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1973 11TH SPARK SURTEES TS14 FORD C.PACE
カルロス・パーチェ初の表彰台& ファステストラップ SURTEES TS14 前年ウイリアムズ(マシンはマーチ)で F1デビューを果たしたブラジル出身 カルロス・パーチェ 1973年サーティスに移籍 チームメイトはマイク・ヘイルウッド R4まではへイルウッドとともに すべてリタイアに終わり中盤戦も苦戦 R11ドイツGPでようやく4位入賞は 自身初のファステスト・ラップ パーチェのキャリア通算FLは5回 続くR12オーストリアGPでは 決勝3位自身初表彰台獲得 パーチェのキャリア表彰台は6回 連続でファステスト・ラップ記録 1978年まで参戦する チーム サーティスとしては 最後の表彰台(通算2回) 最後のファステスト・ラップ(通算3回) パーチェはこの年 フェラーリから 世界メーカー選手権(スポーツカー選手権) にも参戦している モデルはスパーク R12オーストリアGP仕様 予選8位→決勝3位 チームサーティスの象徴とも言える スポーツカーノーズの白い矢印と パーチェのヘルメットの黄色い矢印が マッチしている1台
240123 C.PACE 1973 2回FW12C
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1977 14TH PMA TYRRELL FORD P34 R.PETERSON
ティレル6輪 P34 2NDシーズン 苦戦のロニー・ピーターソン 1977年ティレル6輪 2シーズン目 マーチよりロニー・ピーターソンが移籍 パトリック・デパイユはチーム残留 P34はトップスピード向上のため エンジンまで覆うカウルを開発 FIRST NATIONAL CITYの スポンサーが付きコックピット周りは 白のアクセントのカラーに変更 移籍のピーターソンは6輪に馴染めず 開幕より4戦連続のリタイア R7ベルギーGPでシーズン唯一の表彰台3位 R15アメリカでFLを記録するものの 他の入賞は2回にとどまり年間14位 R17日本GPは予選18位 決勝は6周目にビルヌーブ(フェラーリ)と 絡みリタイアに終わる ピータソンは翌1978年はロータスに戻り これが最後のシーズンとなってしまう モデルはミニチャンプス 1977年のP34のモデルは 先にモナコGP仕様が発売され 後にGP仕様表記の無い仕様が発売された 珍しいパターンでフルカウルの再現と ドライバ―フィギュアが改良されている
231229 R.PETERSON 1977 1回FW12C
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1999 11TH PMA PROST PEUGEOT AP02 J.TRULLI
トゥルーリ初の表彰台2位 PROST PEUGEOT AP02 前年度チーム唯一のポイント獲得 1999年もプロスト残留のトゥルーリ チームメイトはオリビエ・パニス シーズン全体で苦戦が続き 前半戦の入賞はR5スペインの6位のみ R14ヨーロッパGP 荒れたレースでスチュワートが ジョニー・ハーバートにより初優勝 トゥルーリは同じくスチュワートの バリチェロを抑えて初の2位表彰台 トゥルーリの通算表彰台は11回 チームプロストとしては 1997年以来の2度目の2位で チーム最後の表彰台となった トゥルーリは7ポイントで年間11位 翌2000年はジョーダンに移籍 モデルはミニチャンプス 当時はプレイステーションで F1ゲームソフト Formula One 99が 発売されていた関係もあり サイドポンツーンに同社のロゴがある
231202 J.TRULLI 1999 19FW12C
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1999 12TH HOT WHEELS JORDAN MUGEN HONDA199 D.HILL
