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1968 12TH QUARTZO BRABHAM BT24 J.RINDT
ヨッヘン・リント 初のPP ブラバム1年で離脱 BRABHAM BT24 1968年リントはブラバムに移籍 チームメイトはオーナーのJ・ブラバム R6フランスGP予選で自身初のPP リントのキャリアPPは10回 予選では2度のPPなど12戦中 ジャック・ブラバムに11勝と圧倒 決勝は2度の3位表彰台があったが それ以外の10回はすべてリタイア ジャックも入賞わずか1回 チームブラバムもわずか10ポイントで 前年度チャンピオンチームとは思えぬ低迷 リントは1年でブラバムを離脱 翌1969年はロータスに移籍 モデルはQUARTZO R3モナコGP仕様 予選5位→決勝リタイア 旧型BT24でのリントのラストレース BT24はこの後南アフリカのプライベーター チームガストンに売却 またフランク・ウイリアムズも購入 その後シルビオ・モーザーに渡り 1969年R10アメリカGPで6位入賞している ⏬BT24 GUNSTON https://muuseo.com/FW12C/items/1999?theme_id=34513 ⏬BT24 SILVIO MOSER https://muuseo.com/FW12C/items/1969?theme_id=34513
240226 J.RINDT 3 1/43FW12C
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1975 10TH SPARK SHADOW DN5 T.PRYCE
トム・プライス 初の表彰台3位 自身唯一のPP獲得 SHADOW DN5 1975年トム・プライスは前年後半に トークンから移籍したシャドウで レギュラーシートを獲得 チームメイトはジャン・ピエール・ジャリエ R3南アフリカより新車DN5が プライスにも与えられて R5モナコGP予選でフロントロー獲得 2度の6位入賞の後 R10イギリスGP予選 自身キャリア唯一となる ポール・ポジション獲得→決勝はリタイア R12オールトリアGPでは 予選15位から初の3位表彰台獲得 年間では5度の入賞 ランキングは10位 翌1976年はロータス移籍の噂もあったなか エースとしてシャドウに残留 モデルはスパーク オランダGP仕様 3位と表記されているが 当該GPは予選12→決勝は6位 ●GPの表記ミス オランダ➡オーストリア ●順位の表記ミス 3位➡6位 のどちらかと思われます
231226 T.PRYCE 15 1/43FW12C
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1992 9TH SPARK TYRRELL 020B A.DE.CESARIS
A・チェザリス TYRRELL 020B R15日本GP 鈴鹿 シーズンベスト4位 1992年ティレルはエンジンが ホンダからイルモアに変更 パワーは劣るものの軽量コンパクト設計が TYRRELL020にマッチしてチェザリスが好成績 R15日本GP鈴鹿では予選9位→決勝4位 4位は1992年のシーズンベストリザルト チェザリスは1987年~1993年まで 生涯鈴鹿には7回出走も入賞はこの1回限り チェザリスの生涯入賞回数は22回で この中では決勝リザルト4位が一番多く7回 モデルは大阪モデルガレージROMUの別注 昨年までティレルのスポンサーであった 日本信販がスポットでコックピット前と リアウイングサイドに同社のロゴが付き 元々リアウイングサイドのユーロスポーツの ロゴがインダクションポッド横に移動している 1991年より約2年半 41GP使用された TYRRELL 020シリーズの最後の入賞モデル
230205 A.DE.CESARIS 350 4FW12C
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1978 13TH PMA McLAREN FORD M26 J.HUNT
ハント最後のマクラーレン 北米シリーズ限定カラー McLAREN M26 1978年J・ハントはマクラーレン3年目 前年度後半3勝をあげたMcLAREN M26で シーズンを戦うもグランドエフェクトカーの ライバル車に遅れをとり一転不振に 開幕戦アルゼンチンGPでは4位入賞も その後は5戦連続のリタイア R9フランスGPの3位がこの年唯一の表彰台 結果これがハント生涯最後の 23回目の表彰台 35回目の入賞となった モデルは終盤2戦のアメリカ・カナダGP フィリップモリス傘下のミラー社が 販売するビールブランド レーベンブロイがスポットスポンサー マシンカラーがライトブルーとなりそれに合わせ ハントのレーシングスーツも水色になっている ハントはこの年でマクラーレンを離脱 翌1979年はウルフに移籍 最後のシーズンを迎える #F1-1978年
