-
2000 (19TH) PMA MINARDI FONDOMETAL M02 M.GENE
コンストラクター最下位2年連続回避 マルク・ジェネ力走 MINARDI M02 前年度4年ぶりにミナルディにポイントを もたらしたマルク・ジェネはミナルディ残留 チームメイトはガストン・マッツァカーネ 基本設計は3年前のマシンながら 上位との差を僅かながらも縮めたM02 エンジンはフォンメタル名を付けた 1998年製のフォード・ゼテックR ジェネの決勝最高位は8位が2回 ポイント獲得はならなかったが この8位2回の差でチームプロストを上回り ミナルディはコンストラクター10位となり 翌年のTV放映権の分配金を手にした ジェネはスポンサー撤退もあり この年でミナルディを離れ 翌2001年からウイリアムズの リザーブ兼テストドライバー 2003年に同チームから代役参戦する モデルはミニチャンプス GP仕様の無いレースカー仕様 スポンサーのスペイン大手通信会社 テレフォニカはジェネの持ち込み 鮮やかなクリームイエローは 2000年限りのカラーリング
240412 M.GENE 2000 20FW12C
-
1990 (19TH) KIT-TAMEO LIGIER JS33B N.LARINI
1990年シーズン完走率2位 二コラ・ラリーニ LIGIER JS33B 二コラ・ラリーニ イタリア出身 1986年イタリアF3 チャンピオン(5勝) 1987年コローニでデビュー 1988年・89年オッゼラに所属 この3年間は(予備)予選落ち13回 決勝進出19回中 完走4回 最高9位 1990年はリジェに移籍 チームメイトはフィリップ・アリオー マシンは前年度の改良型JS33B チームはポイント獲得できずに 後半戦はR9より予備予選組に回るも モンテベルディ オニクスが撤退した為 R11ベルギーから再び予備予選免除 ラリーニはR6カナダから最終戦まで 11戦連続の完走と安定感があったものの 最高7位(2回)で惜しくもポイント獲得ならず 年間の完走13/16回 完走率81.2%は N・ピケ(ベネトン)86.7%に次ぐ2位タイ ラリーニはリジェを1年で離れ 翌1991年も新規モデナ・ランボルギーニに移籍 モデルはKIT TAMEO製 お馴染みのタバコGITANES仕様 リジェの1989年JS33 90年JS33B 量販モデル化されておらず発売が待たれます
231026 N.LARINI 1990 26FW12C
-
1999 (19TH) PMA WILLIAMS SUPERTEC FW21 A.ZANARDI
5年ぶりF1復帰 アレサンドロ・ザナルディ CART2年連続チャンピオンも無得点 1994年ロータスで最後にF1出場後 1996年~アメリカCARTに主戦場を移し 1997年5勝1998年7勝で連続チャンピオン 鳴り物入りで5年ぶりウイリアムズでF1復帰 F1キャリア5年目で唯一のフル参戦 序盤からチームメイトの ラルフ・シューマッハが入賞する中 ザナルディは完走すらままならない状況 地元R13イタリアGPで自己最高の予選4位 決勝は一時2位走行も最終7位に終わる この時皮肉にもラルフは2位表彰台 結局ザナルディは完走5/16回 入賞無の年間(19位)に終わった ウイリアムズのレギュラードライバ―が 年間無得点に終わるのは史上初の出来事 2年契約を打ち切りこの年で ザナルディはF1から離れ2001年にCARTに 復帰するも大事故で両足膝上から切断 その後車いすのハンドサイクルの競技で 2012年にロンドンパラリンピックに出場 個人金メダル2個 団体銀メダル1個獲得 その場所はかつてカーレースも参戦した ブランズ・ハッチのサーキットであった 🏁アレッサンドロ・ザナルディ (イタリア) 【決勝出走数】41回(入賞1回) 【予選最高位】 4位 1999年 WILLIAMS R13 イタリア 【決勝最高位】 6位 1993年 LOTUS R2 ブラジル