初の親子WC デーモン・ヒル引退 JORDAN MUGEN HONDA199 1999年ジョーダン2年目のデイモン・ヒル チームメイトはH・H・フレンツェン 予選・決勝ともフレンツェンに押されて 前半6戦での入賞はR4サンマリノの4位のみ R7フランスGP早々にシーズン限りの引退発表 その後R8地元イギリスで5位 R11ハンガリー/R12ベルギーの6位 年間では4度の入賞 7ポイント12位 最終R16日本GP鈴鹿でこの年のジョーダンの テストドライバーであった中野信二が 代役での出場も噂されたがヒルは 最終戦まで出場し最後はリタイヤに終わった 1996年に初の親子2代でのチャンピオンと なったデーモン・ヒルであったが その後アロウズ1年・ジョーダン2年の わずか3年で静かにサーキットを去った モデルはHOT WHEELS 1999年・翌2000年のジョーダンは HOT WHEELSでの販売となったが 後のジョーダンSETとして ミニチャンプスからも(画像5) ドライバ―フィギュアレスで発売された 🏁デーモン・ヒル (イギリス) 【決勝出走数】 114回 (入賞56回-表彰台42回) 【予選最高位】 PP(20回) 【決勝最高位】 優勝(22回) 【ファステストLAP】 (19回) 【WORLD CHAMPION】1996年
230904 D.HILL 1999 7FW12C
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1978 15TH SPARK TYRRELL 008 D.PIRONI
ディディエ・ピロー二 F1デビュー TYRRELL 008 ディディエ・ピロー二 フランス出身 1977年ヨ-ローッパF2 シリーズ3位 フランスの石油会社エルフの 強力なバックアップもあり 新人ながら名門ティレルよりデビュー チーム・メイトはパトリック・デュパイエ R2ブラジルGPで予選19位→6位 デビュー2戦目で初入賞を果たすと このGP含め5戦中4戦入賞と 新人らしからぬコンスタントな走りを披露 その後はやや低迷 年間では5位2回 6位3回で7ポイント15位 円熟期であったP・デュパイエは 1勝含む34ポイントと差が付いたが チームからは評価を得て翌1979年も残留 #F1-1978年
230120 D.PIRONI 1978 3FW12C
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1997 12TH PMA ARROWS YAMAHA A18 D.HILL
ワールド・チャンピオン D・ヒル アロウズ移籍 優勝目前… YAMAHA A18 1997年前年度チャンピオンのD・ヒルは トム・ウォーキンショー率いるアロウズへ移籍 エンジンはヤマハ タイヤはブリヂストン ヒル自身とアロウズにとっても初のCAR No.1 前半はヤマハエンジンの信頼不足やトラブル多発で リタイヤが続く厳しい戦いの中フェラーリから ジョン・バーナードが移籍してから改善 R9地元イギリスGPで6位初入賞 R11ハンガリーGPはシーズンベストの予選3位 決勝では途中2位に30秒以上離す独走状態 アロウズ・ヤマハ・ブリヂストンの 初優勝目前だったがトラブブルが発生 ファイナルラップに昨年チームメイトの J・ビルヌーブに抜かれて惜しくも2位 前年度チャンピオンの意地の2位表彰台は 現在でもアロウズとヤマハエンジンの最高成績 #F1-1997年
221103 D.HILL 1 1/43FW12C
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2007 12TH PMA BMW SAUBER F1.07 S.VETTEL
2022年 シーズン限り セバスチャン・ベッテル引退 4度のワールドチャンピオン 数々の史上最年少記録 連続優勝記録9回を誇る S・ベッテルが2022年限りで引退発表 ベッテルのデビューは2007年のBMW SAUBER 当時BMWのサードドライバ―を務めていたが ロバート・クビサのケガにより R7アメリカGPインディアナポリスでデビュー デビュー戦で 予選7位→決勝8位入賞 (TMのN・ハイドヘルド 予選5位→決勝R) 後に破られるも当時の史上最年少の 19歳349日での完走&入賞の記録を樹立 この活躍がレッドブルの ヘルムート・マルコの目に留まり 同年R11ハンガリーから姉妹チームの トロロッソのレギュラードライバーに起用 このミニチャンプスのモデルは 後のベッテルの活躍が予見できなかったのか 限定1.800と当時としてはかなり少ない 今後引退記念でデビュー&何とかセットと して販売される1台かもしれません #2022年ベッテル引退 #F1-2007年
