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1960 (33RD) SPARK COOPER T51 R.SALVADORI
飛行場の王 ロイ・サルバドーリ 1960年 プライベーター COOPER T51 ロイ・サルバドーリ イギリス出身 シルバーストーンやスネッタートンなどの 平坦なイギリスのの飛行場のサーキットで 勝利を積み重ね〖King of the Airfields〗 飛行場の王とも呼ばれたドライバ― かつてイギリスでF1と並び権威のあった インターナショナルゴールドカップの 1956・1958年のチャンピオン 1959年のル・マン24時間のチャンピオン F1は 1952年よりスポット参戦 1958年にはキャリアベストの2位表彰台 あと一歩で勝てなかった最高位2位の一人 1960年はプライベーターで クーパーの車体を使用してスポット参戦 最終戦のアメリカGPでの決勝8位が最高 ライトブルーのメタリック感のある キレイなマシン エンジンはクライマックス アストンマーチンでも2戦エントリーしている モデルはスパーク R2モナコGP仕様 予選12位→決勝リタイア このモナコGPだけでクーパーの車体で エントリーしたのが11名 クーパー年間34名 この年はインディ500も選手権に 組み込まれている為 年間では総勢 91名ものドライバ―がエントリーしてる
231114 R.SALVADORI 1960 14FW12C
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1963 13TH SPARK BRM LOTUS 24 J.HALL
シャパラル・カーズ創設者ジム・ホール F1唯一のフル参戦 BRM LOTUS 24 ジム・ホール アメリカ出身 石油探掘業を営む裕福な家庭に育ち 両親をで亡くしたのち遺産を引き継ぎ スポーツカーを購入してレース活動開始 1960年~1962年はプライベーターで 地元アメリカGPのみスポット参戦 1963年はBRMでロータスのマシンを使用 R5イギリスGP 予選13位→決勝6位 R6ドイツGP 予選16位→決勝5位 シーズン2度の入賞 後半は7戦連続完走 ホールのF1はこの年限り その後ホールはシャパラル・カーズを設立 1960年代に実験的で強力なレースカーを開発 アメリカのUSロードレーシング選手権(USRRC) カナダ-アメリカン・チャレンジカップ(Can-Am) ヨーロッパのスポーツカー世界選手権で活躍 1970年代末からCARTに挑戦しインディ500も制覇 モデルはSPARK 開幕戦モナコGP使用 ホールは予選13位→決勝リタイア クリームグリーンのカラーリングのマシン このGPはエントリー17台中 7台がLOTUSのマシンを使用している
231101 J.HALL 1963 12FW12C
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1980 (25TH) KIT ENSING N180 C.REGAZZONI
クレイ・レガッツォーニ 引退 下半身不随の大事故 ENSING N180 1980年レガッツォーニは1977年以来の エンサインで1名体制でのエントリー 完走はR3南アフリカの決勝9位のみ R4アメリカWEST GP ブレーキペダルが折れる アクシデントで下半身不随の重症 これはとっさにギアを3速に入れ エンジンスイッチを切って減速の上 リタイア車に当てて衝撃をやわらげる という一連の操作で一命を取りとめた レガツォーニはこれ以来車椅子生活も 両手のみで操作ができるように 改造された車両で運転を継続 その内の一台であるHONDA NSXでの ドライブがテレビCMに残されている F1通算5勝とPP5回はいずれもそれぞれ 異なる年に記録しており フェラーリ時代のイタリアGPで2勝 またFLは15回と決勝での速さも光った 🏁クレイ・レガッツォーニ (スイス) 【決勝出走数】131回 (入賞52回-表彰台28回) 【予選最高位】 PP(5回) 1970年 FERRARI R15 メキシコ 1971年 FERRARI R 6 イギリス 1973年 BRM R 1 アルゼンチン 1974年 FERRARI R 5 ベルギー 1976年 FERRARI R 3 アメリカW 【決勝最高位】 優勝(5回) 1970年 FERRARI R10 イタリア 1974年 FERRARI R11 ドイツ 1975年 FERRARI R13 イタリア 1976年 FERRARI R 3 アメリカW 1979年 WILLIAMS R 9 イギリス 【ファステストLAP】(15回) https://www.youtube.com/watch?v=Th5RlvokgYI&feature=related
230712 C.REGAZZONI 1980 14FW12C