230126 J.HUNT 1978 2.448FW12C
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1978 14TH PMA McLAREN FORD M26 P.TAMBAY
パトリック・タンベイ マクラーレンに抜擢 McLAREN FORD M26 前年度 非力なエンサインで3度の入賞 その走りが認められてマクラーレンに 抜擢されたパトリック・タンベイ チームメイトはジェームス・ハント ニューマシンのM27の計画が頓挫したため 旧マシンの前年3勝をあげたM26で参戦も ハント共々苦戦を強いられた タンベイは5度の入賞 表彰台は無し 最高位はR8スウェーデンGPの4位 シーズン終盤アメリカ・カナダGPは フィリップモリス傘下のミラー社が 販売するビールブランド レーベンブロイがスポットスポンサー 2戦のみカラーがブルーに代わった モデルはR15アメリカWEST GP仕様 予選18位→決勝6位入賞 R16カナダGPのみ予選でハントに勝っている タンベイ17位 ハント19位 翌1979年もタンベイはマクラーレン残留 #F1-1978年
221217 P.TAMBAY 1978 1.656FW12C
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1970 12TH SPARK MATRA MS120 H.PESCAROLO
ル・マン24時間 4度制覇 H・ペスカローロ F1唯一の表彰台 MATRA MS120 1968・1969年 スポット参戦した フランス出身 アンリ・ぺスカローロは 1970年マトラで初のF1フル参戦 チームメイトはJ.P.ベルトワーズ ガソリンはエルフのオールフレンチ体制 前年度J・スチュワートでWタイトルを獲得 1970年は自社製のV12エンジンを搭載で 注目のMS120を導入したマトラであったが エンジンの信頼不足もあり成績は低迷 H・ペスカローロはR3モナコで3位表彰台 これはF1での自身唯一の表彰台 年間では8ポイント 年間順位は12位 チームもコンストラクター7位と惨敗 ぺスカローロは翌1971年~はマーチの車体を 使用するウイリアムズに移籍 ル・マン24時間ではマトラ シムカの車体で 1972~1975年まで3連覇を果たし 通算でも4度の制覇をしており さらに33回出場という最多記録所持者
221014 H.PESCAROLO 9 1/43FW12C
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1981 14TH PMA LOTUS FORD 88 N.MANSELL
ロータス フル参戦1年目 N・マンセル 失意の地元イギリスGP 予選落ち 1981年マンセルはロータスで初のフル参戦 TMはエリオ・デ・アンジェリス ロータスは可動式カウルを被せた ツインシャーシ LOTUS FORD 88を導入するも レギュレーション違反で決勝では走行できず R8イギリスGPでは冷却系などを プライマリーシャーシに移設した 改良版である88Bを導入するも結果は同じで プラクティスは走行できたものの 予選では使用できず マンセルはこの影響もあって 地元イギリスGPでまさかの予選落ち ロータスはシーズン途中でメインスポンサー エセックス石油のデビット・ティーメが 訴訟問題に巻き込まれてスポンサーを撤退 再びJPSカラーの漆黒に変更します マンセルは旧型のロータス81Bで R5ベルギーで初入賞&表彰台を獲得 年間順位は16位と振るわずもロータス残留 #F1-1981年
220918 N.MANSELL 1584 12FW12C
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1976 13TH MARCH FORD 761 H.J.STUCK
ハンス=ヨアヒム・シュトゥック ドイツ出身のF1界2番目の親子ドライバ― ヨアヒムの父のH・シュトゥックは 1950年代にF1に数戦スポット参戦 F1開始前の1930年代はアウディの前身 アウトウニオンチームのメンバーで ヒルクライムのレースではほぼ無敵を誇った 息子のシュトゥックは1974年よりF1参戦 1976年は3年目のマーチでフル参戦 開幕戦ブラジルで予選14位→決勝4位入賞 その後は完走が16戦中5回とマシンの 信頼性に苦しんだが3回の入賞を記録 1976年のマーチ参戦者5人中で最多入賞回数 ◆R16日本(富士SW)予選18位→決勝リタイア◆ モデル仕様の地元のR10ドイツGPでは シーズンベストの予選4位を獲得(→決勝R) ドイツリキュールのイエガーマイスターが スポンサーで印象的なオレンジのカラーリング 翌1977年マーチで1戦のみ出場後 カルロス・パーチェ亡き後のブラバムにて参戦
H.J.STUCK 1976 3.744 34FW12C
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1988 11TH SPARK WILLIAMS JUDD FW12 R.PATRESE