S.VETTEL 1.800 10 1/43FW12C
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1981 15TH SPARK ALFA ROMEO 179C B.GIACOMELLI
アルファロメオ3年目 B・ジャコメリ 自身唯一の表彰台 ALFA ROMEO 179C 1981年参戦3年目の2期アルファロメオは ジャコメリのチームメイトとして マリオ・アンドレッティを迎い入れた 車体は前年度改良型の179Cで参戦 予選ではシングルグリットがあったものの 決勝ではリタイアが多かった ジャコメリの入賞はR14カナダで4位 そして最終戦R15アメリカ ラスベガス 予選8位→決勝3位表彰台獲得 モデル仕様 これは第2期アルファロメオの初 ジャコメリもキャリア唯一の表彰台獲得 年間15位 7ポイントもキャリアベスト アメリカ ラスベガスGPは1981・1982年の 2年間開催でシーザースパレス(ホテル)の 駐車場に作られた特設コース ヘアピンが多く中低速コーナーが続くコース ホテルの駐車場にF1レースのコース モデルはフロントウイングが劣化したが 勝手にレース仕様と思って良しとします ミニカーショップイケダで2014年購入 #F1-1981年 #ジャコメリ #ALFAROMEO
B.GIACOMELLI 23 1/43 MarlboroFW12C
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1996 12TH PMA SAUBER FORD C15 H.H.FRENTZEN
フレンツェン3年目最後のザウバー 新型ZETEC-R V10 SAUBER FORD C15 フォードは拘りのV8エンジンから 全面新設計の軽量・小型ユニット ZETEC-R V10を新シャーシC15に搭載 しかしシーズン序盤からパワー不足 ドライバビリティの悪さもあり苦戦 フレンツェンは雨のR6モナコGP R7スペインGPの2度の4位が最高位 最終戦は得意の鈴鹿で6位入賞 結局3度の入賞で年間は12位に終わる フレンツェンは翌1997年は チャンピオンチームのウイリアムズに移籍 フォードエンジンも新規参戦チームの スチュワートグランプリに奪われた ザウバーとしては成績もパッせず 挙句エースドライバ―とエンジンを失う 明るい話題に欠いたシーズンとなった 1996年シーズンよりマレーシアの 公営企業 ペトロナスがサポート 単なるスポンサーでなく 共同で新会社を設立して関係を強化 ロゴはバックが鮮やかなミントグリーン #F1-1996年 #F1
H.H.FRENTZEN 15 1/43 SAUBERFW12C
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1976 15TH SPARK SURTEES TS19 A.JONES
アラン・ジョーンズF1 2年目 サーティス F1世界選手権イン・ジャパン4位入賞 1976年A・ジョーンズはサーティスの レギュラーシートを獲得 ニューマシンのSURTEES TS19の投入が遅れ ジョーンズの参戦はR3南アフリカGPより 予選は中段下位の15位~20位前後も 決勝はジョーンズの粘りの走りで完走率71% R5ベルギーGP 予選16位→決勝5位 R9イギリスGP 予選19位→決勝5位 最終戦のR16富士SWでも予選20位ながら 雨の中順位を上げてこの時TMの高原敬武が 摩耗したタイヤ交換の為順位を下げると チームがタイヤをいたわるよう指示を出し 結果シーズンベストの4位入賞を果たす ◆R16日本(富士SW)予選20位→決勝4位◆ ジョーンズのマシンのスポンサーは コンドームの世界シェアの約25%を占める イギリスのdurex(デュレックス)社 R16富士SWでは後にF1にも参戦する THEODORE(セオドール) RACINGが スポットスポンサーで付き フロントウイングには香港名の 〖徳利賽車隊〗と大きく貼られている モデルもR16富士SW仕様で 背面台紙がTHEODORE RACINGの 特別ロゴ仕様バージョンとなっている #F1-1976年 #徳利賽車隊 #F1
A.JONES 1976 19 1/43FW12C
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1994 13TH PMA SAUBER MERCEDES C13 H.H.FRENTZEN
