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1977 (31ST) SPARK SHADOW DN8 J.OLIVER
4年ぶり1レースのみのF1復帰 ジャッキー・オリバー SHADOW DN8 1977年シャドウは途中ドライバーが変更 トム・プライス(事故)→アラン・ジョーンズ レンツオ・ゾルジ(資金切)→リカルド・パトレーゼ パトレーゼは当初参戦のF2を優先し数戦欠場 R8スウェーデンGPは代役として 当時はシャドウの経営陣の一人であった ジャッキー・オリバーが4年ぶりにF1復帰 予選16位通過→決勝9位完走 これがオリバーのF1最後のレースとなった 同年F1非選手権では5位入賞を果たしている シャドウはアラン・ジョーンズの初優勝など 23ポイント獲得で創設以来最高の成績 しかしオリバー含む主要スタッフが離脱 オリバーはチームを離れた5人を中心に A アンブロジオ (フランコ・アンブロオ) R リース (アラン・リース) O オリバー(ジャッキー・オリバー) W ウォス (デイブ・ウォス) S サウスゲート(トニー・サウスゲート) アロウズを設立し1978年から参戦(~2002年) フットワークやTWRに売却しながらも オリバーは1999年までチームに携わった #CAREER-ACHIEVEMENTS 🇬🇧ジャッキー・オリバー (イギリス) 【決勝出走数】49回 (入賞5回-表彰台2回) 【予選最高位】②位 1968年 LOTUS R7 イギリス 【決勝最高位】③位(2回) 1968年 LOTUS R12 メキシコ 1973年 SHADOW R14 カナダ 【FastestLap】🏁1回 1968年 LOTUS R9 イタリア 【年間最上位】⓮位 1973年 SHADOW 4ポイント
250219 J.OLIVER 1977 16FW12C
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1976 (30TH) IXO SURTEES TS19 B.LUNGER
燃えるラウダ車に衝突 その後救出劇 ブレッド・ランガー SURTEES TS19 前年度ヘスケスでデビューした B・ランガーは1976年サーティスで レギュラーシートを獲得 チームメイトはアラン・ジョーンズ アンリ・ペスカローロなど R11オーストリアGP 予選16位→決勝10位がともにベストリザルト R10ドイツGP ニキ・ラウダ(フェラーリ)のマシンが コントロールを失い炎上 コース中央に停止 これにランガーのマシンが衝突 燃え盛るマシンからH・アートル G・エドワーズ/A・メルツァリオと共に 捨て身でラウダを救出した この事故をきっかけにランガーは 物事の捉え方が変わり 自身を反省 生きるのならば少しでも良き人間になりたい と考えるようになったと後に語っている モデルはIXO 日本のデアゴスティーニ未発売モデル レインタイヤ装着 恐らくドイツGP仕様 当初はチェスターフィールド(タバコ)が スポンサーであったがイタリアの リキュール CAMPARIに変更された R16世界選手権in Japan(日本GP)には ランガーはエントリーせず 当該マシン SURTEES TS19で日本の高原敬武が出場 1976年 R10ドイツGP N.ラウダ救出 https://youtu.be/f-zk48lN0D0
241101 B.LUNGER Formula 1 Auto Collection 1976FW12C
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1976 (43RD) PMA (LEXINGTON RACING) TYRRELL 007 I.SCHECKTER
2年連続同一マシンによる兄弟同時出走 シェクター兄 イアン TYRRELL 007 1976年R3南アフリカGP 前年度同様イアン・シェクターは TYRRELL 007のマシンに乗り プライベーターで参戦 弟のジョディもティレル本隊で TYRRELL 007でエントリーしており 2年連続同一マシンの兄弟同時出走が実現 イアンはキャリアベストとなる予選16位も 決勝は1周もできずにリタイア 弟ジョディは予選12位→4位入賞 1976年イアンはこのレースのみ 翌1977年はマーチでキャリア最多 14戦エントリーのF1ラストイヤー モデルはスパーク イアン1戦限りのR2南アフリカ仕様 LEXINGTONはルクセンブルグのタバコブランド シェクター兄弟の祖国 南アフリカでは BAT(ブリティッシュ アメリカン タバコ)の 子会社が販売 日本では通常販売無し このモデルはLEXINGTONの文字のみ 最初からデカールが貼られており ロゴマークのみが別で添付されている 前年1975年のミニチャンプスのモデルは LEXINGTONの文字も無くデカール添付無し https://muuseo.com/FW12C/items/1502?theme_id=32702
240311 I.SCHECKTER 1976 15FW12C