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1974 (30TH) SPARK BRM P201 C.AMON
クリス・エイモン自身10チーム目 終盤2戦 BRM P201で出走 1974年自己チームエイモン設立も 入賞どころか完走すらなく 資金難でR13イタリアGPで撤退 そんな中でBRMより声がかかり 終盤2戦をエントリー BRMが自身通算10チーム目となった チームメイトはJ・P・ベルトワーズ BRMはこの年スポンサーはフランスの オイル会社モチュールが付き カラーリングがグリーンとシルバーに変更 R14カナダGP予選25位→周回不足 R15アメリカGPはベルトワーズ欠場の中 予選12位→9位この年唯一の完走 チームBRMもかつての輝きは無く 翌1975年は1台体制になり エイモンはエンサインに移籍した
230707 C.AMON 15 1/43FW12C
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1974 (30TH) SPARK AMON AF1 C.AMON
クリス・エイモンオーナー兼ドライバ― チーム〖エイモン〗設立 AMON AF1 1974年 クリス・エイモンはかつて所属の フェラーリが再度獲得との噂もあったが 実現せずに前年度所属したテクノの マシンを基にオリジナルのマシン AF1を制作チーム〖エイモン〗で参戦 大型のリアウイングを装備しており フロントウイングはフロントノーズ後端に 1枚のウイングが乗った形状であったが ノンタイトル戦の事故を受けて 一般的なウイングノーズに変更 R4スペインGPから参戦 予選24位 決勝はブレーキシャフトが壊れリタイア R6モナコは予選20位で通過も 決勝はトラブルもありスタートせず R11ドイツは2台体制となり 同郷のラリー・パーキンスが出場するも 2台とも予選通過ならず R13イタリアGPも予選落ちで 資金難も重なりチーム〖エイモン〗は わずか4戦のエントリーで消滅した エイモンは1974年の終盤2戦を BRMで出場し最終戦アメリカGPでの 予選12位→決勝9位がシーズンベスト
230527 C.AMON 1974 30FW12C
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1975 16TH QUARTZO LOTUS 72E J.ICKX
イクス最後の2位はハーフポイント チーム途中離脱 LOTUS 72E 1975年 ジャッキー・イクスはロータス2年目 チームメイトはロニー・ピーターソン 基本設計が1970年であるロータス72Eでは 両ドライバ―とも如何ともできずに苦戦 イクスの唯一の入賞はR4スペインGP R・シュトルメ(チーム ヒル)が混乱の中 トップ走行中にリヤウイングが脱落 ガードレールに激突して観客席に落下 観客を巻き込む痛ましい大事故となり 全75周中29周でレースが終了 レースの消化が75%未満の為 史上初のハーフポイントとなったレースで 事故でのハーフポイントは現在まで唯一のGP (他のハーフポイントは雨によるもの) 結果これがF1生涯最後の2位表彰台 イクスの通算表彰台は25回 イクスはロータスのR10地元イギリスGP前に チームを離脱 この年は他チームでは走らず 翌1976年にウイリアムズからエントリー 更にシーズン途中でエンサインに移籍した #F1-1975年
230427 J.ICKX 1975 6FW12C
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1998 (25TH) PMA STEWART FORD SF-2 J.VERSTAPPEN
1998シーズン唯一のドライバ―入替 ヨス・フェルスタッペン STEWART SF-2 1998年シーズンは途中の ドライバ―入替があったのは スチュワートグランプリのみ ヤン・マグヌッセンがR6カナダで 初ポイントを獲得直後に契約解除 ヨス・フェルスタッペンに交代した 直前のテストでフェルスタッペンが 好タイムを出した事とFORDを含めた スポンサーからの意向が強かった為 フェルスタッペンは元々ティレルでの 参戦が有力であったがオーナー変更で リカルド・ロセットにシートを奪われた しかしSTEWART SF-2は戦闘力が無く 予選・決勝とも最高位は12位 完走も9戦中僅か3回でチームメイトの R・バリチェロと共に低迷した ヨス・フェルスタッペンは翌1999年は ポスルズウェイト率いるHONDAの プロジェクトのテストドライバー この入替のあった2人のドライバ―子息 マックス・フェルスタッペンと ケビン・マグヌッセンが2023年シーズに RED BULLとHASS所属で活躍しているとは この当時は全く想像できなかった #F1-1998年
230313 J.VERSTAPPEN 19 1/43FW12C