230718 A.ZANARDI 1999 5FW12C
-
1998 (19TH) PMA MINARDI M198 E.TUERO
シルバー/ブルー ミナルディM198 エスティバン・トゥエロ アルゼンチン 1998年ミナルディはチーム立て直し3年計画 ジャンカルロ・ミナルディと大株主で フォンドメタルのガブリエーレ・ルミが 中心となり 元フェラーリ・リアル・レイトンハウスなどの デザイナー グフタス・ブルナーを招集 何とスタッフも75名→120名に増員 スポンサーの意向もあってか カラーリングも今までにない シルバーとブルーのコントラスト エスティバン・トゥエロは アルゼンチンドライバ― 19歳 参戦当時で史上3番目の若さでエントリー (2023年現在でも9番目の若さ) チームメイトは中野信治 前年の1997年はフォーミュラニッポンで 入賞1回 わずか1Pでスーパーライセンスの 発給も危ぶまれたがアルゼンチンの スポンサーの後押しもあり何とか参戦 開幕戦オーストラリアで予選17位 R4サンマリノで決勝8位が最高位 16戦中完走は僅かの4回でシーズン終了 チームも3年連続でノーポイント トゥエロは翌年1999年はミナルディで L・バドエル M・ジェネとのシート争いに 敗れてF1のシートを失ない 以降F1にエントリーすることは無かった
230209 23 1/43 MINARDIFW12C
-
1996 (19TH) ONYX MINARDI FORD M195B G.FISICHELLA
ジャンカルロ・フィジケラ イタリア出身 愛称フィジコ F1デビューはミナルディ 1996年ミナルディは当初 P・ラミー 井上隆智穂のラインナップであったが 井上のスポンサーが撤退しシート喪失 急遽フィジケラのデビューが決まる 開幕戦オーストラリアで予選16位 TMのP・ラミー(予選17位)を上回る R8カナダGPで再び予選16位→決勝8位 これはフィジケラ ミナルディとも 1996年のシーズンベスト チームは資金難の為シートを R2・3 タルソ・マルケス(ブラジル) R11~ ジョバンニ・ラバッジ(イタリア) に売り渡した為 フィジケラは8戦のみ ONYXのモデルカーからもたくさんの 小スポンサーのデカールと リアウイングのチーム名だけのロゴで ミナルディの苦しい台所事情が覗える ミナルディでの走りが認められた フィジケラは翌1997年 ドライバ―オーディションの 実走テストを経てジョーダンに移籍 #F1-1996年 #F1-デビュー
G.FISICHELLA 21 1/43 MINARDIFW12C
-
1995 (19TH) ONYX MINARDI FORD M195 P.MARTINI
ミスター・ミナルディ P・マルティニ 最後のマシン MINARDI FORD M195 1995年マルティニとL・バドエルの イタリア人コンビで迎えたミナルディ 無限HONDAエンジンを土壇場でリジェに 奪われ出鼻をくじかれたシーズン序盤 初のUPDATE実施したR5モナコと R7イギリスで入賞手前の7位完走し 後半戦に向けて光が見えたが R10ハンガリーGPより 資金難のチームは持参金を持つ P・ラミーにシートを譲り マルティニはF1のキャリアを終了した 生涯9シーズン中8シーズンをミナルディで 過ごしたピエルルイジ・マルティニ 119戦で表彰台なしは2014年に E・スーティルに更新されるまでの 表彰台無しドライバ―の最多出走 陽気な性格で皆に愛されたドライバ― 1999年にはル・マン24時間で優勝している 🏁ピエルルイジ・マルティニ (イタリア) 【決勝出走数】119回 (入賞10回) 【予選最高位】 2位 1990年 ミナルディ R1アメリカ 【決勝最高位】 4位(2回) 1991年 ミナルディ R3サンマリノ 1991年 ミナルディ R13ポルトガル #F1-LAST
P.MARTINI 23 1/43 MINARDIFW12C