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2004 19TH PMA JORDAN FORD EJ14 T.GLOCK
不屈のゲルマン魂 ティモ・グロッグ ジョーダンよりF1デビュー EJ14 ティモ・グロック ドイツ出身 2002年 ドイツF3 年間3位 3勝 2003年 ユーロF3 年間5位 3勝 2004年 ジョーダンテストドライバー R8カナダGP ジョルジオ・パンターノが 契約トラブルとなり代役で出場 チームメイトはニック・ハイドフェルド 予選はハイドフェルドの後16位 決勝はハイドフェルドの前11位完走 その後ブレーキダクト違反で ウイリアムズとトヨタ合計4台が失格 これに伴いグロックは7位に繰り上がり 幸運にも参戦初戦にて初入賞を果たした (2004年は8位までが入賞) グロッグのキャリア入賞回数は14 終盤3戦もジョーダンより出場 3戦すべて決勝15位で完走 グロックはレギュラーシートを獲得できず 次のF1は4年後の2008年トヨタとなる モデルはミニチャンプス カナダGP仕様 予選16位→決勝7位 この年初開催のバーレーンGPを祝し ジョーダンのエンジンカウルの スポンサー権をバーレーン政府が買い取り 毎戦違うメッセージを載せた 当該カナダGPはサーカス小屋と Arts Charity For Youth と書かれている
240209 T.GLOCK 2004 1.944FW12C
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2010 (25TH) SPARK VIRGIN VR-01 T.GLOCK
新規参戦チーム 2010年 ヴァージン VR-01 ティモ・グロッグ 2010年 F1は新規3チームが参戦 ロータス(マレーシア) HRT(スペイン) ヴァージン(イギリス) 元々マノー・F1チームと名乗っていたが 2009年のチャンピオンチーム ブラウンGPのスポンサーであった 多国籍企業のヴァージンが タイトルスポンサーとなり名称が変更 風洞実験を行わず数値流体力学(CFD) によるシミュレーションのみでデザイン これには1994~1995年に参戦した シムテック代表ニック・ワースの会社 ワース・リサーチがサポートしていた グロッグは2009年まで所属のトヨタが 急遽撤退により新規ヴァージンでの参戦 チームメイトはルーカス・ディ・グラッシ グロッグは前半8戦中6戦でリタイア 決勝最高もR16日本GPの14位 ディ・グラッシも決勝最高位14位であったが 2番目の決勝成績差で敗れて年間25位 (ディ・グラッシ15位 グロッグ16位) 新規3チームを含むフル参戦ドライバ―で 最下位ではあったもののエースとして 翌2011年もヴァージンに残留 モデルはスパーク R2オーストラリアGP仕様 予選21位→決勝はリタイア 新規3チームともスパークで発売 モデルカーケースのスリーブも ヴァージン仕様となっている
230519 T.GLOCK 2010 24FW12C
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1971 (35TH) SPARK MARCH 711 M.BEUTTLER
マイク・ボイトラー F1デビュー 1戦限りのワークス MARCH 711 マイク・ボイトラー イギリス出身 出生地はエジプト カイロ 1971年は友人が出資したチームである クラーク・モーダウント・ガスリー と名乗るプライベートチームで出場 地元R6イギリスGPから4戦出場 予選は16位~22位で通過するものの 決勝はリタイア→失格→周回不足→リタイア R10カナダGPのみマーチのワークスで出場 予選22位→決勝はあと1周足りず周回不足 モデルはそのカナダGPレインタイヤ仕様 ボイトラーは1973年までプライベターで 出場もF1ではポイント獲得ならなかった マーチ711はティートレイと呼ばれた 独特の楕円形状を持つフロントウイング フロントノーズ先端から支柱を伸ばして 取付されてた構造となっており 車体全体も丸みを帯びたスタイル そして真っ赤な車体に所せましと貼られた オイルメーカーSTPのロゴが目立つ1台
230506 M.BEUTTLER 19 1/43FW12C
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1984 (32ND) PMA TYRRELL FORD 012 S.BELLOF(GP MONACO)
