィルソン・フィッティパルディ 2024年2月3日にお亡くなりになりました 享年80歳 ご冥福をお祈り申し上げます エマーソンの兄 ウイルソン・フィッテパルディ ブラジル唯一のチーム立ち上げ参戦 2度のワールドチャンピオン エマーソン・フィッテパルディの兄 ウイルソン・フィッテパルディは 1972・1973年ブラバムより参戦 1975年はF1史上唯一のブラジル国籍のチーム コパーシュカーを立ち上げ自らドライブ コパーシュカーはブラジルの複合会社の企業名 モデル仕様である開幕戦 南アフリカGP 予選23位→決勝12周目にクラッシュでリタイア これによりFD01は修理不能で1戦限りとなる 以降FD02・FD03と新車を次々投入も 予選最高20位 決勝最高10位として終わる ウイルソンはこの年限りでドライバ―引退 チームの運営に回り翌1976年はエマーソンが加入する ウイルソンの息子クリスチャン・フィッテパルディは 1992・1993年ミナルディ 1994年はアロウズで参戦 🏁ウイルソン・フィッテパルディ(ブラジル) 【決勝出走数】36回 (入賞2回) 【予選最高位】9位 1973年 BRABHAM R6 モナコ 【決勝最高位】5位 1973年 BRABHAM R11ドイツ https://muuseo.com/FW12C/items/393?theme_id=31218
W.FITTIPALD 1975 30 1/43FW12C
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1981 (27TH) SPARK TYRRELL 010 M.ALBORETO
ミケーレ・アルボレート デビューマシン TYRRELL 010 M・アルボレート イタリア ミラノ出身 ヘルメットは青地に太い黄色の一本輪 これは少年時代より尊敬していた ロニー・ピターソンをモチーフにしている 1981年R4サンマリノGP ティレルよりデビュー シーズンベストタイの予選17位→決勝はR モデルはサンマリノGP レインタイヤ仕様 前年度からの継続マシンTYRRELL 010では R10オーストリアまでドライビング 8戦中2度の予選落ち 決勝最高は12位 この後1994年のミナルディまで 14年間ギューラ―ドライバ―として (1989年は途中移籍あり)F1に参戦した #F1-1981年 #1981年
M.ALBORETO 4 1/43 TYRRELLFW12C
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1995 (27TH) PMA SIMTEK FORD S951 D.SCHIATTARELLA
シムテック21戦での終焉 ドメニコ・スキャッタレーラ イタリア出身 1994年終盤の2戦 R15・R17をシムテックで参戦 1995年シムテックは野田英樹を起用する 予定であったがスポンサーからの支払いが 遅れて開幕~R5までをスキャッタレーラが ドライブすることとなった R2アルゼンチン予選20位→決勝9位 決勝9位は1994年R7フランスGP J・M・グーノン(予選26位→決勝9位)と 並びシムテックの決勝ベストリザルト R5モナコGPではスキャッタレーラが 予選20位で通過も決勝を走れないほど チームの資金が悪化して結局このGPで シムテックはF1を撤退 スキャッタレーラもこの年がF1最後 野田英樹はスポンサーからの資金が 支払われたにもかかわらず シムテックでの出場は幻となった #1995
D.SCHIATTARELLA 11 1/43 SIMTEKFW12C
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1994 (27TH) ELIGOR LARROUSSE FORD LH94 O.BERETTA
オリビエ・ベレッタ モナコ出身 モナコ出身のF1ドライバ―は 過去 C.ルクレール含め4人のみ 資金持ち込みによるシート確保 チームメイトはE.コマス R4モナコGP ベレッタの地元で 予選18位→決勝8位初完走 R8~R10まで3連続完走したところで 資金がなくなりシート喪失 R9ドイツの7位が最高 このGPでは捨てバイザーを外す際に 肩の関節をレース中に脱臼している ベレッタはF1はこの年のみ 2003年 2004年はウイリアムズの テストドライバーを務めている ルマン24時間は1996~2019年まで参戦 2013年はAFコルセで小林可夢偉とともに フェラーリ・458イタリアをドライブしている F1以外では非常に息の長いドライバ― #ELIGOR #1994 #F1
O.BERETTA 19 1/43 LARROUSSEFW12C
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1992 (27TH) PMA BRABHAM JUDD BT60 E.VAN DE POELE
#1992
E.VAN DE POELE 7 1/43 BRABHAMFW12C
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1991 (27TH) SPARK LOTUS 102B J.HERBERT
1991年J・ハーバートは全日本F3000に出場も 不振のJ・ベイリーに代わりロータスより参戦 復帰のR5カナダは予選落ちも 予選ではTMのM.ハッキネンに5勝3敗 決勝は7位が最高も翌年はレギュラーシート獲得 SPARKからは2種類のモデルが発売 画像1~4は最終戦のオーストラリアGP仕様 (予選21位→決勝11位)レインタイヤ 画像5~7はSPARKにしては珍しく GP仕様が書かれてない前半戦仕様 画像8のONYXはスポンサーで PHENIXが貼られているため 日本GP仕様? J.ハーバートはこの年 V・ヴァイドラー B・ガショーとともに ル・マン24時間にマツダで参戦 レナウン・チャージカラーの ロータリーエンジン車787B 55号車で アンカードライバ―として優勝しています #1991 #LOTUS
J.HERBERT 12 1/43 LOTUSFW12C
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1993 (27TH) ONYX TYRRELL YAMAHA 020C A.DE.CESARIS
チェザリスは基本Marlboroから サポートを受けているドライバ― 例外は1984-85のリジェ(GITANS)と 1993年のティレル(CABIN) ヘルメット・レーシングスーツに Marlboroのロゴがなかったのですが それでもMarlboroからのチームへの 資金提供はあったようです ティレルはチームでノーポイント これは1983年の水タンク事件の失格以来 しかもコンストラクタ―最下位の不名誉 チェザリスも旧型020Cの R6モナコGP10位が最高位 新型の021も投入遅れて散々なシーズン この年でティレルを離れて 次年度はレギュラーシートを失います #1993
A.DE.CESARIS 4 1/43 TYRRELLFW12C
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1990 (27TH) MERI SCUDERIA ITARIA BMS DALLARA F190 A.DE.CESARIS
1990年 チェザリスは前年に続き スクーデリア イタリアで参戦 チームメイト 序盤2戦 G.モリビデリ 3戦以降はE.ピロ のイタリアドライバ―体制 この年のハイライトは 得意の公道のR1 アメリカでの予選3番手 2位ミナルディ マルティニともに 開幕戦の予選の目玉になりましたが しかし決勝はリタイア 開幕戦の話題の両ドライバーとも 1990年の年間無得点 スクーデリアイタリアチームも 無得点でシーズン終了 #F1-1990年
A.DE.CESARIS 22 1/43 SCUDERIA ITALIAFW12C
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1980 (27TH) SPARK OSELLA FA1 E.CHEEVER
1980年よりE.チーバーはフル参戦 チームは新規のオッゼラ 1台のみのエントリー 序盤戦は4度の予選落ちと苦戦 完走もチームの地元 R12イタリアGP 12位のわずか1回 モデルはR7フランスGP仕様 予選21位→決勝リタイア スイスの香水関連DENIMと イタリアのタバコ【MS】がスポンサー この年限りでチーバーはチームを離脱 チームオッゼラは1991年途中まで参戦 #1980
E.CHEEVER 31 1/43 MSFW12C