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1997 (23RD) ONYX SAUBER C16 PETRONAS G.MORBIDELLI
ジャンニ・モルビデリ F1ラスト SAUBER PETRONAS C16 イタリアのオートバイメーカーの モルビデリ社の御曹司のラストイヤー 1997年はフェラーリのテストドライバー フェラーリエンジンの関連で R6スペインGPでサウバー参戦 途中ケガで離脱もR11ハンガリーから復帰 R16日本GP鈴鹿の予選でダンロップコーナーで クラッシュして結果これがF1最後となった 7戦中6戦完走も入賞は無し 決勝最高は9位 🏁ジャンニ・モルビデリ (イタリア) 【決勝出走回数】67回 (入賞5回) 【予選最高位】 6位 1994年 アロウズ R1 ブラジル 【決勝最高位】 3位 1996年 アロウズ R16 オーストラリア
221121 G.MORBIDELLI 17 1/43FW12C
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1997 18TH PMA PROST MUGEN HONDA JS45 S.NAKANO
日本人フルタイム5人目 中野信治 F1デビュー PROST MUGEN HONDA JS45 父 中野常治氏も全日本F2参戦したドライバ― 中野信治はフォーミュラニッポンでの 優勝経験がなかったものの(年間6位が最高) 無限ホンダの後押しもありリジェと契約 しかし1997年チーム名がプロストに変わると 早々に翌1998年からエンジンがプジョーに 変更が発表されるなど立場が微妙になり ルーキーながらTESTもままならない状況 R7カナダGPでは7位走行中に チームメイトのO・パニスがクラッシュ 赤旗中断となりレースはそのまま終了 これにより6位に上がりF1初の入賞 R11ハンガリーGPでは E・アーバイン(フェラーリ)との激闘を制し 自身2度の6位入賞 年間2Pで順位は18位 中野は1年限りでプロストを離脱 翌1998年は開幕直前にミナルディのシート獲得 #F1-1997年
221120 S.NAKANO 15 1/43FW12C
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1980 15TH SPARK FITTIPALDI F8 E.FITTIPALDI
エマーソン・フィティバルディF1ラスト 最後の表彰台獲得 FITTIPALDI F8 スポンサーの変更により チーム名をフィティバルディとして 新たにブラジルの大手飲料メーカー アンベブのビールブランドの SKOLのロゴで参戦 R4アメリカWESTでは予選24位から 混戦を生き残り3位表彰台獲得 エマーソン最後の表彰台は通算34回目 その後R6モナコでの6位が最後の入賞 通算入賞回数は57回 この年限りでF1ドライバ―からは引退 1982年までチーム運営に携わった 1984年はスピリットでテストには参加したが F1には復帰せずアメリカの CARTシリーズに参戦した 🏁エマーソン・フィッテパルディ(ブラジル) 決勝出走回数 144回 予選最高位 PP(6回) 決勝最高位 優勝(14回) ファステストLAP(6回) 👑ワールドチャンピオン 2回 1972年 ロータス 12戦5勝 1974年 マクラーレン 15戦3勝 #F1-ラスト #F-1980年 https://muuseo.com/FW12C/items/988
221030 E.FITTIPALDI 20 1/43FW12C
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1964 21ST SPARK (REG PARNELL) LOTUS 25 BRM M.HAILWOOD
マイク・ザ・バイク M・へイルウッド 4輪転向 F1初ポイント LOTUS 25 BRM マイク・へイルウッド イギリス出身 バイクレースの世界でいくつものタイトル獲得 2輪レース界で実力ナンバーワン 天才ライダー 〖マイク・ザ・バイク〗の異名を取った バイクと並行して4輪にも挑戦 F1では 1963年ローラよりスポット参戦 1964年プライベター レッグ・パーネルで LOTUS 25 BRMエンジンでフル参戦 開幕のモナコグランプリで 予選16位→トップと4週遅れも決勝6位入賞 M・へイルウッドのF1通算入賞回数は10回 この年は入賞1回のみで年間21位 1965年のスポット参戦以降しばらくF1は休み 1970年代に本格的に4輪に転向 1972・1973年はサーティス 1974年はマクラーレンから参戦 生涯で表彰台2回 2位1回 3位1回獲得している #1964年
221019 M.HAILWOOD 36 1/43FW12C