ステファン・ベロフ モナコGP 幻の3位表彰台 TYRRELL FORD 012 1984年 R6 モナコGP 予選は20位までが決勝進出 この年ルーキーのドイツ人ドライバー S・ベロフはギリギリの20位で通過 チームメイトのM・ブランドルは予選落ち 決勝は豪雨の中のレースで 予選最後尾から追い上げ3位まで浮上 レースは豪雨で31周で打ち切られ そのまま3位表彰台を獲得 このレースは2位A・セナ(トールマン)が レースが仮に継続していたらトップの A・プロスト(マクラーレン)をとらえていた とも言われるレースだが3位のベロフも ペースを考えると優勝争いのチャンスが あったとも言われている しかしこの後チームは 不正なエンジン出力の増大行為 所謂水タンク事件で成績が全て失格となり ベロフの3位リザルトも幻となってしまった このモデルはモナコGP仕様 ミニチャンプスの通常版とは異なり タイヤは レインタイヤ スポンサーもイタリアのDeLonghiと このGPのベロフ車のみに フランスの化粧品メーカーDISCOSTARの ロゴがフロントウイングに貼られている
230404 S.BELLOF 2,304 4FW12C
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1986 18TH SPARK OSELLA FA1F C.DANNER
初代国際F3000チャンピオン クリスチャン・ダナー OSELLA FA1F 1985年初代国際F3000チャンピオン 同年ザグスピードでデビューした クリスチャン・ダナー(ドイツ) 1986年はオッゼラより参戦 OSELLA FA1Fは1984年に作製された 実に2年落ちのマシン エンジンはアルファロメオターボV8 チームメイトはP・ギンザーニ ダナーはこのマシンで6戦出場 1回の予選落ち 他はすべてリタイア R6カナダGPではアロウズのM・スレールの 欠場により同チームからもエントリー 1レースで2チームから登録されたが オッゼラの登録の方が早く優先された ダナーはR7より正式にアロウズに移籍 R12オーストリアGPで6位入賞している ドイツのRACE LAND社の別注シリーズ OSELLA FA1F初の量販モデル化 #F1-1986年
230325 C.DANNER 400 22FW12C
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1998 17TH PMA STEWART FORD SF-2 J.MAGNUSSEN
ヤン・マグヌッセン STEWART SF-2 F1初ポイント後の無念の解雇 1998年 マグヌッセンはスチュワートに残留 チームメイトも変わらずR・バリチェロ FORDのロゴが大きくなったマシンSF-2 R7カナダGP 予選20位→決勝6位 F1参戦24戦目にして嬉しい初ポイントは デンマーク人ドライバ―の初入賞 しかしJ・スチュワートに目を掛けられ 前年異例の4年契約を結んでだ マグヌッセンであったが成績不振により スポンサーからの圧力もあり 初入賞後にチームを解雇され ヨス・フェルスタッペンにシートを奪われ これ以降はF1での参戦は無かった ここから16年後の2014年 ヤンの長男ケビン・マグヌッセンは ヤンがデビューしたマクラーレンより参戦 親子2代で同じチームからのデビュー ヤンがデビューした1994年パシフィックGP 時点で息子ケンビは3歳であった 🏁ヤン・マグヌッセン (デンマーク) 【決勝出走数】24回 (入賞1回) 【予選最高位】 6位 1997年 スチュワート R14 オーストリア 【決勝最高位】 6位 1996年 スチュワート R7 カナダ #F1-1998年
230212 J.MAGUSSEN 1/43 STEWARTFW12C
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1978 (23RD) PMA McLAREN FORD M26 B.GIACOMELLI
ブルーノ・ジャコメリ イタリア出身 1978年マクラーレン サードドライバ― 1977年イギリスGPでF1スポット参戦 1978年8勝でヨーロッパF2チャンピオン 並行してマクラーレンのサードドライバ― ヨーロッパラウンド5戦限りのスポット参戦 マシンはレギュラードライバ―の J・ハント P・タンベイと同じM26 R10イギリスGPでの予選16位→決勝7位が 予選・決勝ともにベストリザルト モデルはそのイギリスGP仕様で コックピット横のドライバー名表記が Bruno ”Jack O malley"となっている MINICHAMPS McLAREN EDTION43 100種目 ジャコメリはマクラーレンを離れて 翌1979年は復帰のアルファロメオの ドライバ―として参戦 #F1-1978年
230113 B.GIACOMELLI 1.440 33FW12C
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1978 (26TH) SPARK MARTINI MK23 R.ARNOUX