メルセデス三羽烏の最後の一人 ドイツ出身 ハインツ・ハラルド・フレンチェンのデビュー 前年の1993年は全日本F3000に参戦 チームノバ いわゆる森脇塾で指導受ける 開幕戦は予選5位と速さを見せ R2パシフィックGPで5位初入賞 R7フランスGPがシーズンベストの4位 R15鈴鹿は予選3位→決勝6位 当初はBROKERという名のスポンサーが ついていたが(画像2 ONYX)資金が支払われず 中盤よりスイスのスウォッチグループの TISSOTがスポンサーとなり(画像1) マシンにも時計が描かれている チームオーナーのペーター・ザウバーと 表彰台獲得でマシンをプレゼントするとの 約束が交わされ残念ながら表彰台はかなわずも 最終戦終了後 R2の5位入賞マシンを フレンチェンはプレゼントされている #F1-1994年
H.H.FRENTZEN 30 1/43 SAUBERFW12C
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1993 12TH PMA SAUBER C12 K.WENDLINGER
オーストリア出身のK.ベンドリンガー M.シューマッハ H.H.フレンチェンと メルセデス三羽烏と呼ばれた サウバー参戦準備のため1992年は マーチから終盤2戦を残し離脱 シーズンオフのテストでは ウィリアムズに次ぐタイムをたたき出した 序盤はリタイヤが続いたものの R13イタリア4位 R14ポルトガル5位 など4回の入賞でTMのレートを 上回る年間12位 7ポイント インダクションポッド横の 【JOOP!】はドイツの生活関連用品ブランド スポンサーが少ないこともあり 【!】のマークがすごく目立ちました LIGHTHOUSEのロゴが無い 序盤戦のモデルの方が サウバーC12の不気味さを 一層感じます #1993
K.WENDLINGER 29 1/43 SAUBERFW12C
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1993 11TH ONYX McLAREN MP4/8 MI.ANDRETTI
父はワールドチャンピオン マリオ・アンドレッティ 1991年インディ(CART)チャンピオンの マイケル・アンドレッティがF1参戦 開幕から他車との接触 スピンを繰り返し4戦連続リタイア R13イタリアGPが唯一の表彰台3位 次年度のインディ復帰の為 R13イタリアGP後チームを離脱 後にテストドライバーのハッキネンを 乗せる為チームに冷遇されたと語っている モデルはONYX 1993年マクラーレンはPMAとの契約の為 ONYXは版権が下りず FORMULA 1CARと表記 Marlboroやタバコ禁止バーコードも無し アンドレッティ車に至っては ヘルメットのデカールさえ貼っておらず 白マスクのプロレスラーのようになってます 🏁マイケル・アンドレッティ(アメリカ) 【決勝出走数】13回 (入賞3回) 【予選最高位】5位 1993年 McLAREN R2 ブラジル 【決勝最高位】3位 1993年 McLAREN R13 イタリア
MI.ANDRETTI 1993 7 1/43FW12C
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1982 14TH SPARK LOTUS FORD 91 N.MANSELL
#F1-1982年 #マンセル
N.MANSELL 1/43 John Player Special LOTUSFW12C
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1995 13TH PMA LIGIER MUGEN HONDA JS41 M.BRUNDLE
M.ブランドル 1年ぶりリジェ 最後の9回目の表彰台 1995年はリジェに鈴木亜久里と 併用という形での参戦 実際は17戦中11戦でブランドルが出走 エンジンは無限HONDA 予選はTMのO.パニスに8-3で勝り R11ベルギーで3位獲得 自身最後の9回目の表彰台 年間は7Pで13位(パニスは16P 8位) 2枚目のONYXはGITANESが 標準仕様モデル 台座の上部 通常はONYXのところが フラメンコダンサーの ロゴが印字されてます #1995
M.BRUNDLE 25 1/43 LIGIERFW12C