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1983 (33RD) SPARK ARROWS A6 A.JONES
ワールドチャンピオン A.ジョーンズ 1戦限りのF1復帰 ARROWS A6 1981年限りで引退を表明 最終戦ラスベガスでの勝利をもって F1を離れていたアラン・ジョーンズ 1983年R2アメリカWEST ロングビーチで 突如C.セラに代わりF1に復帰します 予選12位はTMのM.スレール(16位)で勝るも 決勝は58周目に体調不良でリタイア スレールはシーズンベストの5位入賞 ジョーンズの1983年はこの1戦のみ 1984年は再びF1を離れて 1985年にハース・ローラで2度目の復帰 1983年アロウズのA6序盤戦は スポンサーが少なく 白ベースのマシンに F1ではあまり見ないアメリカのオイル VALVOLINE(バルボリン)のロゴが ロングビーチGP限定で大きく貼られている #F1-1983年 #F1
A.JONES 30 1/43 ARROWSFW12C
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1996 (17TH) PMA TYRRELL YAMAHA 024 U.KATAYAMA
1996年唯一の日本人ドライバ― 片山右京 ティレル最後の4年目 1996年は1974年から続いた カーナンバーチーム固定が無くなり 成績順のカーナンバーに変更になった 前年度チャンピオン所属チームがNo.1・2 以降はコンストラクター順に割振り これに伴いティレルは1974年以来の使用の カーナンバー3・4から18・19に変更となった 鈴木亜久里の結果的引退と 井上隆智穂の開幕直前の離脱により 日本人唯一のドライバ―となった右京 新車発表会でTYRRELL 024モノコックに 右京が沈み込んでしまうほど着座位置が悪く ステアリング操作に支障が出るという 最悪なスタートから苦戦が続き 途中失格挟み7戦連続リタイアと精彩を欠いた R12ハンガリーの予選14位→決勝7位が最高位 最終戦R16鈴鹿もリタイアでシーズン終了 モデルはMINICHAMPSとONYXの2社から発売 1996年モデルで上記の2社発売はティレルのみ 4年間ともに過ごしたYAMAHAと袂を分かち合い 翌1997年はYAMAHAはアロウズ 右京はミナルディに移籍する #F1-1996年 #Tyrrell #1996年
U.KATAYAMA 18 1/43 TYRRELLFW12C
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1995 (23RD) ONYX MINARDI FORD M195 L.BADOER
ルカ・バドエル 1年ぶりF1復帰 MINARDI FORD M195 1994年ミナルディのテストドライバー 1995年M・アルボレートの引退に伴い ミナルディのレギュラーシート獲得 前半のTMはP・マルティニ 予選・決勝とも互角の戦いで R6カナダGPの予選18位→決勝8位が最高 後半のTMはP・ラミー R10ハンガリーGPは予選12位 これはバドエルの予選生涯最高位 決勝も8位完走(ラミー9位完走) しかし後半戦はラミーに 予選・決勝ともに敗れる事が多く バドエルはミナルディのシートを失い 翌1996年はフォルティに移籍します ミナルディの量産モデルは1990年以来 ONYXより4年ぶりの発売 1991年~1994年までは (1991年のマルティニ車(IXO)除く) 未だに量産モデルは発売されておらず 空白の4年間になってしまっています SPARKさん是非とも量産化を願います! #1995
L.BADOER 24 1/43 MINARDIFW12C
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1979 16TH IXO SHADOW DN9 E.DE ANGELIS
エリオ・デ・アンジェリスのデビューマシン 弱冠20歳でのデビュー TMはJ・ラーマス 1977年イタリアF3チャンピオン 1978年イギリスF3モナコで優勝 1979年アンジェリスはシャドウと8戦の契約 開幕戦はD・オンガイス(アメリカ)の予定 しかし膝のケガもありアンジェリスが出走 予選15位→決勝7位の好スタートもあり 結局最終戦までアンジェリスがドライブ シャドウは資金不足で競争力の劣るマシン 予選 R9イギリスの12位が最高 決勝 最終戦のアメリカ東 予選20位から雨の中決勝4位で初の入賞 明記されていないがモデルは レインタイヤの為 最終戦仕様と思われる この入賞は翌年途中撤退するシャドウの チーム最後の27回目の入賞でもあった アンジェリスは堅実な走りと 紳士的な態度・プロ意識が目に留まり 翌年1980年は名門ロータスに移籍する #1979 #f1
E.DE.ANGELIS F1マシンコレクション 18 81FW12C