鉄人 リカルド・パトレーゼ ウイリアムズ本格参戦苦戦の初年度 1987年最終戦のみウイリアムズで出場 1988年はフル参戦1年目 この後自身最長の5年間同チームに在籍 TMはN・マンセル マンセル2戦欠場時は M・ブランドルとJ.L.シュレッサー 1988年はJUDDエンジンに変更と リアアクティブサスペンションの熟成不足で ウイリアムズは苦戦のシーズン パトレーゼの前半戦はモデル仕様の R3モナコの予選8位→決勝6位が唯一の入賞 リアアクティブサスペンションを 後半戦は撤回して成績が上昇 終盤3戦で5位 6位 4位と連続入賞も 完走率50% 入賞5回 年間順位は11位 パトレーゼは1988年でF1キャリア12年目 最終戦オーストラリアはF1参戦174戦目で 当時のF1最多参戦記録 J・ラフィーと G・ヒルが持つ175戦に残り1戦と迫っていた 1988年~1990年の3年間ウイリアムズは タバコのBARCLAYがスポンサー #1988
R.PATRESE 1/43 BARCLAY WILLIAMSFW12C
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1994 12TH PMA TYRRELL YAMAHA 022 M.BLUNDELL
1994年マーク・ブランデルはティレルに移籍 チームメイトはティレル2年目片山右京 R4スペイン カタロニアサーキット サンマリノ・モナコの事故を受けて タイヤバリアによる急造のシケインが設置 予選11位から上位陣の脱落にも助けられて ベストラップは14週目の全体10番目ながら トップと同一周回の3位表彰台を獲得 これはヤマハエンジンの初の表彰台であり ティレルにとっては最後の77回目の表彰台 ブランデルはヤマハエンジンの初ポイントも 1991年のブラバム時代に6位入賞で獲得 (画像8 ブラバムBT60Y R11ベルギーGP) 画像3ブランデルの直筆サインのフォト 何かのおまけで数種類から選んだのですが 何だったのか思い出せません 涙・・・
M.BLUNDELL 4 1/43 TYRRELLFW12C
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1991 10TH PMA BENETTON FORD B191 R.MORENO
#1991 #BENETTON #F1
R.MORENO 1.500 19 1/43FW12C
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1989 9TH SPARK TYRRELL 018 J.ALESI
#F1-1989年
J.ALESI 4 1/43 CAMELFW12C
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1984 13TH SPARK ALFA ROMEO 184T R.PATRESE
リカルド・パトレーゼ移籍 ベネトンカラーのALFA ROMEO 184T 1984年アルファロメオはスポンサーが Marlboro→イタリアファッションブランド benettonに変わりカラーもグリーンに変更 リカルド・パトレーゼはブラバムから移籍 チームメイトはエディー・チーバー R2南アフリカGPで4位入賞後は 7戦連続のリタイアでその原因の ほとんどがエンジン起因によるもの それどもR14イタリアGPでは 予選9位から3位表彰台を獲得 スポンサーのベネトン関係者を喜ばせた この3位表彰台は現時点における アルファロメオの最後の表彰台(26回目) パトレーゼは年間では3度の入賞 ポイントは8Pで13位に終わる モデルはSPARK R5フランスGP仕様予選16位→決勝リタイア なぜこのGP仕様なのかは不明… スパーク初期の発売の銀中台紙に 旧型のSPARKのロゴ
R.PATRESE 22 1/43 ALFA ROMEOFW12C
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1983 14TH PMA TOLEMAN TG 183 D.WARWICK
#1983
D.WARWICK 2.500 35 1/43FW12C
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1992 9TH ONYX TYRRELL 020B A.DE.CESARIS
1992年 チェザリスはティレルに移籍 チームメイトはO.グルイヤール エンジンはイルモアV10 この年は入賞4回含む8回完走 完走率50% 終盤5連続完走 公道アデレード予選7位など活躍 中嶋悟引退後もCALBEEが スポンサーとしてティレルに残り 個人的には プロ野球チップカード ならぬ F1チップカード を期待したのですが でませんでした #1992 #TYRRELL
A.DE.CESARIS 4 1/43 TYRRELLFW12C