ルネ・アルヌー デビューマシン 短命チーム MARTINI MK23 ルネ・アルヌー フランス出身 1975年 フォーミュラルノー チャンピオン 1977年 ヨーロッパF2 チャンピオン 1978年 新規チーム マルティニで参戦 マルティニ(フランス)はヨーロッパF2が主戦 1975年F1参戦を発表 1976年マシン作成開始 1978年に登場させたMARTINI MK23は 時代遅れで頑丈な作り故の重量過多 R3南アフリカGP 登場も予選落ち R5モナコGP 予備予選落ち R6ベルギーで初の予選通過 19位 決勝は9位で完走 ベストリザルトタイ R13オランダGPがチームMARTINI最後 奇しくもMK23マシンと同じ 予選は23位 決勝はリタイア モデルはオランダGP仕様 アルヌーは終盤2戦をサーティスで参戦 こちらもベストリザルトは決勝9位 翌1979年はフランス ルノーに移籍 #F1-1978年
230110 R.ARNOUX 31 1/43FW12C
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1989 14TH+α SPARK TYRRELL 018 J.HERBERT
ベネトン解雇のジョニー・ハーバート 2戦限りのティレル018での参戦 1989年ケガの影響もありベネトンを 途中解雇されたJ・ハーバートは ティレル途中加入のジャン・アレジの 国際F3000の参戦による欠場の2戦を 代役としてエントリーした モデル仕様のR11ベルギーGP 予選16位は TMのジョナサン・パーマー(21位)を上回るが 決勝は3周目にスピンしてリタイア この代役は急遽の決定であった為 ハーバートのレーシングスーツは ベネトン時代のグリーンのままであった もう1戦のR13ポルトガルGPは予選落ち この年復帰のポスルズウェイトが手掛けた ティレル018は隠れた名車とも言われており 翌1990年のR2ブラジルまで使用され このマシンに乗った5人のドライバ―の内 ハーバート以外は全てポイントを獲得している ティレル018ドライバ―別成績 M・アルボレート 6戦 6ポイント J・パーマー 15戦 2ポイント J・アレジ 10戦 14ポイント J・ハーバート 2戦 0ポイント 中嶋悟 2戦 1ポイント #F1-1989年 #Tyrrell
J.HERBERT 4 1/43 CAMELFW12C
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1979 (24TH) SPARK TYRRELL 009 G.LEES
日本でも活躍 TVCMも出演 ジェフ・リース イギリス出身 1978年エンサインから出走も予選落ち 1979年はR10ドイツGPに ティレルよりスポット参戦 予選は16位→決勝7位 決勝はTMのD・ピロー二より先着 予選・決勝ともリースの生涯最高位 翌年以降シャドウ・エンサイン・RAM セオドール・ロータスでスポット参戦も F1でのポイント獲得はならなかった 1983年全日本F2にイクサワから参戦 8戦4勝してチャンピオン 全日本F2での外国人チャンピオンはリースのみ 以降は日本に拠点を移し グランドチャンピオンシリーズに参戦 JSPC(全日本スポーツプロトタイプカー 耐久選手権)でも1992年にチャンピオン獲得 JSPCではトヨタのワークスドライバー だった事もありトヨタ・スープラの TVCMにもドライバ―として出演しました #1979 https://www.youtube.com/watch?v=jBNAstOTFCM
G.LEES 4 1/43 TYRRELLFW12C
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1973 (26TH) SHADOW DN1 (EMBASSY HILL) G.HILL
2度のWC G.ヒルが自らのチーム エンバシー ヒルを立ち上げ参戦 1973年は初参戦SHADOWのマシン購入 R4 スペインGPから出走 1台体制 (モデル仕様 予選22位→決勝 R) 本家SHADOWが2度の表彰台獲得も ヒルは決勝最高位は9位と苦戦 見せ場はR8フランスGPで SHADOWの二人に予選で勝ったくらい (予選16位→決勝10位) EMBASSYはタバコブランド ヒルのチームは1974年はローラ製 1975年はオリジナルのシャーシで参戦 SPARK F1の初期に発売したモデル グラハム・ヒルの名前につられて購入した 記憶があります #F1-1973年 #1973年
G.HILL 1973 25 1/43FW12C
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1990 11TH SPARK EUROBRUN ER189 JUDD R.MORENO
コローニから1990年はユーロブルンに R・モレノは移籍 TMはC・ランジェス R1アメリカ 予備予選を1位で通過 予選をなんと16位で通過 (17位はフェラーリ マンセル) 決勝は5週遅れの13位で完走 モデル仕様のR3サンマリノで 予選25位→決勝R 予選通過は2回のみ C.ランジェスは全戦予備予選落ち ユーロブルンは日本GP前に撤退 (全シーズン ノーポイント) 当時ほとんど情報の入らない謎のチーム しかしながらこの撤退が モレノの感動の2位につながります #1990 #F1
R.MORENO 350 33 1/43FW12C